第5話 アウィス

 アールヴの成人の儀の翌日、オリアスがアールヴを飛竜に乗せようとしている姿を、アグレウスは宮殿の露台から見遣っていた。

 アールヴは飛竜がどのようなものか全く知らなかったので、その姿を見てとても驚いている。


「これが、飛竜……?」

「そうだ。気に入ったか?」

 アールヴに問われ、オリアスは軽く笑って訊いた。

「そなたに贈ったのだから、これはそなたのものだ。名を付けてやるが良い」

「名前を付ける……?」

「そなたが呼びたいように、呼んでやれば良い」

 アールヴは暫く考えてから、「アウィス」と呟いた。

「アウィスか。良い名だ」

 言って、オリアスはアウィスと名づけられた飛竜の首の辺りを何度か軽く叩き、軽やかに身を翻してその背に乗った。

 そして、アールヴに手を差し伸べる。


 アールヴが躊躇っていると、アウィスがのそりと首をもたげて、その顔を主人に向けた。

 アールヴは驚いて二、三歩、後退った。アールヴの侍女たちが慌てて駆け寄ろうとするのを、オリアスは手を上げて止める。

 そのまま暫くの間、アールヴはアウィスの紅い目を見つめ、アウィスはじっとアールヴに顔を向けたままでいた。

 やがて、アールヴは微笑んで小さく頷いた。

 そして、オリアスの助けを借りてアウィスの背に乗った。


 飛竜がゆっくりと飛び立ち、飛び去ってゆく様を、アグレウスは苦々しく思いながら見送った。

 そして、オリアスが初めてアールヴに会った時の事を思い出す。

 それは、アグレウスがアールヴを宮殿に引き取ってから、数年後の事だった。



 ヘルヘイムの国境近くで隣国との小競り合いがあり、ヘルヘイム軍が出動したのだが、容易に勝敗が決まらなかった。

 それでオリアスがヨトゥンヘイム王都より駆けつけ、ヨトゥンヘイム駐留軍を率いて鎮圧に当たった。

 皇宮で弟を出迎えたアグレウスに、オリアスは思いがけない事を言い出した。

 アールヴに、会わせて欲しいと頼んだのだ。


『何故……と言うより、誰にあれの事を聞いたのだ?』

『母上だ。せっかく孫が生まれたのに、会わせてくれないと嘆いていたぞ』

 アグレウスは首を左右に振った。

『母上にお目にかけるほどの者では無い。身分の低い側室が産んだ子で、成人後は臣下に下すつもりだ』


 その時点では、アグレウスはアールヴに皇位継承権を与える事は考えていなかった。

 何の後ろ盾も持たなければ、将来側近となるような守役すらつけていない。


『それにしては、兄上は可愛がっているようだが?』

 その言葉に、アグレウスは眉を顰めたくなるのをこらえた。

 たまにしかヘルヘイムを訪れない割には、オリアスはヘルヘイム宮中の出来事を、よく知っている。

 アグレウスが数日に一度はアールヴの部屋を訪れている事を、どこかから聞き知ったのだろう。


『……ひどく臆病な子で、見知らぬ相手に会う事を恐れるのだ。もう少し成長すれば、落ち着いてくるだろうが』

『それは今まで離宮にいたせいでは無いのか?』

 オリアスの言葉に、アグレウスは口を噤んだ。

 アールヴを離宮で育てさせていた事自体は、秘密ではなかった。フレイヤにその事を問われ、答えた事もある。

 そしてその時にも、今と同じように臆病な子だからと言って、フレイヤに会わせる事をやんわりと拒んだ。


『……後宮で育てさせるには、母親の身分が低すぎた。だから離宮においたのだが、そなたの言う通り、そのせいで人見知りが一層、激しくなったのかも知れぬ』

『だがもう二十四、五歳になるのでは無いか? ヨトゥンヘイムの戦士ならば、とっくに初陣を済ませている頃だ』

 弟の言葉に、アグレウスは今度は躊躇わずに眉を顰めた。

『平民ならばいざ知らず、王侯貴族の子弟を成人もしていないのに戦地に送るなどと、野蛮な行いだな』

『母上に止められて成人まで戦に出なかったせいで、私はヨトゥンヘイムで臆病者呼ばわりされたぞ』

 軽く肩を竦めて、不服そうにオリアスはぼやいた。

『だが、兄上の子を成人前に戦地に送るつもりは無い。ただ、会わせてくれれば良いだけだ』

『しかし言った通り、臆病な子で人を恐れるのだ』特に男を、と、アグレウスは付け加えた。

『兄上の事は平気なのか?』

『私はあれの父だ』

『ならば、私もその子の叔父だから構うまい』

 名は何と言うのだ? と、整った顔に微笑を浮かべてオリアスは訊いた。

 見る者の心を和らげる、ある種、不思議な力を持った微笑だった。

