第6章 迷宮の心臓

 救助依頼を受けて仲間を置いて発ったルッツは、明け方には戻ってきた。

「もうあそこはだめだ。警備網は完全に機能を停止、流入した魔物の数は百をくだらん」

 ラルフが彼の元へ駆けつけたとき、すでに彼は背中に酷い傷を負っていた。革帯で縛った隙間から血を溢れさせながら、意識を失った少女を背負っていた。彼女は遺跡の調査員の一人で取り残されて救援を待っている二十七名の一人だった。

「この子以外は全滅だ」

 二十七名のなかには一般人を護衛することを考慮して配属された最高級の探索者たちがいたはずだ。そう簡単に全滅するわけがない。絶句したラルフに向かって、ルッツは笑いかけると体勢を崩した。口から血の泡を吐きだす彼に向かって、ラルフはたまらず飛びついた。肩を支えて背に背負っている女をおろし、彼の体を支えながら座らせようとする。はやく止血をしなければいけない。逸る気持ちとは裏腹に、血で手元が滑り上手くいかない。黒い革手袋を外し、素手で触れた。

「最後に言っておくが、霊剣なんて存在しない」

「いまどうでもいいです、そんなもの!」

 土気色の顔は笑みを浮かべ、乾いた唇から血の糸が垂れている。だが彼はその危うい状態で強くラルフの手を掴んで応急処置を止めさせた。零れる血が手を染めあげていく。

「俺は死ぬ。助からん。だけど……だけど……、言っておくことがある」

「死ぬなんてそんなこと言わないでください」

 事実を理解していても、心情的には決して肯定できない場合がある。いまがそうだ。奇妙な力を宿したルッツの隻眼と、ラルフは睨みあった。しかし刹那、顔を突きあわせようとした状態から、頭突きをかまされた。完全に予想外だったのでラルフは眩み、蹈鞴を踏みそうになって立ち止まる。ルッツは女を静かに降ろして、自らも座り込んだ。血を吸った衣服が重たく岩石に張り付く。荒涼とした砂漠の風が、血潮の匂いを舞い上げた。

「お前こそ冷静になれ。ここはどこだ? 迷宮の第二階層。大階段に辿り着くまで、二人を背負っていけるわけがないだろう。お前はこの子を連れて行け、俺のことは置いて行け」

「できません……! 死ぬって判ってるのに、置いて行けるわけないじゃないですか!」

「俺は死なない。ここで居残るだけだ、ラルフ」

 涙目になったラルフをルッツは手招きした。耳打ちするような姿勢をするよう指示され、ラルフは這うようにして彼の傍に寄った。

「いいか、まず聞け。霊剣の話だ。霊剣がないとばれたら、その存在に抑圧されていたものは動き出す。だから嘘を吐き続けなければならない。霊剣がないと知られてはいけない」

「知られては……いけない……」

「誰にもだ。誰にも、知られてはならん。誰が鬼なのか、判らないからな……。残念ながら、ここに辿り着くまでに霊剣と偽っていた装飾剣は折れた。でも霊剣はお前が託されたと言い張れ」

 ルッツの呼吸音によくない雑音が混ざっている。彼は幾度か咳き込むと、血を吐きだした。慌てて動こうとしたラルフの体を、彼は突き放した。

「行け。俺はここでやつらの時間稼ぎをする。俺がこうなったのはお前らのせいじゃねえ。俺が先行したからだ。……冷静になれ、ラルフ。お前もどうすべきか判っているだろう?」

 隻眼はラルフの目を迷いなく見つめていた。喉元まで出かかった言葉を飲みこみ、ラルフは頷いた。頷くことしかできなかった。心身喪失状態の女性を立ち上がらせて、穀物を背負うようにして抱えあげる。顔をあげてみれば女性はまだ年若く、恰好から推測するにおそらく学生で、残酷な目に遭ったことに同情するほかない完全な被害者だった。彼女はルッツを殺した原因だと詰れない、無様な様相を呈していた。彼女はルッツの元を去る時、ぼそりと呟くように問いかけた。

「なんで私のことを助けたの……」

「お嬢ちゃん、名前は?」

「……エマ」

 ルッツは荒い咳を繰り返しながら頷いた。

「エマちゃん、お前はまだ若いから判らないかもしれないけどな。これは俺の罪滅ぼしだ。俺は俺のためにあんたを助けた。だから勘違いすんな」

 それを聞いて突然、エマはこれまでのおとなしさが嘘のように泣きはじめて、ついには金切り声で叫んだ。

「私は助けてくれなんて一言も……! 一言も……ッ! わたしよりあの人を、助けてくれれば……!」

「それはできなかったんだ、そこまでの力を俺は……」

「頼んでないのに! それなのに、この……ッ!」

 エマの罵倒は止まらない。

 ラルフが駆け足になり、ルッツの姿が見えなくなるまで続いた。エマの口を閉じさせることなどラルフにとって造作もないことだったが、ルッツがそれを望まないだろうことを想像するとできなかった。なによりラルフ自身が彼女に共感していた。どうして見ず知らずの人間を、自分の身を犠牲にしてまで助けようとするのか。他人のことばかり優先させるくせに、ルッツに置いて行かれる者のことを考えてくれないのか。彼の掲げる理想の内には、いつも彼自身の犠牲が下敷きになっていた。そして今回はその犠牲のために死ぬ。――愚かなことだ。

 少女の罵倒を聞いているうちに無力さだけが増していき、悔しくて惨めで何度も血に塗れた手を握りこんだ。

 やがて二人は特別編成されたばかりの救助隊の助けにより地上へ生還した。だがラルフの手にこびりついた生温く粘ついた血の感触は、どれだけ手を洗っても消えなかった。



 ラルフは静かに迷路の回廊を歩いていた。記憶が戻ったことで、今歩いている場所の見当はついている。ここは子供らに魔結晶の破片を埋め込む実験施設。自分は六年前に誘拐された一人。いま共に暮らしている人間はその誘拐に関わっていた人物。自嘲したくなるほど茶番じみた状況だった。

