第2話 親王アールヴ

 アールヴに親王の称号を与えるのはアグレウスの望みでもあった。

 正確に言えば、アグレウスは末子に皇位継承権を与えたくなどなかった。

 アールヴに権力を与えたく無いと言うより、彼がそれを得る事によってすり寄ってくる廷臣・貴族たちの影響を嫌ったのだ。

 だが、親王の宣下がなければ、廷臣として出仕しない限り宮中には住めない。

 廷臣としての出仕はアールヴには荷が重かろうと、アグレウスは考えていた。


 アールヴに親王の称号を与えて欲しいというアグレウスの願い出に対して、それならばしかるべき後見をつけるべきだとフレイヤは答えた。

 アグレウスは適当な家臣をその任につけるつもりでいたが、彼の知らぬうちにフレイヤはオリアスと相談し、オリアスを後見とする事に決めてしまっていたのだ。


 ――これだからオリアスは油断がならぬ…。

 表面上は平静を装いながら、アグレウスは内心でほぞを噛んだ。

 オリアスは単なるヘルヘイムの第二皇子ではなく、ヨトゥンヘイムの王太子なのだ。

 これではまるで、ヨトゥンヘイムがアールヴの後見となるかのようでは無いか。

 そしてヨトゥンヘイムが後ろ盾となるのであれば、アールヴが次の皇太子となる可能性が現実味を帯びてくる。



 ヘルヘイムとヨトゥンヘイムは連合王国であるが、真に対等な関係という訳ではなかった。

 百年戦争の折、ヨトゥンヘイムは圧倒的な軍事力を以てヘルヘイムを蹂躙し、仮借かしゃくなきまでに叩きのめした。

 歴史ある大国であるヘルヘイムには多くの優れた魔道具があり、他国との戦ではそれが大いに物を言った。

 が、ヨトゥンヘイムの狂戦士ウルフヘズナルたちは、姿の見えぬ敵の位置を野獣のような勘で察知し、幻の洪水をものともせずに泳ぎ切り、痺れ薬や眠りの魔法は全く効かなかった。


 百年の抗戦の末、ヘルヘイムに残された道は無条件降伏だけだった。


 ヨトゥンヘイムの王スリュムがヘルヘイムの皇女フレイヤに一目で心を奪われたのでなければ、ヘルヘイムはヨトゥンヘイムの隷属国となっていただろう。

 スリュムはフレイヤを力ずくで奪う事も可能だったが、その美しい顔を悲しみで曇らせるのは彼の望むところでは無かった。

 スリュムは時間をかけてフレイヤの心を開かせようと、ありとあらゆる努力をした。

 やがてフレイヤは、ヘルヘイムとヨトゥンヘイムを対等な立場の連合王国とする事、二人の間に生まれた第一の男子をヘルヘイムの次の皇帝、第二の男子をヨトゥンヘイムの次の王とすることを条件に、結婚に同意した。


 だが、軍事力においてヨトゥンヘイムがヘルヘイムより遥かに勝っている事は明らかであり、多くのヨトゥンヘイム軍がヘルヘイムに駐留した。

 そして、フレイヤの死後までヨトゥンヘイム側がフレイヤとの契約を守る保証は、どこにも無い。

 ヘルヘイムで優雅さと気品を重んずる気風の中で育てられたアグレウスは、ヨトゥンヘイムの風俗習慣を野蛮なものとして忌み嫌い、スリュムをはじめとするヨトゥンヘイムの者たちも、アグレウスを軟弱なうらなりの気取り屋として嫌っていた。


 一方、ヨトゥンヘイムで育てられたオリアスは、ヨトゥンヘイム流の磊落らいらくさを身に着けながら、ヘルヘイムの皇族としての優美さと品格は失わずにいた。

 オリアスの気ままな振る舞いはしばしばヘルヘイムの貴族たちを驚かせはしたが、ヘルヘイムに駐留する野獣のようなヨトゥンヘイム兵を従わせる事ができるのはオリアスだけであり、百年戦争以降の幾つもの戦において、オリアスが率いるヨトゥンヘイム軍の働きが勝利に大きく貢献した為、ヘルヘイムにおけるオリアスの地位は、単なる第二皇子のそれを超えた重いものだった。