『……アールヴだ』

『アールヴか。良い名だな』

 言って、オリアスはもう一度、笑った。

 このまま会わせずに追い返すのは無理だと、アグレウスは思った。


『父上……!』

 部屋を訪れると、いつものように満面の笑顔で、アールヴが駆け寄って来た。が、父の隣に見知らぬ男の姿を認め、立ち止まる。

 そして、不思議そうにオリアスを見つめた。

 オリアスはアグレウスが止める間もなくアールヴに歩み寄り、軽く背をかがめて視線を合わせた。

『そなたがアールヴだな。私はそなたの叔父のオリアスだ』


 微笑し、穏やかな口調でオリアスは言った。

 アールヴは何度かまばたき、アグレウスを見、それからまたオリアスを見る。


『おじ?』

『そうだ。そなたの父上の弟だ』

 鸚鵡返しに訊いたアールヴに、オリアスは答えた。

『おとうと……弟なら知ってる。きょうだいの事でしょう?』

『そうだ。そなたにも、兄や姉が大勢いる』

『え……?』

 幾分か驚いたように、アールヴは言った。そして、アグレウスを見る。

『父上、本当に?』


 問われて、アグレウスは頷いた。

 アールヴは視線を落とし、暫く考えるように黙っていたが、やがて口を開いた。


『きょうだいがいるなら……会ってみたい……かも』

『いずれ会わせてやろう。だが、今はまだその時では無い』

『会わせてやれば良いだろう。見たところ、兄上の言うほど人見知りでも無いようだ』


 オリアスの言葉に、アグレウスは軽い、苛立ちを覚えた。

 確かに、アールヴはオリアスの存在を恐れてはいない。


『それは相手がそなただからだ』と、アグレウスは言った。

『そなたは私に良く似ているし、それに――』

 途中で、アグレウスは言葉を切った。

 ――それに、そなたの微笑は見る者の心を和らげる力を持っている。恐れも憎しみも嫉妬も、全ての負の感情を溶かし去ってしまうのだ……。


 それはオリアスに特有の、不思議な力だとアグレウスは思っていた。

 第四王子フォルカスも、整った顔に人当たりの良い微笑を浮かべて、多くの侍女や、少なからぬ数の貴族の令嬢たちの心を惑わせているようだが、同時に少なくない数の者たちが、フォルカスを浮薄な八方美人と揶揄している。

 フォルカスの微笑は本心を隠す微笑であり、オリアスの微笑は心からの微笑だった。


『兄たちに会わせるのは早すぎるかも知れぬが、母上にならば会わせて構わないだろう。兄上と似ている上に女性にょしょうなのだから、アールヴが恐れる理由が無い』

『母上がこの部屋まで来られるのならば……な』と、アグレウスは言った。

『部屋を出れば護衛の兵士たちがいるし、何よりアールヴは人の多い所を恐れるのだ』


 身分の点から言っても、片足が不自由で出歩く事を好まない点から言っても、女皇フレイヤがアールヴの部屋を訪れる事など考えられなかった。

 身分の事を言うならば、ヘルヘイムの皇太子であるアグレウスや、ヨトゥンヘイムの王太子であるオリアスがまだ成人もしていない無冠のアールヴの部屋に足を運ぶのも、宮中の作法には反する。

 そしてヨトゥンヘイムの流儀に慣れ親しんでいるオリアスは、その事を全く気にしていなかった。

『……事情は判った。母上には、私から説明しておこう』

 そう、オリアスは言ったが、本心から納得したようには見えなかった。


 それから暫くの間、オリアスはアールヴと並んで長椅子に腰を降ろし、様々な事を語って聞かせた。

 アールヴがまだ見た事のない生き物の話、行った事の無い国の話、珍しい果物や、美しい花の話――

 元々好奇心の強いアールヴは、目を輝かせてそれらの話に聞き入った。


『……そろそろ時間だ。公務があるゆえ、戻らねばならぬ』

 やがて、アグレウスは言った。

『そうか。私はもう少し、アールヴと話をしている。今日はこちらに泊まるつもりでいる故、時間はある』

 兄を瞥見して、オリアスは言った。

 再びアールヴに向き直り、話を続ける。

 静かに席を立ち、アグレウスは部屋を出た。アールヴは、引き止めなかった。オリアスの話に夢中になっているのだ。


 無意識の内に、アグレウスは奥歯をぎりりと噛み締めた。

 オリアスがアールヴをこの短時間の内にすっかり手懐けてしまったのだと、認めざるを得なかった。

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