 路は六年前とは違っているが、もはやこの場所はラルフにとって迷路とは呼べない。水滴が伝う壁を触りながら、暗闇の中を進む。そのうち見知った場所に行きあたる――見知った棺の並ぶ、場所へ。

 そのときひらりと、ラルフの背後から通路へと飛び出した人物がいた。男子じみた短い銀髪と、かすかな足音。黒っぽいドレスの裾がひらりと舞いあがって白い足が見えた。

 見間違うはずもない、大切な人。

「久しぶりだな、ユーディト」

 ラルフは棺の群れの間を通り抜けた幻影に、苦笑いして頭をさげた。疲労困憊の体は歩くだけで限界を感じていて、武器となるようなものすら持っていない。ラルフを先導するように歩きはじめた彼女が、魔物だとしても抵抗する手段がなかった。警戒しながら彼女を見つめると、彼女はそんな様子が可笑しかったのか鼻で笑った。

 ユーディトは記憶となんら変わらない子供の姿で、亡霊のように薄灯りを纏い、冷笑を浮かべている。

 ――「ねえ、わたしたちが迷宮へ潜った理由を憶えている?」

 聞き覚えのある質問に、ラルフはこれが記憶の再生だと思い至った。古くから死人と会えるのは夢のなかだけだと決まっている。いま目の前にいるようにみえるのは毒の幻覚作用だろう。

 ユーディトは死んだ。

 ヴァイスに、殺された。

「いいや、憶えていない」

 ――「迷宮の核はどんな願望も叶えてくれる。わたしたちは願いを叶えてもらいにやってきたの」

 迷宮の核。幼い声音が告げた言葉がきっかけとなりラルフは思い出す。迷宮の核を巡る冒険は、幼いときにラルフが好んで姉にせがんだお伽噺だった。迷宮の最奥には迷宮を維持している巨大な魔結晶があって、その魔結晶は魔術師ではなくてもどんな人間の願望をも実現する力を持っている。無限の力に憧れて、ユーディトとラルフは両親を殺した後、無謀にも迷宮へと潜ったのだった。

 ――「でもわたしたちを待っていたのは意地の悪い魔女だった」

 ユーディトのいう通りだ。迷宮に潜ったあと、寓話の兄妹よろしく二人は悪人に出会った。そこで仮初めの居場所を与えられながら、いつかを待って養殖されていたのだった。獰猛な昆虫が、ほかの昆虫を飼育して肥え太るときを待っているように。いままで見てきた嘘のなかでも最高の、吐き気のするような偽りだ。

 くすくす、とユーディトは笑う。ラルフは曖昧な顔でそれに応えた。

 そしてふとユーディトが立ち止まる。冷ややかな目つきで棺を見下ろして、呟く。

 ――「ラルフは願いを叶えて後悔している?」

 ラルフも立ち止まった。

 願いを叶えてもらった記憶はない。否、単に忘れているだけだろうか。

「……記憶が完全じゃないな」

 あの日あったことすべてを思い出したわけではない。ラルフはユーディトの横を通り過ぎた。彼女は棺を見つめたまま、ラルフを追ってこなかった。


 端から端まで歩き、傍目にはなんの変哲もないように見える壁に手をつく。一体なんの素材なのか、磨き抜かれた壁はラルフの姿を反射している。血の気がなく、唇すら青白い自分の顔。見ていたくなくて目を伏せて扉を開けるための呪いを唱えた。

 扉がゆっくりと開いていく。露わになったのは、白い光に照らされた石造りの巨大な螺旋階段。最下層の第五層には、絶対に存在しない大階段だ。

 呼吸を整えて慎重に階段を降り始めた。階段には塵一つない。頻繁に誰かの出入りがある。迷宮に対して恐怖を感じたのは随分と久しぶりだった。笑おうとして、唇が引き攣る。素手であることは、もはや諦めていた。武器を持っていようが戦闘に耐えられる身体ではない。せめて真実を知るために、この先へ進もう。

 ルッツがラルフに託そうとした、偽物の霊剣の真実を。


 最下層の空は真紅だった。ラルフは天を仰いでから、眼下に目を戻す。階下に広がっていたのは庭だった。木々に囲まれた花園だ。緑の芝生と鮮やかな蒼い花の群れが目に眩しい。生垣の隙間からは小鳥の囀りと、子供が歌う童謡が聞こえてくる。なんの脅威も観測できない、童話に出てくるような場所だ。安穏とした空気にラルフは逆に警戒を強めながら、階段をすべて降り終えた。柔らかな芝生に、靴底が触れる。

 暖かな風が凪いだ。

「よく戻って来た、神に愛された子よ」

 唐突に背後で聞こえた罅割れた声に、ラルフは肩を震わせ振り返った。背後には降りてきたはずの階段はなく、赤い空を背景に立つ老婆がいた。化かされているような気分になりかけたが、深く考えてはいけない。ここは魔物の楽園である。魔物は楽園を望むまま跋扈できるのは当然だ。

 ラルフは機敏に老婆から距離を置いて様子を見た。

 皺の刻まれた、しみだらけの顔から感情を読み取るのは難しい。白濁しかけた金色の目はラルフにのみ注がれている。漆黒の道着は記憶そのままの不気味さだった。

「儂のことを覚えているかね?」

「……マーテル、迷宮の化物だ」

「否。お前さまの母親。お前のような悪魔にこの世で唯一愛情を注ぐことができる母親じゃ」

「なにが母親だ……。おまえらは子供を誘拐して人体実験を繰り返している。寓話の魔女より悪辣で、快楽殺人鬼より救いようのない集団だろうが」

 意図せず、声が上擦った。老婆は悠然と頸を振り否定した。

「すべては我らにくだされた天命、すべての被験者は選ばれた子」

「…………」

「それなのに大事な母親を捨て置くとは、お前さまは一体どういう……。儂が教育係ならばもっと……は優しすぎて……」

 老婆は不明瞭な声で愚痴を吐露した。しばし悪態を並べたてたあと、ラルフに背を翻す。

「おいで、儂らの女主人が待っておられる。そこでお前の沙汰が取り決められるだろうよ」

 老婆は生垣を進みはじめる。その小さな背をラルフは不安定な足取りで追った。

「あっ、マーテル! 後ろの人はだれ?」

 同じような緑の迷路を進んでいると、子供が人の気配に気づき近寄ってきた。皆で六人、それぞれ半魔の証拠である紅い脈動を肌に浮かせており、天使めいた翼や羊の角、蛇の鱗の皮膚、蟲に似た触角と目を持っていた。

