迷宮、灰を埋めて

待鳥月見

序章

 暗闇に包まれた森を独りで進んでいくのには勇気がいる。得体の知れない鳥の鳴き声に驚かされ、陰に誰かが潜んでいるのではないかと案じ、それがただの自分の思い込みだと知ったとき安堵する。だがその一方では、自らの勘が頼りなく感じてしまう。『誰か』が手を引いてくれれば安心できるのに、その『誰か』は現れる気配すらない。あたかも世界に自分がたった一人ではないかという最悪の予想が脳裏を駆け巡り、足を止めてしまう。

 歪に張り出した屋根の下で雨露を凌いでいる少年――ラルフも悪寒に震える身体を抱きしめて、そんな絶望を噛み締めていた。

 ラルフがいま居座っているのは夜の森ではない。人工物の迷路――迷宮都市という建前で迷宮の周囲に築かれた貧民窟の一角である。道行く人間は帯剣した迷宮探索者であったり、艶やかに着飾った娼婦であったり、貧しそうな身なりの老若男女であったりしたが、皆一様にして言えるのはラルフに目を留めないということだ。まるで風景の一部にでもなったか、壁か路傍の塵と同化した気分だった。ラルフは人が通り過ぎる度に落胆し、それから次に来る人がラルフに声を掛けてくれるのを期待した。

 慈悲をかけてくれるのを待っているのではない。

 迎えを待っているのだ。

 ラルフの手を引いてくれる誰か。たとえば家族や友人の一人などがラルフに気付いて家へと連れ帰ってくれるのを待望していた。ラルフには記憶がなく、そもそもどうしてここにいるのか、どこへ行けばいいのか判らなかった。判っているのは記憶がないと、世界すべてに足の踏み場がないように感じるということだけだ。こうして途方に暮れて往来を見やる日々がどれくらい続いているのかも定かではない。

 身につけている衣服は襤褸ではないし、髪の毛は清潔感を感じる長さに切り揃えられている。だからきっとラルフは保護されていた場所から抜け出してきたのだ。そう推測し、目を覚ました場所から動かず待っていた。だが、もう限界だった。

 熱を伴う倦怠感と空腹が体力を奪い、終わりのみえない不安が精神を苛む。

 不眠が深刻になっていくのと同時に、神経が過敏になっていく。そろそろ日没だというのにラルフの視界は一定の明るさを保っている。人が通り過ぎるたびに化粧の匂いや脂っぽい食物の匂いが漂い、それに吐き気を催す。

 耐えられなかった。悪臭としか呼べぬそれらの匂いも原因であるが、それがなにを意味しているのか、なんだかよく解らないほどの飢餓感に眩暈がした。

 それでもラルフはうつらうつらと朦朧とした顔で道の端に座り込み、懸命に迎えを待った。その姿は家出をしてきた盆暗息子が、野垂れ死ぬ寸前にでもみえたのか――ふいに濃厚な血の臭いを漂わせた人間が近づいてくる。

「なあ、ちょっと、そこのお兄ちゃん、だいじょうぶかい?」

 男は媚びるように手を揉みながら、ラルフに声をかけた。顔に走る剣傷と、腰から提げた血色の結晶の束、独特の下卑た笑みは汚れ仕事に従事する者のそれである。彼は反応の鈍いラルフの様子から無力を見て取ったのか、穏やかな演技もそうそうに引っ込め強引にラルフの腕を掴んだ。

「ああ、やっぱり。お兄ちゃんのお優しい父君から、呼び戻してこいって言いつけられたんだけども」

「え? 父……?」

 ラルフの朦朧とした意識では、男の言葉を正確に理解することができなかった。

 事情を飲みこめない様子のラルフを、男は急いで立ち上がらせて路地に連れ込む。あっちに父君がいるよ、とラルフの息が切れるまで露店の裏や隘路を引き摺り回す。

 さすがのラルフもこの状況に違和感を抱かないわけにいかなかった。

「ちょ、ちょっと説明……説明してください」

 男は人気のない路地で立ち止まり振り返った。男の無表情に怯えて立ち竦んだラルフに、男は歯を剥きだした。

「最近の餓鬼は説明を求めたら、すべてに答えてもらえると思ってんのか?」

「……、え」

 言葉の意味が解らずとも、頭の後ろで警鐘が鳴った。腕を掴まれているため逃走は叶わない。ラルフは周囲を見渡して助けになるものを探したが、生憎この路地は喧騒に包まれた大通りとは別世界のように静まり返っていた。

「俺らだって本当はこんなことしたくないんだけどさぁ。稼がないとやっていけねえわけだ。世界は理不尽と不条理に満ち溢れてるってんで、ごめんなあ! あはは!」

 笑いながら謝罪のようなものを口にし、男は素早く皮手袋に覆われた五指でラルフの口元を塞いだ。危険を察して抵抗するが男は動じない。静かに行われた犯行を周囲の者が見咎めて助けに来る様子もない。男は冷めた目でもがくラルフを睥睨し、嘲笑を含んだ声で囁いた。

