第31話 昏睡

 翌朝になってもオリアスが目覚める事は無く、変わらず深い眠りの中にあった。

 前の晩、殆ど眠れなかったヴィトルは早朝に主の寝所をおとなったが、侍医は暗い顔で首を横に振るのみだった。

 前日の取調べで、アロケルたち祐筆がアグレウスに命じられてヨトゥンヘイムの内情を探りに来た事の他に、行商人の娘に化けたイレーナが、第一王子ザガムの命令で、同様にヨトゥンヘイムの内情を探る為に送り込まれたのだと判明した。

 だが、オリアスに呪詛を掛けた者が誰なのかは、依然として謎のままだった。

 イレーナは平民なので、呪いは勿論、魔法を操る事自体、不可能なのだ。

 アロケルたち祐筆は貴族なので魔術が使える身分ではあるが、魔道具を持っていないので呪詛など不可能だと口々に申し立てた。

 捕らえられた全員が徹底した身体検査と持ち物検査を受けたが、魔道具らしき物は見つからなかった。


「気に入らんな」

 ヴィトルの報告を受けて、ギリングはいかつい顔を更に顰めた。

「アグレウスだけでなく、その長男まで間諜を送り込むようなマネをしておったとは」

「長男というとあれか、見た目だけ少し父者に似ているが、中身が腑抜けの奴か」

 横から無遠慮に言ったのはベルゲルミルだ。

「使者を送って詰問すべきじゃろう。何なら儂が直接出向こうか?」

「お前が怒鳴り込んだところで、シラを切られるのがオチじゃろう」

 ギリングの申し出に、不機嫌そうにスリュムは言った。

「行商人に化けた女なんぞ、そんな者は知らんと言って切り捨てるだけじゃろうし」

「じゃが祐筆で来た何とかいう女みたいな奴はアグレウスの息子じゃ。息子が自白したことを否定は出来まい」

「ヨトゥンヘイムとヘルヘイムの交流に貢献する為とか何とか言っておるんじゃ。同じ事をアグレウスも繰り返すだけじゃ」

「だったらこのまま放ってっておくと?」

 ギリングの言葉に、スリュムは視線をヴィトルに転じた。

「何か策はあるか?」

 問われたヴィトルは一呼吸、置いてから口を開いた。

「両名を捕らえ自白を得た事は、ヘルヘイム側には秘匿しておく方が良かろうかと存じます。そのまま両名がヨトゥンヘイムの内情を探っている振りを続けさせ、逆にこちらに都合の良い情報を流すのに利用するのです」

「その理屈はわかるが、ヨトゥンヘイムとヘルヘイムは戦をしている訳じゃないぞ」

「…戦になるかも知れん」

 横から口を挟んだギリングに、重々しくスリュムは言った。

「アルヴァルディに呪いなんぞを掛けた首謀者が誰かによっては、戦になる」


 スリュムの言葉に、部屋は重苦しい空気に包まれた。

 平素であれば戦と聞けばそれだけで子供のように喜ぶベルゲルミルでさえ、眉を顰めて口を噤んでいる。

 スリュムの言葉は、彼が首謀者としてアグレウスに嫌疑をかけている事を示しており、そうなればヨトゥンヘイムとヘルヘイム両国間の同盟は崩れ去る事になる。

 そして妃フレイヤを愛するスリュムに取って、それは苦渋の決断を強いられる事になるのだ。


「恐れながら」と、重い沈黙を破ってヴィトルは言った。

「今、何よりも優先すべきは、アルヴァルディ様に掛けられた呪いを解く事と存じます。ヘルヘイムから参ったアールヴ様の侍女によれば、ヘルヘイムにいる魔導師の協力を得られれば、呪詛を解く事が可能であるそうです」

「その魔導師とやらはどこにおるんじゃ?」

「それを調べるために、ヘルヘイムに使者を送るご許可を賜りたく存じます」

 ヴィトルはオリアスに随従して度々ヘルヘイムを訪問しており、廷臣の中に顔見知りもいる。

 彼らに使者を送って強力な力を持つ魔導師に伝手つてがないか尋ねてみる事を、ヴィトルは提言したのだ。

「……アルヴァルディが倒れた事は、表向きにはできんぞ」

「その事は伏せた上で照会するつもりでおります」

 スリュムは胸の前で組んでいた腕を解き、わずかに身を乗り出した。

「事情も話さずに魔導師を紹介しろと言って、良い返事が期待できるのか?」


 ヴィトルは微かに眉を顰め、視線を落とした。

 ヘルヘイムで魔導師は忌み嫌われる存在だ。

 表立って行動はしないだろうし、特に強力な魔導師ともなれば、存在そのものを隠しているだろう。

 だが今は、わらであってもすがらなければならない。


「……残念ながら期待はできませぬ。それでも、わずかでも望みがあるのであれば、それに賭けるしかございません」

 低く呻くように言ったヴィトルに、スリュムは「わかった」と、頷いた。


 ヴィトルは即座にヘルヘイムの廷臣数名に密使を送り、強力な魔導師の所在に心当たりがないか、尋ねた。

 使者を受けた廷臣たちは、それがオリアスの側近としての公式な照会なのか、ヴィトルの個人的な問いなのか訝しみ、探してはみるがそのような知己はいないので、期待はしないで欲しいと異口同音に答えた。