 なにもしらない彼らはラルフに無邪気に手を伸ばしてくる。ラルフは咄嗟にその手を払いのけた。半魔に触れられるなど怖気がした。子供たちはラルフの拒絶に傷ついた顔をし、マーテルを仰いだ。幼い子供が判断に迷ったときに、背後に控えた親の顔を窺うときの動作だ。罪悪感が湧いたが、それは吹けば飛ぶような薄い感情ですぐに失せた。

 マーテルは子供を背後に庇うようにしながら、ラルフを睨みつけた。

「こやつは皆の兄にあたる人物じゃ」

「でもお兄さん、病気には見えないけど……」

 少年は自らの腕、その砂のような肌を撫でる。老婆は平坦な声で答えた。

「病気を克服したからな。これから巫女に会いに行くのじゃ。ほら、退いた、退いた」

 子供たちは曖昧に返事をしながら散って行った。彼らを見送ってから老婆は歩き始めた。ラルフも左右に傾ぐ身体を支えながら、必死について行く。

「アレは病気じゃなくて、魔結晶の拒絶反応だろう。嘘を吐いているのか」

 これまで得た情報を統合してみるに、棺の中へ収納されていたのは魔結晶の拒絶反応が強すぎて人間としての理性すら崩壊させるに至った検体である。

「儂らも失敗から学んだ。記憶を改竄するのはやめにしたのだ。それに子供に恐怖を植え付けるのは我らの本意ではない」

「じゃあ、あんたたちの目的は一体なんなんだ」

「儂らの目的は決まっている。主人のために儂らができることなど数少ない」

 芝生は柔らかな土へ、花の薫りは失せて森の湿った空気へと変わる。露根を避けながら、褐色の岩を利用して斜面を昇って行く。すると朽ちかけた神殿の円柱に囲まれた、老齢だと思われる大樹が見えてきた。老婆は慣れた様子で、大樹の下へと近寄って行く。ラルフは岩石に足をかけたまま、大樹を見上げた姿勢で立ち止まった。

 木の上に紅色を帯びた結晶が絡まっている。――というより、魔結晶を支えるために大樹が存在しているかのように見えた。これまでラルフが見てきた魔結晶と目前に存在する魔結晶を比べれば、いままで手にしたのはすべて小石だったと断言してもよいほど巨大である。そしてなによりその真紅は美しい。

 四面体の側面は空の色を映し、内部で赤々と燃える炎は不屈の生命力を予感させる。紅玉よりも、金よりも、どんな美術品よりも――強靭かつ凶悪な紅。

 視線が魔結晶に釘づけになり、ほとんど衝動的に身体を動かしていた。一歩、二歩、岩石を伝い近づいて行く。身体の状態も忘れて、無心でラルフは斜面をよじ登った。これまでなりを潜めていた飢餓感が疼いて喉が鳴った。

「綺麗でしょう? これが迷宮の核だよ」

 凛とした声にラルフがふと我に返る。いつの間にかラルフは樹の根元まで辿りついていた。声の主もラルフと共に魔結晶を見上げている。

 再び会えるときを待ちながらも、こんな場所での再会は望んでいなかった、その人。

「アリサさん、やっぱり……」

 半ば予期していたことではあったが、実際そのときになればどのような反応をしてよいか判らない。困惑してみせたラルフにアリサは、悪戯っぽい顔をした。

「たった一週間程度、見ない間になんだか顔付きが変わったね。そろそろあたしのことも思い出してくれたかな?」

 アリサは微笑んでいるものの、金色の目は笑っていない。彼女が身につけているのは異装――祭祀に使うような、赤と黒の道着である。皮手袋を嵌めた手に握られているのは鎖の巻き付いた悪辣な槌。腰にはいつか見た細剣。銀髪は後頭部に一つに纏め上げられ、細く編まれた三つ編みで趣向をこらされている。もはや化物であることを隠そうとはしていない。彼女の姿からは殺気が滲んでいた。

 ラルフは後退し、出方を窺った。ラルフがどうあがこうと彼女は殺せない。魔物を相手にしたときの勘がそう告げている。

「ん、その様子を見る限り、断片的にってとこかな。さて答え合せの時間だ。状況はどこまで判っている?」

 アリサは超然としていて、焦燥や緊張を抱いていないとみえる。彼女の持つ武器の威力は未知数、アリサの実力も未知数、対してラルフは筋肉が弛緩し朦朧としている状態である。どちらに分があるかは一目瞭然で、改めて考えるまでもなかった。観念して訥々と話しはじめる。

「俺は六年前に誘拐された」

「誘拐なんて人聞き悪いけど、まあ、そうだね」

「ここへ姉と閉じ込められた。姉が死んで違和感を持った俺は、施設へ火をつけた。厨房から盗んだ火と、アメリィの力を借りて」

 アリサの背後に佇立していた老婆が、アリサに対して咎めるような視線を送ったのが見えた。しかしアリサは気付かないふりをして、言葉の続きを促す。

「だいたい合っているね。それから?」

「逃げ出すついでに俺はユーディトの棺を開けた。それが引き金になって、ほかの化物たちが起きだした。その混乱の最中で俺たちは脱出した。ここでも魔術師を頼って、地上へ出た」

