2089年11月、俺とあなたの逃避行

篠田石斛

2089/11/01 むかしばなし

「最期にひとつ」

 廃教会の崩れかけた十字架の前、追い詰められた吸血鬼は笑った。

「あなたに祝福を」

「呪いの間違いだろ」

 言うなり銀の槍で吸血鬼の喉を裂いたのは、カソック姿の青年だ。最早虫の息の吸血鬼を目の前にしてもなお、彼の青い目に油断はない。

「百年後か、二百年後か、いつか」

 ごぼごぼと口と喉から血をこぼしながら、濁った声で吸血鬼が言う。

「俺とあなたはまた会うでしょう。その時、今度こそ」

「死ね」

 憎悪と、それ以上の何かを込めた声で言って、青年が槍を吸血鬼の心臓に突き立てる。凄まじい血飛沫が上がり、吸血鬼が体の末端から灰に還っていく。

 しかし、最期。

「俺はあなたを手に入れましょう、カズキ」

 それだけ言い切って、吸血鬼は血の一滴、髪の一本に至るまで灰になった。

 1889年、ヴィクトリア朝末期の大英帝国。ロンドンの郊外に位置した、とある田舎町でのことだった。

 

 二百年後、2089年のロンドン。

 白昼堂々、墓地で土を掘る男がいた。ある墓石の前の地面をひたすら掘っている。湿った土を脇に積み、上等な仕立ての石竹色せきちくいろのコートも、この場にまるでそぐわない燕尾服が汚れるのも構わず、ただ掘っている。どう見ても墓荒らしなのだが、彼を咎める者は誰もいなかった。それどころか周囲はひっそりと静まり返り、人の気配ひとつしなかった。いくら墓地だと言っても静かすぎた。もしも男があたりを見回せば、この墓地が荒れ放題であることも分かっただろう。墓石の間は雑草だらけで生垣も伸び放題。供えられた花は枯れ果てて残骸と化し、随分長いこと誰も来ていないようだった。しかし、男はそんなことはお構いなしに、土を掘っている。

 墓荒らしは栗色の髪をした若い男だった。細面の顔と目尻の釣った双眸は、彼が極東の出身である事を示していたが、その肌は死人めいて白かった。耳の先は奇妙に尖り、鳶色の瞳の中心には紅の火が灯っていた。

 その顔には何の表情も浮かんではいなかったが、穴が深くなり、がつん、とシャベルが固いものに当たったところで、男は目を見開いた。シャベルを放り出し、膝をついて土を払う。それは朽ちかけた古い棺だった。男はまだ半ば棺が土に埋もれていることにも構わず、その蓋の縁に手をかけ、力任せに開いた。とても人間とは思えない力だった。

 中には、胸に手を合わせた、白骨化した遺体が一つ。

「ああ」

 男が蕩けるような――久しく会っていなかった想い人を見つめるような顔で、笑う。唇からは人ならざる牙が覗いていた。

「カズキ」

 呼びながら墓荒らしは棺の中に手を伸ばし、遺体の頭を撫で、そして躊躇ためらいなく持ち上げた。元は金髪だったと思われる髪が薄く張り付いた頭蓋骨は、あっけなく胴体から離れた。

 穴の底、己が暴いた死者の頭を愛おしげに掲げて、男は、吸血鬼は語りかける。

「カズキ。覚えていますか? 俺の祝福を。百年後か、二百年後か、俺はいつかあなたを手に入れる。今こそそれを果たしましょう」

 吸血鬼は目を閉じ、髑髏の口元に口づけした。

 傾いた陽光がちょうど、吸血鬼と死者の上に差した。この吸血鬼に陽光は効かなかった。しかし髑髏には奇怪な変化が起こっていた。腱が骨と骨とを結び、筋肉が覆い、そのさらに上をなめらかな若い肌が包んだ。骨としては残るはずのない耳も新たに生まれた。痕跡ばかりだった金髪は今や全盛期の勢いを取り戻し、襟足でくくれるほどの長さにまで伸びた。再生は喉仏の少し下まで到達して、そこで終わった。首の断面は肌に包まれ、血が吹き出すことはなかった。

 吸血鬼が口づけていた歯列はもう、生きた唇に代わっていた。吸血鬼が顔を離すのとほぼ同時に、首は、ぱっと目を開いた。冴え冴えと青い瞳。間違いなく、二百年前に吸血鬼を討伐した、あの青年だった。

「お、前」

 首は口をきいた。彼の顔の上で目まぐるしく、様々な表情と感情が踊るのを、吸血鬼は満足げに見つめていた。一方で吸血鬼は知っていた。この男の頭の回転が早いことを。

 果たして、一分もしないうちに青年の首は状況を理解したらしく、吸血鬼を睨みつけた。

「お前、何しやがった」

「カズキ、あなたは忘れていたでしょう」

 うっそりと笑い、歌うように吸血鬼が言う。

「俺は『たまさかの魔』、想定の外からやってくるもの、招かれざる客、思いがけず訪れる怪物! あなたは俺の祝福を一蹴してみせた。俺だってうまくいくとは思っていなかった。、今、俺たちはここにいる」

「うるさい黙れ。それだけじゃない、こいつは半端だが奇跡だ。奇跡なんてお前に使えるわけねえだろうが!」

「それは、まあ」

 バツが悪そうに吸血鬼『たまさかの魔』は目を逸らした。

「少しばかりよその力を借りましたが。まあ、それはそれで」

「殺せ」

 きっぱりと、カズキと呼ばれた首が言う。

「もう滅んだ世界に放り出されるなんて嫌だね。さっさと殺せ」

「おや、ご存知でしたか。まあ、そうですよね、大勢そちらに行ったでしょうから」

 周囲は静まり返っていた。それは死の静寂だった。墓場の外には廃墟の群れと化した街が広がっている。

「でも、ご心配なく。あなたの言うとおり、これは不完全な奇跡です。蘇生は首から上だけ、生存期間はきっかり一ヶ月。今日は2089年の11月1日です。今月末、あなたはまた死ぬ。それまで、俺と二人で過ごしましょう?」

「悪趣味なクソ野郎が」

「しょうがないじゃないですか、俺が復活できたタイミングが世界が滅んだあとだったんですから! さて、いつまでもこんな穴倉にいても、面白くないですね」

「どこにいたって同じだ、いい加減に――」

 なおも喚き散らすカズキの首を抱え、たまさかの魔はひょいと己が掘った穴から跳び出した。復活したばかりとは言え、吸血鬼としての膂力は相変わらず残っているようだった。

 たまさかの魔は全身の土を払い落とし、右手に不機嫌な顔をしたカズキの首を、墓石(Kazuki Edward Nishimuraとある)の隣に置いていた旅行用トランクを左手に携えると、そのまま歩き出した。荒れ果てた墓地を抜け、瓦礫の街へ、死んだ世界へ。

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