 使者の帰りを待つ間に、オリアスが倒れてから二日目の朝が明けた。

 オリアスは侍医や侍女たちが昼夜つききりで看護していたが、原因が病ではなく呪詛であり、深い眠りに就いている為に出来る事は殆ど無く、わずかばかりの薬湯を飲ませただけだった。


 ヴィトルは朝早くに主の寝所を訪れ、その枕元にひざまずいた。

 まだ夜が明けたばかりなので、王宮内はひっそりと静まり返っている。

 早朝の淡い光が、オリアスの白い横顔を青白く照らしていた。

 ヘルヘイムには密使を送った他にも書物や文献に造詣の深い者を何名もを遣わして呪詛に関する書籍を集め、文官たちに分析させているが、どのような魔道具を使ったのかわからなければ対処法も不明だというのがこれまでに判明した事で、呪詛を解く手がかりにはならなかった。


 ヴィトルはまばたきもせずに、主の整った横顔を見つめた。

 肌が蒼褪めているせいかぴくりとも動かず深い昏睡状態にあるせいか、オリアスの姿は作り物の様に思えた。

 作り物に見えるほど完璧に美しく、作り物に思えるほどに生気が感じられない。

 もしもこのまま目覚めなければ――その考えに、ヴィトルは心臓を締め付けられるような苦しさを覚えた。


 目を閉じると、まだ少年だった頃のオリアスの姿が脳裏に浮かぶ。

 天真爛漫で快活で、気の強いところもあるが優しい少年だった。

 文武両道の才に恵まれていたが驕る事無く努力を欠かさず、高貴な血筋でありながら下の者にも心を配り、国と民を愛していた。

 ヴィトルはオリアスこそが生まれながらの王であると迷い無く信じ、その『王』に側近く仕えられる事を誇りにも幸運にも思っていた。

 オリアスの乳母であるベイラも同じように感じ、オリアスの成人の儀の時には、立派に成長した姿に感動の涙を流したものだった。


 重く感じられる瞼をゆっくりと上げ、ヴィトルは再び主を見つめた。

 オリアスが目を開け、『心配をかけて済まなかった』と微笑する奇跡をヴィトルは望んだが、わずかに明るさを増した朝日に照らされたオリアスの姿は、前よりいっそう、作り物のような無機質さを感じさせるだけだった。

「私の王は、あなただけです」

 静かに、ヴィトルは呟いた。

 答える者はいなかった。



 その日もスリュムは息子たちを集め、ヴィトルから報告を受けた。

 ヴィトルは呪詛に関する分析を進めている文官たちからの報告をまとめると共に、ヘルヘイムの廷臣に密使を送った結果がかんばしくなかった事を告げた。

「医者は何と言っておるんじゃ?」

「残念ながら、医術ではいかんともし難い……と」

 ヴィトルの答えは予想通りではあったが、スリュムはそれでも眉を顰め、太い溜息を漏らした。

「結局のところ、魔導師を探す他に方法は無いのか……」

 文官からの報告では、魔道具を壊すか呪詛を行った当人が死ねば呪いが解かれる可能性が高いが、魔術の種類によってはそのどちらも逆に呪詛の解除を不可能にしてしまう可能性もあり、何より肝心の魔道具や術師の所在が不明ではいずれの方法も役に立ちそうに無かった。


 オリアスが行う筈だった領内の視察や豪族たちとの会議は、オリアスの体調不良を理由に延期されていたが、それがいつまでも長引けばオリアスの身に異常が起きている事が露見してしまうだろう。

 融和策を以って豪族たちを抑えていたオリアスの身に万が一の事があれば、たががはずれて豪族たちが再び反乱を企てる恐れがある。

 何より、王太子であるオリアスが跡継ぎを遺さずに世を去れば、ヨトゥンヘイム王家は後継者を失う事になってしまい、ヘルヘイムとの微妙な関係もあって、ヨトゥンヘイムの安泰が揺るがされる事となりかねない。