「それ以外はないのかな? たとえばあたしの正体とかさ」

「…………」

「そっか、じゃあ話を変えよう。あたしがあげたお守りにはね、追跡探査魔術がかけられていて、あれを持っているかぎりラルフの居場所が解るようになっていた。けれど少し前、ちょうど魔物誘導で探索者たちを襲っていた者たちが出没していた階層で君の行方が追えなくなった」

「……だから焦っておって来たんですか」

「そうだよ」

 アリサは笑った。

「ラルフ。あたしは知っているよ。以前にも何人も殺してきたでしょ、見殺したり、正当防衛だったり、襲撃の助力とか様々な理由があったけれど、あんたはなんの躊躇もせずに人を殺せた。魔物の毒を注入された人間を、まだ生きて動いているうちから、助からないと見切って殺したこともあった。殺害したあとには罪悪感すら抱かなかった。死体を埋葬したあとには、顔すら思い出せなかった。まったく無情だね、人の心がないね」

 アリサは真実を言い当てていた。反駁する隙もなく、自身の悪魔的な側面を恐怖していたのは他の誰でもなくラルフ自身だ。ルッツの死ですらなんらかの感動を与えてくれさえしなかった。アメリィやヴェルマ、フロレンツに至っては、自ら手にかけたようなものだ。

 死に触れるたびに己の浅薄さ、胸の洞の存在を強く感じるばかりで、なんの慨嘆も抱けない。もう自分はだめなのではないだろうか――その疑いは歳を増すたびに濃くなるばかりで、ルッツを見殺しにしてからはとうとう確信へと至っていた。

「ラルフは罪を犯したね。判るでしょう? 君は普通の世界じゃ生きていけない」

 血の気を引いた様に、彼女がかすかに笑ったのが耳についた。

「あたしはラルフが犯した罪を誰よりも知っていて、でもだれよりもあんたを肯定してもいいと思っている。ラルフは間違ったことをしていないよ。ラルフの願いは間違いじゃない。その果ての犠牲だって間違っていない」

「……何が言いたいんですか」

「ううん、だからね、わたしは、わたしだけはその罪を赦してあげる」

 細い頸を絞めた感触が蘇る。アメリィの笑顔が脳裏をよぎった。

 頭に血が昇る。激昂するとたちまち眉間あたりで光が眩んで、足元が傾いた。意図せず拝跪するような姿勢になりながら、ラルフはアリサを見上げた。

「ふざけんな……! そんなのは……そんなの……ッ!」

 彼女の眼差しには憐憫が含まれていた。不快で仕方ないが、当然の罰でもあった。

「わたしはラルフを愛しているのよ。愛している人の行動を全肯定してなにが悪いの? なぜ怒るの?」

 不思議そうな様子に虚脱感に見舞われ、しかし憤怒は冷めない。

「なぜって……それは、決まって……、決まっているじゃないですか!」

 記憶を取り戻すまで、アリサと再び会えた暁には好意を告白しようと思っていた。アリサを幸せにしてやりたかった。でもその願望は彼女の本当の姿を前にして、今度こそ失せた。

 ラルフは自らを善良な人間を自負していたわけでもない。かといって人間を断罪することが許された神罰代行者だと妄想を抱いていたわけでもない。

 それなのにアリサはその罪を受け入れると言う。ラルフがすることなら肯定してくれるという。

 唐突に泣きたくなった。いままでアリサに捧げてきたが感情が裏返しになり、腹立たしいやら憤りを覚えるやらで、自分の無様さが可笑しい。

「――余計な世話なんです、そんなのは他人に言われて納得していいものじゃない……!」

 ラルフが求めていたのは、決してそんなものではなかった。誰にも赦されなくていい。全肯定なんてされなくていい。アリサが傍にいてくれさえすればよかった。それだけで救われたのに。

 泣き笑いをはじめたラルフに向かって、アリサはかぶりを振った。そして我儘を言って泣きつかれた子供を諭すように語り始めた。

「なんだか子供の行動を全肯定したがる親みたいで幻滅するかな。わたしは子どもを産んだことはないから、本当の親心なんて判んないけど……」

「………………」

「わたしはね、迷宮の王の妻となることを求められて造りだされた。つまり人間とは姿形が似ているけど種族が違うの。どれだけ好きな人間がいても、子供ができないんだ。わたしたちは王が消失してから、ずっと、人間たちと馴染めず苦しんできた。交われればもっと自然な形で交流できただろうと思うけど、無理なものは無理だった」

 神話のなかには神が造りだす巨人や妖精なども登場する。そのあたりのことも含めて考えるならば、突飛な話ではないのかもしれない。理解の追いつかない話ではあるが、彼女の言いたいことは解る。

「……だから、魔結晶を埋め込んで、交配できる種族を作ろうと誘拐を繰り返しているんですか?」

「ううん。わたしたちたちは何千年と生きられる。いまはまだ種の保存に悩むような時期じゃないし、王妃という役割である以上そのあたりのことは疾うに諦めがついている」

「じゃあなぜこんな惨くて、歪な実験場を?」

「実験じゃない。これは効率よく供物を集めるための仕掛け。わたしたちのために働く軍隊を作る過程だよ。魔物は地上へ出られないけど、人間が元である彼らはその欠点を持たない。彼らには地上で働いてもらう。我らの主の復活を遂げるために」

 ――迷宮は神話空間を再現している。それなのに神の存在は、遺跡の壁画にしか残っていない。名前も記されていなければ、姿形の記述もない。煙のような存在。

 ――迷宮は神域だ。神域であるからには、古代の神の信者は迷宮を荒らす人間を嫌がるはずだ。

 ずっと不思議に思っていた疑問を併せて考えるに、蘇らせたい仲間とはつまるところ。

「アリサさんの目的は……神の、蘇りですか」

「そう、正解。あの人は神じゃなくて、魔王と呼ばれていたけどね。わたしたちの目的はこの迷宮に神様を再召喚して、楽園を完成させることなんだよ」

 すばらしいでしょうと手を広げたアリサを、ラルフは黙って見返した。誘拐の目的は聞いてみれば呆気なく、大規模なくせに単純かつ稚拙だった。唇の隙間から呆れとも嘆きともつかない吐息を漏らし、一言感想を述べた。