 そしてそれが、アグレウスが愛すべき弟を警戒し、危険視しなければならない理由だった。



 宣下が済むと、次々と祝いの品が運び込まれた。

 殆どは金銀財宝の類で、いずれも貴重で見事な品であったが、アールヴは興味を示さなかった。

 ただ祖母であるフレイヤからの贈り物が本であると知らされた時には、幾分か不思議そうな表情を浮かべた。

 そしてアグレウスは眉をひそめたが、それはほんの一瞬の事で、気づく者はいなかった。


「第二皇子オリアス殿下からの祝いの品は、飛竜でございます」

 廷臣が目録を読み上げた時、再び広間に軽いどよめきが走った。

「飛竜?」

 退屈な儀式にうんざりしていたアールヴは、好奇心いっぱいの目を叔父に向けた。

「まさか…それにアールヴを乗せるつもりではないでしょうね?」

 オリアスが口を開く前に、フレイヤが心配そうにいた。

「乗って飛ぶための竜だからな。当然、乗せる。特別に性質の大人しいのを選んだから案ずる事は無い」

 大人しいだけに飛ぶのが遅く、ここまで連れてくるのに想定外の時間がかかって儀式に遅れてしまったと、オリアスは続けた。

「それに着替えにも思いのほか手間取った。ヘルヘイムの服というのは動きにくくて大仰で面倒だな」


 ヨトゥンヘイムでは王侯貴族であっても、兵士とあまり変わらない服装をしている。

 王族貴族も戦士であるので、戦いに向く装束が好まれるのだ。


「…少なくとも、走るのには向かぬだろうな」

 葡萄酒の盃を手に、低くアグレウスは言った。

「ああ…。広間に駆け込んだのは済まなかった。久しぶりに母上と兄上に会えて嬉しかったから」

 屈託のない笑みを浮かべ、オリアスは兄の嫌味に答えた。

 その笑顔を見て、アグレウスは言った事を後悔した。少なくとも、それは母の前で言うべき台詞では無かった。

 フレイヤに取っては、二人はいつまでも仲の良い兄弟であり、その間には何らのいさかいもあってはならない。

 あるとしても、自分が悪者になってはならないのだ。



 祝いの品が一通り披露されると、料理が運び込まれ祝宴の開始となった。広間は、再び出席者たちの笑いさざめきに包まれる。

 そして奇妙な緊張は、儀式の始まる前より更に高まっていた。

 生母の身分の低い、そして知能に問題がある可能性のある皇孫の後ろ盾に将来のヨトゥンヘイム王がついた事が何を意味するのか、それがヘルヘイム宮廷の勢力図にどう影響するのか、何より、その流れの中で自分がどう振舞うべきなのか――