 互いを嫌悪するスリュムとアグレウスの仲を取り持ってきたのもオリアスであり、オリアスを喪う事は、両国間の平和に大きな損失となるだろう。


「アグレウスに魔導師を探させたらどうじゃ」

 部屋の中が重苦しい沈黙で満たされていたその時、口を開いたのはゲイルロズだった。

 滅多に喋る事が無く、どの会議の席でも発言などした事の無いゲイルロズの言葉に、その場にいた一同は唖然とした。

 が、ヴィトルの反応は他の者とは違った。

 オリアスが倒れて以来、心痛と不眠で頭にもやがかかったようだったのが、突然、明るい光が射したかのように感じたのだ。

「アグレウスにじゃと? アルヴァルディが倒れた事は外部には隠さねばならんし、何より奴が首謀者かも知れんのじゃぞ」


 問い質したスリュムに答える代わりに、ゲイルロズはヴィトルの方を見遣った。

 ヴィトルはゲイルロズに頷いてみせてから、スリュムに向き直る。


「極秘の密使を送るのです。フレイヤ様のご心痛を防ぐ為と申せば、アグレウス様も秘密を守るでしょう。そしてアグレウス様が首謀者で無ければ――首謀者であったとしてもそれを自ら認めるのでなければ――魔導師を探し出し、アルヴァルディ様に掛けられた呪いを解く事に協力する筈です」

 ヴィトルの言葉に、ゲイルロズは同意を示すように軽く頷いた。

 スリュムは髭に覆われた口元に大きな手で触れ、思案するように宙を見た。

「……悪くない案には思えるが、もしも首謀者がアグレウスで本気でアルヴァルディを仕留める気でいるなら、魔導師を探すと言って時間を稼ぐじゃろう。奴なら、その位の事はやる」


 黒い瞳に憎々しげな光を浮かべ、低くスリュムは言った。

 ヴィトルはわずかに思案して、すぐに口を開く。


「密使となる者がどのように交渉するかが重要かと存じます。アグレウス様が時間稼ぎをすればそれだけアグレウス様に対する嫌疑が強まることをはっきりと判らせた上で、それが脅迫とならぬように説き伏せなければなりませぬ。アグレウス様は自尊心の高い方ゆえ、脅迫されたと感じれば却って態度を硬化させるでしょう」

 スリュムは何度か大きく頷き、直ちに適任者を選んでヘルヘイムに向かわせるよう、命じた。



 ヴィトルはすぐにオリアスの側近である文官たちと、側近護衛官たちを呼び集めた。

 そして任務の概略と、その重要性・緊急性について話した。

「私に行かせて下さい」

 ヴィトルの話が終わるか終わらないかの内に言ったのは、ヒルドだった。

 オリアスに深い敬意を抱く彼女は、オリアスが倒れて以来、殆ど眠れぬ夜を過ごしていた。

 ヒルドが名乗り出る前から、ヴィトルは使者に選ぶのは妖精の血を引く者にしようと内心で決めていた。

 アグレウスはヨトゥンヘイムの者たちを野蛮だと見下しているので、まともに取り合わない可能性がある。

 その点で、妖精の血筋の者の方が、交渉には有利だと考えたのだ。

 だが、側近護衛官から密使を選ぶことは――この場に召集はしたものの――実際には考えていなかった。

 側近護衛官たちは武人であり、言葉を弄した駆け引きには不向きだからだ。


「ヘルヘイムに行った事も無い者には無理だ。私が行こう」

 言ったのは、オリアスの側近の文官の中でも最年長の一人だった。

「ヘルヘイムに行った事は確かにありませんが、アルヴァルディ様の為ならば喜んで生命を投げ出す覚悟が出来ています」

 必死の形相で言ったヒルドに、年長の文官は苦笑した。

「アルヴァルディ様の為に死ぬ覚悟など、ここにいる全員にある。必要なのはアグレウス様の性格や立場に関する知識と、それを利用して折衝する交渉術だ。剣を振るう力など、駆け引きの場では役に立たぬ」

 文官の言葉に、側近護衛官たちの間に緊迫した空気が流れた。

「その剣も振るえない文官に、自分の生命を賭ける覚悟があるのかねえ……」

 独り言のようにスルトがぼやき、今度は文官たちの間に緊張が高まる。


 文官と武官たちの間の張り詰めた空気を他所に、ヴィトルは誰を派遣すべきか、冷静に考えていた。

 年長の文官は確かに如才なく、交渉ごとに向いている。

 が、アグレウスのように自尊心の強い相手の前では、その抜け目無さが裏目に出る可能性が高い。

 その一方、アグレウスが多くの側室を侍らせている事は周知の事実だ。

 属国支配を容易にする為にその王女たちを側室としているだけでなく、側室の侍女や、アールヴの母リディアのような平民出身の者ですら、気に入れは後宮に引き入れるのだ。

 ヒルドのように若く美しい女が交渉に赴けば、こちらの有利となるかも知れない――


「ヒルド。そなたがヘルヘイムに行ってくれ」

 まっすぐに相手を見て、ヴィトルは言った。

 一瞬の間を置いて、ヒルドの顔に満面の笑みが広がる。

「ありがとうございます……! 必ず魔導師を連れ帰って、アルヴァルディ様に掛けられた呪いを解かせてみせます」

 年長の文官は意外そうな表情を見せたが、何も言わなかった。

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