「馬鹿らしいの一言に尽きます」

 アリサの頬が引き攣った。武器を持つ手が震え、憎悪を隠し切れていない。

「たしかに迂遠な方法だったと、わたしも思う。ラルフは本当に覚えていないの? 願いを叶えたときのことを……」

「残念ですが記憶にありません」

 白々しい物言いに苛立ち、しかしそれを認めたくなかったのかアリサは無理に唇をつりあげた。

「以前から魔結晶――この神の力が込められた結晶は、人間の意志に作用して効果を発揮することが確認されていた。魔術の媒体に使われるのがその証拠。わたしたちはこの巨大な迷宮の核に人間の命を注ぐことで、王の再召喚に挑もうとしていた。でもラルフが核に祈って願いを叶えたおかげで、わたしたちは気が付いた」

 合図したようにマーテルたちが木々の隙から現れる。マーテルたちは輪をつくり、ラルフを見つめる。金色から桃色や蒼、不自然な髪色に、様々な顔立ち。下はラルフの胸部に届くかどうかという矮躯の子供から、上は皺の目立つ妙齢の女性まで。共通しているのは、みな見た目麗しい女ばかりであるという一点のみ。神の――魔王の妻として創造されたという由来を考えれば当然のことか。

「魔結晶に人間が王の再来を祈ればいいのだと」

「あなたがかつて、核にそうしたように」

「あなたが願ってくれれば、わたしたちこんなことに手を染める必要はなかった」

「今度はわたしたちを救って」

 ささやかなざわめきがラルフへの期待を物語る。

 老婆が集団より前に出てアリサの隣へと並ぶと、彼女たちは静まり返った。

「さあ、ラルフ……、わたしたちの悲願を叶えてくれるでしょう?」

 アリサの問いかけに、ラルフはこれまでのことを反芻する。

 アリサのことは好きだ。人攫いに遭ったときに迎えにきてくれたのは本当で、彼女の教えにラルフは幾度も命を救われてきた。いまでもその好意は変わらない。記憶を取り戻さなければ、彼女が迷宮の化物だと知っても好意を突き通すことができただろう。子弟という関係が変わってもきっと二人でやっていけた。だがラルフは彼女の真実を知り、決して共有できないものに気が付いてしまった。

 ルッツやアメリィ、フロレンツ、ヴェルマ。滴る血の生温さも、狂ったように笑う彼女の頸を絞めた感触も、未だ手にこびりついている。皆、ラルフが殺した。実の姉のことも忘却していた。断片的であれ記憶を取り戻して、自分が冷酷で非情で――どうしようもなく救いようのない人間だと事実を突き付けられた。

 だからもう取り繕わずとも、いいのだ。

 堕ちるだけ、堕ちればいい。

「アリサさんはもっと強い人だと思っていました」

 視界は未だ眩んでいたが、歩行が困難なほどではない。ラルフが立ち上がり獰猛に笑ってみせると、アリサは警戒して顎を引いた。

「それは幻滅したという意味?」

「いえ、俺はアリサさんが好きでした。今でも好きです。いつでも毅然としていて、目的の為なら労を厭わない。アリサさんは厳しかったけど、俺を護ってくれた。むかしは修練が嫌で嫌で逃げ出そうと思ったこともあったんです。でも過酷な修練の裏には、愛情があるって判っていたから踏みとどまっていた……。あなたの強さに憧れて、あなたの背をみて、俺は育った……。俺の母親は間違いなくアリサさんだ。でも親だからって、愛してるからって、愛されているからって、間違いをそのままにしておくことなんて俺にはできない」

 言葉が徐々に熱を帯びていく。

「間違いなんて、どこにも――」

「むしろ愛情があるからこそ、俺はアリサさんの惰弱さを否定します。俺はそんなふうにして、甘えられたくなかった。――アリサさん、俺が間違っているなら教えてほしいです」

 アリサの顔が一瞬だけ白んだ。

「反目するなら殺すよ」

「覚悟してます。六年前に一度遠ざけた運命が、いま降りかかってきているだけです」

 周囲のマーテルたちは、事の成り行きを静かに見守っている。傍観に徹するつもりのようで介入してくる気配はなかった。

 アリサが言葉を失くしている間にラルフは懐から仕舞っていた魔結晶を取り出した。ラルフが持っていたものはすべてヴァイスに捨てられた。さらに欠片がついた短剣も、アメリィがどこかに投げ捨てていた。いまラルフの手元にあるのは、アメリィの懐から盗んできた魔術の触媒用に持ち運んでいた結晶だ。ラルフはそれを躊躇なく飲みくだした。

 爆発的に力が湧いてくる。朦朧としていた頭が急速に冴えていく。

 戦闘が避けられないことを知り、アリサが唇を戦慄かせながら槌を構えた。槌に巻き付いていた鎖が解け、魔術によってか他のマーテルたちを遠ざけるように地を這う。魔術の燐光が鎖を覆っており、強大な魔術がかけられた武器であると判断できる。

 鎖の射程距離はアリサを中心として三歩の位置だ。迂闊に踏み込めば両側から巻き取られ自由を奪われる。厄介なことに、ラルフは盾になるようなものを持たず、身一つで彼女の懐に入るしかない。

 不利だ。だが不利なのは、いつだってそうである。子が親に挑む。弟子が師を乗り越える。その行為の困難さは、それに挑んで挫折した人間の数が裏付けている。絶対的な戦力差を見ても、ラルフは諦めることはできない。子供のころ不可能に思えた彼女らへの反抗――記憶のなかで眠っていた絶望を、そのまま終わらせないために立ち向かわなければならない。