 様々な思惑を愛想笑いに隠し、貴族たちはこっそりと皇族の席の方を盗み見ていた。


「ザガム様…」

 側近にたしなめられても、ザガムは不満気な表情を変えなかった。

 と言うより、変えられなかったのだ。

 ――気狂いであれば幾らなんでも皇太子に指名される事はなかろうが、ただの白痴ならば或いは…。

 ヘルヘイム皇帝に統治能力のない者が就けば、ヨトゥンヘイムが好きなようにヘルヘイムを支配できる事になる。ヨトゥンヘイムに取っては、むしろ好都合かも知れない。

 それに、彼がそれまで見かけたことのあるアールヴは寝着のまま子供のように駄々をこねる姿ばかりであった。

 が、今日は正装に身を包み、一度アグレウスに駆け寄った他は大人しく椅子に納まっている。

 容貌に恵まれているおかげで、それなりに品があるように見えた。

 統治者とするには余りに頼りないが、傀儡かいらいの君主とするならば充分であろう。


 苦虫を噛み潰したような表情で、ザガムは葡萄酒の盃を呷った。向かいの席では、ダンタリオンが平静を装ってフォルカスと談笑している。

 その、余裕のある素振りが気に入らない。

 だが、今は平静を装うのが正解なのだ。


 同じ頃、アグレウスも自らの自制心と戦っていた。

 オリアスが、アールヴを飛竜に乗せてヨトゥンヘイムに連れていくと言い出したのだ。


「…あまりに急な話だし、何より危険ではないのか?」

 努めて穏やかな口調で、アグレウスは言った。

「私が一緒に乗るから危険は無いし、そう遠くに行くわけでも無い。ヨトゥンヘイムの王都は、飛竜に乗れば半日もかからぬ」

「だがアールヴは正式にヘルヘイムの親王の称号を得た成人皇族だ。それが他国を訪問するのであれば――」

「他国、では無いだろう?ヨトゥンヘイムとヘルヘイムは連合王国、つまり二人の君主を戴く一つの国だ」

 言って、オリアスは明るい翠の瞳でまっすぐに兄を見遣った。

 アグレウスは視線を逸らした。

「…いくらそなたが一緒でも、アールヴが飛竜が乗れるものかどうか…。何より長い時間、大人しくしていられないだろう」

「怖がるようなら眠りの魔法をかけて連れてゆく」

「それではまるで人攫いだ」

 思わず、アグレウスはぼやいた。オリアスは笑った。

「そうかも知れぬな。何しろ、攫ってでも連れて来いと、父上に言われたのだ」

「まあ、スリュム殿が…?」


 それまで心配そうに二人のやりとりを見守っていたフレイヤが、意外そうに言った。

 アグレウスの第一王子ザガムと第二王子ダンタリオンは、それぞれ成人の儀式の後に、ヨトゥンヘイムに祖父を訪問している。

 が、スリュムはザガムを『見掛け倒しの期待外れ』、ダンタリオンを『アグレウスの劣化版』と酷評し、第三王子マルバスが生まれつき病弱な事もあって、それ以降は孫に興味を示さなかった。

 それが、第五王子は攫ってでも連れて来いと言ったのだ。


「…そなた、アールヴの事をヘルヘイムの王陛下にどう話しているのだ?」

「とても変わった育てられ方をした、兄たちとは異なる資質を持った子だ、と」

 兄から目を離すことなく、オリアスは言った。

「…アールヴを離宮で育てさせたのは、あれを護るためであったと、説明した筈だが」

「非難はしていない。だが、護るためならば別のやり方もあっただろう?」

「そなたの言う別のやり方が、却ってあれを危険に晒す事にならなければ良いがな」


 不穏な空気に、フレイヤは哀しげに眉を顰め、俯いた。

 長い金色のまつ毛が、深い碧の瞳に影を落とす。


 彼女の上の兄はかつてヘルヘイムの皇太子であったが、何者かに毒を盛られて殺された。

 殺したのは皇位を狙った第二皇子の手の者だという噂が流れ、第二皇子は否定したが、第一皇子の妃の復讐の刃によって生命を落とした。

 歴史を紐解けばそれ以前にも、皇位争いによって暗殺されたと噂される皇族が何人もいる。

 歴史ある大国として、長く国外に敵を持たなかったヘルヘイムでは、その絶対的な権力と富を欲する者たちの内輪争いが絶えなかった。

 その上、高貴な血統を保つために血族結婚を繰り返した為に、生まれつき身体が不自由だったり精神に病を持つ者も見られるようになり、新興国であるヨトゥンヘイムに敗退するまでに零落したのだ。


「…そなたはどうなのだ、アールヴ。ヨトゥンヘイムに行きたいか?」

 これ以上、兄弟が諍う姿を母に見せない為に、アグレウスは末子に訊いた。

 その口調も表情もとても穏やかだったので、父と叔父のやりとりに不安そうな表情を見せていたアールヴは、元気を取り戻したかのように笑顔になった。

「行きたい。それに、飛竜にも乗りたい」

「高い空を飛ぶのだ。恐ろしくはないのか?」

「怖くない! 面白そう」


 こうなってはもう、譲歩するしかないと、アグレウスは内心で溜息をついた。

 いずれにしろ、ヨトゥンヘイム王が孫の謁見を望んでいるなら、逆らうわけにはいかない。


「…そなたが一緒に飛竜に乗る、ということは…」

 と、アグレウスは弟に訊いた。

「ああ。明日、私がヨトゥンヘイムに戻る時に一緒に連れてゆく」

「明日? せめて二、三日、泊まってゆけないのですか?」

 哀しそうにフレイヤは言い、オリアスは宥めるように母の手にそっと触れた。

「残念だが、少々やっかいな問題が起きていてな。早急に戻らねばならない」

 だがそれが片付けば、また会いに来ると、オリアスは約束した。


「…明日では何の用意もできぬな」

「一国の親王が他国の王を表敬訪問するのでは無い。ただ、孫が祖父に会いに行くだけだ。世話をする者もこちらで用意するから、侍女などの同行も不要だ」

 同行させるとしても、飛竜に乗れるような侍女はヘルヘイムにはいない。

「…では、三日以内にはこちらに返してくれ。成人したばかりなので、色々とやるべき事がある」

 オリアスは何か言いかけたが、一旦、口を噤み、それから「判った」と短く言った。

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