「――先攻しますね」

 宣言するとほぼ同時にラルフは跳躍した。元々アリサに仕込まれたのは、体をバネにしならせて血飛沫を散らす舞踏武術。ラルフの身のこなしは均衡をとる事に特化している。いまは魔結晶を飲みこんだことで元々持っていたその能力が何倍にも底上げされ、すなわち――身体は高く舞い上がる。身体強化をかけてもらった状態よりも、さらに高く。

 鎖が後ろ足を追い駆けてくるのを確認しながら、アリサの背後へと降り立つ。間髪入れずに槌が振るわれた。頭を下げることで回避する。その後も迫ってくる胴と頭への薙ぎ払いを、後退することで避ける。

 鎖の射程距離を外れた場所で、ラルフは息を整えてアリサを見つめた。アリサは追ってこない。代わりにラルフに向かって手を翳した。右手に嵌められた腕輪に燐光が纏わりつき、奇跡の到来を予言する。

「本気で殺されたいのね、ラルフ、いいよ、やってあげるよ――憂い惑う調べは永久に絶えず、天の意志により掻き乱された傷は癒えず、輝く者すべてに怨念を抱く者……『影の招き手』」

 彼方から一陣の旋風が巻き起こった。風に舞い上がった黒い煙が、一息にアリサの元へ降りてくる。不快な甲高い叫び声をあげながら煙は宙を舞い踊り、主人を確かめるようにアリサの傍を二週してから、ラルフの喉元へと巻き付いた。

 煙だというのに気管を締め上げてくるのは手の感触であった。加減なう力を込められ、視界が真っ赤に染め上げられる。意識を遠のかせつつも、恐れていた追撃がこないのを訝しく思うだけの余裕はあった。

 喘ぎながら必死の思いでアリサを見れば、彼女は蒼い顔をしていた。

「………………」

 唇が震えている。なにかを伝えたがっている。

 黒い煙がふいに解けた。それはなにかを促す合図に思えたのは錯覚だろう。すでに覚悟は決めている。高揚しきった頭で気付かなかったふりをして、前に身を乗り出した。左右から迫る鎖の片方を避け損ね血飛沫が舞った。脇腹に食い込んだ鎖は肉を深く抉る。生暖かく粘つく液体を衣服が吸って重たくなっていく。脂汗が吹きだして膝から力が抜けそうになっても堪える。

 肩へと伸びてきた鎖を、腕を使って避けようとして逆に巻き取られた。鉄の鎖が腕を捻りあげ、肉が引き攣れていく。皮膚と肉が無理な力に耐えかねて千切れたのに続いて、骨を粉砕する乾いた音が響いた。腕が燃えている。悲鳴は意地で噛み殺した。

 片腕は使えないが、足は問題ない。歩ける。鎖が攻撃を繰り返してくるが、狙いはすべて上体でそれも大抵は腕である。対人戦ではなにをするにも脚を潰せと教えたのはアリサなのに彼女は実行しようとはしない。感情と状況の狭間で揺れ動く、躊躇いが見え隠れしている。ラルフは苦笑いした。本当は笑い出したくて仕方なかったが、全身が痛くて仕方ないので顔の筋肉も引き攣って、そうするのが精一杯だった。

 それでもアリサには判ったらしい。彼女の表情に恐怖が走り、一歩、後退した。

「なんで、なんで、近づいてくるのッ!」

 ラルフは一歩進んだ。呼吸は浅い。腕から、脇腹から、滂沱と零れる血が痕をつくっている。濃い森の匂いに充ちていた空間は、血腥い臭気に犯されつつある。

「なんでって……、近づかないと殺せない」

「……ッ」

 鎖が片方の足を狙った。小刻みに勝手に痙攣している足が避けられるはずもなく、鎖は太腿を傷付けアリサの元へ戻っていく。鎖に付着した血がアリサまでの線を描いた。

 それでも片足をひきずりながら、踏み出す。アリサが震えながら足を退くが、それくらいで距離は開かない。

「来ないでよ……」

「いやだ」

「やめてよ、死ぬよ、殺しちゃうよ……」

「死ぬのも殺されるのもいやだ」

 ラルフはあと一歩近づけばアリサを抱擁できるほどに距離を詰めた。

「じゃあッ、なんで迷宮の、それも深層に来たんだよッ!」

 子供の癇癪じみた絶叫が、浴びせられた。

 絶叫した本人は自らの言葉に打たれたように膝から力を失って崩れ落ちた。槌を杖代わりに地面へと突き立て、それによりかかって肩を震わせている。マーテルたちがアリサを注視している気配がある。敵愾心こそないものの、良い感情が含まれていない。

 視界の隅に映る血の色をした天が、近づいてきたような気がしていた。

「わたし、本当は、あの日ラルフを殺す気だったの。わたしがしっかり顔を見て、苦しめて殺すつもりだった。そのつもりで、探していた。だけど……ラルフは、家に帰りたいって言った! ラルフには記憶すらなかったのに! ねえ、あの日、なんでそんなことを言ったの?」

 短い呼吸を繰り返しながら、脇腹を抑えつける。魔結晶の力を借りているとはいえ、深い傷口は塞がらない。身体は重く、視界は昏い。

「ああ、……すごく帰りたかったんだ。誰かが迎えてくれる気がしたんだ」

「……でも、ラルフの本当の家は」

「実家は自分で燃やした。ユーディトと俺がしたことを、隠蔽するために……必要なことだったから、火をつけた」

「…………」

 杖で身体を支えながら、アリサは立ち上がった。

「アリサ様、この者は死にかけ。願いを言わせるのが無理ならばこのまま殺すべきかと」

 アリサの背後から、老婆が進み出た。ほかのマーテルたちも無表情に、アリサとラルフを交互に見比べている。アリサは悄然と呟くように命令した。

「……これは筆頭守護者の手で行わなければならない処刑です。わたしはいまから殺す。この子はわたしが殺すのです。この子はわたしの大事な」

 ――息子だから。

 小声だがはっきりとラルフの耳に届いたそれは、決別に十分に値する言葉だった。マーテルたちはさらに一歩後ろに控えて、アリサの断罪を見守る姿勢をみせた。

 失血しすぎたせいらしい、いつの間にか視界から光が失われて地面が近い。すぐ下にある地面を見、ラルフは自身が膝を付いていることに気が付いた。凍えそうなほど寒い。地面の感触はなく、噎せそうなほどの血の臭いは遠い。ラルフが憐れみを誘うほど不思議そうな顔をしていたのか、アリサは痛ましげに顔を歪めて近づいてくる。

「一時だけれど自分が母親になったような錯覚すら持てた。王がいなくなってから、わたしたちは古びていく遺跡とともに雨風に打たれ続けて、わたしたちを人間として扱う人もいなくて、人間らしい感情なんて忘れかけていたのだけれど――ラルフと暮らして想い出せた気がした。そういう幸福とか、奪う奪われる以外のことを」

「……」

「ねえ、ラルフ、わたしの力は王を護るはずのものなのに、……王は自ら消えてしまったの。わたしたちを置いて。それでも判らないの。王が消えた理由も、こんなふうになってしまった理由も判らない。ただ判ってるのは王がいなければ迷宮は完成しなくて、迷宮が完成すれば楽園が待っているということだけ……だから、ラルフごめんなさい」

 アリサたちが縋っているのは妄執だ。間違いを指摘し糾弾し改め直したかったが、疲労し果てたように身体は重く、舌すら口腔内に張り付いて動かない。視線だけで意志が伝わるはずもなく、案の定アリサはそれを拒絶ととり唇の端を不自然に吊り上げた。自嘲しながらも、腕は槌を振り上げて頭蓋を殴打する構えをとった。

「そうだよね、ふざけんなって思うよね。――でもごめん、ごめんなさい。あなたを殺したらまた一歩王に近づく! 迷宮の完成へ近づくの……ッ!」

 槌が振り上げられる。刹那、それを降ろす様がやけに緩慢に見えた。様々な危険を潜り抜けた直感が死を確信する。身体は反射的に槌の直撃を避けようとし、けれど間に合わないのは知れていて――それとヴァイスが吠えたのはほとんど同時だった。

「――ふざけた理由に、ふざけた覚悟だわ! わたしは、あんたのこと、絶対に赦さないからッ! 死になさいッ!」

 槌が当たる刹那、爆音が空気を揺るがした。音が聞こえ瞬きの一瞬すら置かぬ間に、弾丸のように飛び出したヴァイスは、アリサの横からその身を抉り抜くようにぶつかった。華奢な身体と弾丸は共に転がり飛んだ。遅れて暴風が駆け抜ける。咄嗟にその場に伏せて狂風を躱し、狂風が収まってから顔をあげると、二人は転がった状態のまま揉みあっていた。必死の形相で互いの弱点を狙う二人は、闘犬が相手の喉元へ噛みつく隙を狙い上へ下へ身をくねらせ、あるいは蛇が己の身の丈と同じ獲物を相手どろうとするときのように、お互いしか見えていない。失血で意識を失いそうになりながらも思わず息を呑んでしまうほど鬼気迫った、純粋な闘争心と殺意の遣り取り。魔術が入り込む隙すらない。

 ヴァイスが助けにきてくれたのだ。事実を理解するのに遅れて肌が粟立ち、死の恐怖が髄を揺るがす。だがこの隙に逃走しようなどという考えは露ほども浮かばなかった。ラルフは呼吸すら忘れて、激闘に見入っていた。

 おおよそ戦闘に置いて力の動かし方を熟知しきったアリサに対して、魔術師であるヴァイスは劣ること然りだが、彼女は気力だけで力量を埋め合わせて均衡を保っていた。両手を使わねばならないことに早々に悟ったアリサは舌打ちし、槌を遠くへと放り投げた。ラルフにはなにもできないと見切ったのだろう、槌と鎖はさして遠くもない場所に乾いた音をたてて落下した。

「あんたを殺す日を夢見て来たの! 楽に死ねると思わないでよ!」

 血と泥に塗れた無法者と言った身形のヴァイス、一方神聖な巫女装束のアリサ、二者の姿は対極でありながら、互いを喰らおうとする獰猛な表情だけは似通っていた。

「あたしとそう変わりない存在のくせに、もしあたしとあんたがなにか違うって思っているのなら、それは間違いだよ、ね、忘れられてるくせに」

「忘れられてるとか、忘れられてないとか、わたしはどうだっていい!」

 ヴァイスの声に滲んだ苦渋の色は明らかである。アリサは喘ぐようにしながら、揶揄した。

「血の繋がったあたしより、他人を信じるのね。ははは、愉しい! あんたはあたしたちを殺したあと、本当に孤独になって、本当の地獄を見るの。想像するだけで愉しいじゃない」

「うるさい――」

 声に混じった漣がごときかすかな動揺を、隙ととるのは当然だった。アリサは軽薄な嗤い声をあげ、太腿の装束の隙間から短剣を引き抜き、躊躇のない動作で身体を狙う。ヴァイスの肩口が裂け、鮮血が跳ね散らかった。突然の痛みに慣れしていないだろう彼女が絶えられるはずもない。抑える力が弱くなったところでアリサは足技を駆使して形勢を逆転させた。

「あら、愉しい。うるさく吠える犬を調教してみるのもたまには」

「ふざけないでよ――ッ!」

 首元を狙い刺突してきた小剣を、間一髪ヴァイスは身を捻って避けた。代わりに薄桃色の三つ編みが犠牲になる。アリサはそれでも余裕綽々に笑った。

 ヴァイスの殺意はまだ十分に漲っているが、身体のほうはそうもいかない。アリサに分があるのは判り切っている。ヴァイスが無謀にもアリサに突っ込んだのは、ラルフの危機を認めたからだ。そうでなければ魔術師である彼女が肉弾戦の真似事などしない。

 この状況は非常に不利だと、ラルフとて承知している。だからこそ――彼女らが白熱している間に必死に這うようにして、霊剣へと近づいていた。地面に血溜りを作りながら、それでも懸命に。

 アリサが霊剣と呼んだ槌へと、ラルフは手を伸ばす。

 論理的思考を超越しきった戦闘の勘が――幼少のころより幾度も命を救ってきた飛躍的な判断が告げていた。

 戦闘を一方的な勝利で終わらせることのできる唯一の方法を。

 果たして、ラルフの指先は槌に触れた。握りこむ。たしかに掌のなかに収まった、その硬質な柄。腹に力を込めて、息を吐きだす。気を緩めれば失神しそうなほどの痛みだったが、生憎ラルフはアリサとの修練で慣れている。マーテルたちが戦闘に集中しているのを見守っているのを心中で笑いつつ、ラルフは息を止めた。機敏な動作で立ち上がり、アリサが何事か反応する前に跳躍する。

 迷宮の樹の根元へと飛び降りると、もう一度。数度跳躍を繰り返し、飛び乗れない部分はよじのぼり、迷宮の核へ辿り着く。硬質な結晶に足を乗せ、眼下を睨んだ。血の滴が結晶へと落ちると、結晶内部に内包されていた命の奔流とも呼べそうな、生命力に満ちた紅い渦が逆巻く。なるほど、ただの魔結晶ではない。なんでも叶うという言葉を想い出して胸を一瞬躍らせ、だが一呼吸置いて冷静になる。

 ラルフは魔結晶の幻惑の前に揺れそうになる意志を抑え、霊剣を足元へ振り降ろす様を脳裏に描いた。もはや手には力が入らず、視界も判然としない。死が近すぎる。むしろ良くここまで持ったものだと思う。

「なにをするつもりなの、ラルフ……!」

 凝然とアリサを見下ろし、ラルフは辛うじてそれと判るほどの弱々しい笑みを浮かべた。

「俺には友人が、仲間が、いるんです。アリサさん、一人で生きているようなあなたには判らない感覚かもしれませんけど」

 アリサの顔から血の気が引き、口元を戦慄かせる。焦燥を露わにした彼女に、なぜだか途方もなく愉快な気分になり笑いだした。

 ずっと自分がしたいことなどないと思っていた。生き方に迷っていた。

 だがこれですべてが終わる。

「俺は誰かを救えるような人間ではないけれど、ルッツのために、フロンのために――できることをしたいんだ」

 槌が振り降ろされた。『霊剣』という特性のためか、槌は易々と核を貫き罅が走る。核に衝撃が走る度に異変が起きる。まるで天地が揺らぐかのように、マーテルたちは崩れていく。真紅の空に亀裂が走り、地表が剥げる。地鳴りが至る箇所から聞こえて階層の崩壊を告げていた。



 マーテルたちが動けなくなったのを見計らい、ラルフはゆっくりとアリサに近づいた。彼女は他のマーテルたちと同様に糸の切れた人形のように倒れ伏している。アリサたちとて、迷宮の魔物。魔物は魔結晶が破壊されれば、生命活動を停止する。ラルフは幾度となく魔物を屠ってきた記憶を噛み締めながら、その背に手を回した。痩せ細った体は枯れ木を連想させて、どうしようもなく痛ましくなる。なによりアリサが魔物としてしか死ねないことが憐れだった。

 少しの間アリサを見下ろしていたが、とるべき行動は決まっている。瞑目したラルフが行ったのは、慰めでも最期の別れの言葉でもなく、ひたすらに止めを刺すための祈りだった。

「――其の物は温和な貌をして、いつの間にかそこにいる。生まれついたときから底を知らぬ食欲を秘め、何者であろうと貪欲に求めたがる。何人たりとも其の物の召喚に逆らえない」

 あの日、燃える屋敷を眺めながらユーディトが口ずさんだ懐かしい詩である。存在を思い出すこと自体は久しぶりだったが、母親が体罰を用いてまで覚えさせようとしたのだ、まだ覚えていた。そしてその文句はたどたどしい口調ながら、魔術の詠唱としての効果を発揮しはじめる。花弁にも似た薄紅の燐光がラルフとアリサの周囲に降り注いだ。

 焦点が定まっていないアリサの目に、この光景が見えているかは分からない。

 けれど見えていたらいいと思った。

 ラルフの瞼の裏には夜陰のなか紅い劫火に包まれて炭化していく生家が映っていた。ユーディトとラルフは火の粉の舞うなか、間近で熱気を浴びながら、燃え朽ちていく様を見ていた。ユーディトは艶然と笑いながら、ラルフは泣きながら――家のなかに置いてきたモノに想いを馳せ、一つ一つの棄却を痛み、その最期を見届けた。

 魔術の探求にしか興味がなく、母親はラルフのことを出来損ないと呼んでいた。そして父親は家にも母親にも関心がなく、子供すら一つの魔術の媒体として認識していた。ラルフとユーディトは二人を謀り殺し、家に火をつけた。悪魔のような家族だと思うかもしれないが、紛れもなく四人とも人間だった。惰弱なくせに欲深く、己の目的ならば手段を厭わないのに自分が傷つけられると無感情ではいられない。そんな哀れな人間同士のつまらない感情の押し付け合いが軋轢を生み、やがて溝となり果て――だからこそ救えない。

 彼らと決別してから十数年を経て、彼らの血を引くラルフもまた救えない存在だと証明された。母親を名乗る化物と共に死ぬのは、親殺しの咎に相応しい末路かもしれなかった。脳裏に浮かんだ感傷めいた戯言に自嘲を零し、詩の最終結部へと向かう。

 ラルフの血筋に閉じ込められた火の精霊の召喚――実母にあれほど切願されながら、ただの一度もその人の目の前で顕現させることができなかった、その召喚魔術を――魔結晶の助けを借りて、成し遂げるために。

「何人たりとも熾されない者はない。無情、無限。正体は虚。其の物の名は――『灼(origo)』」


 詠唱に呼応し、空気が爆発した。

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