「――『眠れ(cocleatus)』」

 魔術の詠唱が終わった途端、睡魔が襲ってきた。まるで吸い込まれるように、抗う間もなくラルフの意識は消失した。


 硬い床の感触に居心地の悪さを感じてラルフは目を覚ました。覚醒してまず知覚したのは手足に感じる紐と、身体を覆う麻袋のようなものだ。なぜ拘束されているのか判らず、しばらく唖然としていたが、次第に意識を失う直前の記憶が蘇ってくると恐怖の震えが全身を襲った。

 道行く人の雰囲気から治安が良くないことは知っていたつもりだったが、まさか自分が攫われるとは思いもよらなかった。かつてない恐怖と焦燥が膨れ上がり、涙が零れそうになったがどうにか堪えて室内の様子を見回す。部屋は暗く、唯一の扉の隙間から漏れる灯りが頼りだ。

 唐突に扉の奥で、人が身動きする音がした。

 ラルフは首を縮め固く目を瞑った。緊張して床の硬さなど気にならなかった。

「ワンスさん! お疲れ様です。子供ら、集めてきましたぜ……!」

 声の主はラルフを眠らせた魔術師である。彼は慌てて椅子を引いて立ち上がると、室内に誰かを迎えたようだった。

 彼はずっと隣室にいたのだろうか。考えなしに身動きをしたことを思い出して急に不安に駆られたが、様子を見に来ないということは気付かれなかったのだろう。安堵の息をつきそうになって、寸前で飲みこみ、狸寝入りを続行する。

「フィリクスか。ご苦労だったな」

 応えたのは声に聞き覚えのない人物だった。フィリクスを褒め称える言葉ではなかったが、鷹揚に部下を労うような声色である。どうやらフィリクスの上司のようだ。

 隣室にいるのは、少なくとも大人二名だ。安全に逃げおおせる見込みは限りなく低い。

「はっ、はいぃ! ありがとうございます! それで報酬の件は……」

「その話は待て。今回は仕事の様子を確認しにきただけだ。先に届けた分は確認し終えた。残る一人はどんな調子だ?」

「残る一人は今日、調達したばかりで活きがいいですよ。ご覧になりますか?」

 市場で魚の新鮮さを自慢するような言い方に怖気が走った。高まる緊張に身体は強張り、鼓動が張り裂けんばかりに主張をはじめる。来るなと念じてみても、何者かに届くはずはない。二人分の足音が近づいてくるのが嫌にゆっくりと聞こえる。しかし突然、皿が割れたような音がすると足音は途中で止まった。

「あ、あ、す……すみません! ノイが粗相を!」

 無言。一拍置いて、頬を張る音が空気を裂いた。

「……時間がないから今日のところはここで遠慮する。調達してきたのは男児か?」

「は、はい。壊れないように男を選びました。あの客は少女が壊れると憐れんで半魔にしてしまうでしょう。再回収を依頼されたときのことを考えて男を選びましたが……」

「妥当な判断だな。半魔なんて一銭の得にもならない塵だ」

 ワンスは踵を返し、フィリクスがその背を見送りのために追いかける。徐々に遠ざかる足音に、ラルフは安堵して目を開けた。しかし薄く開いた扉の隙間から紅い目が覗いているのに気がつき息が止まる。見間違えようもない、その目はたしかに瞬きをして、ラルフを凝視していた。

 背筋を凍らせるほどの戦慄に、世界から一切の音が消えた。

 扉が弱い力で押される。

 全身から脂汗が吹き出し、耳元で心臓が鳴っている。それをうるさいと断じるほどの余裕はない。なんの心構えもできないまま扉の隙間から覗いたのは頬に赤い結晶を埋め込んだ異様な外見の子供と対面した。子供の姿を見て咄嗟に、震える声が口を突いてでる。

「たすけて、おねが」

 しかし虚ろな顔をしたその子供は、かぶりを振って皆まで言わせなかった。

「ごしゅじ……さま、……こにいる……が」

 老人のように濁った声だった。その声に反応してから、荒い足音が近づいてくる。ラルフの視界が今度こそ眩み始めた。

「この半魔ッ! 褒美を上乗せしてもらう折角の機会だってのに、なんてことしやがる! ぜんぜん使えねーなッ!」

 ところがノイが続けようとした声は、当のフェリクスが陶器を投げつけたことによってかき消される。そしてノイは首根っこを掴まれ投げ飛ばされた。

 一体どれほどの力で投げられたのか、壁に当たる衝撃が伝わってきて、くぐもった悲鳴も聞こえた。それと同じくして、扉が閉められた。壁の向こうから悲鳴だけが聞こえてくる。惨状が目に見えないことで、よりいっそう想像力を刺激した。

 危機が去っても、動悸は収まらない。身体を強張らせて、一体どれだけそうしていたのか自分でも判らなくなるころ、昏倒するように意識を失った。


 男女が言い争うような声とともに、食器を砕くような騒音が聞こえる。床に鈍重なものが転がった音に、ラルフは目を覚ました。

「なんだ、テメェ、なにしにきやがった」

「ごめんね、いなくなった猫を探しに来たの」

「ふざけんな、こんな場所に猫なんて……!」

 床を踏み抜かんばかりの勢いで、革靴が床の底を叩いている。茫洋とした意識でそれを聞き流して、つぎに覚醒したときには吐息が触れそうなほど近くに見知らぬ女の顔があった。

 漆黒の軽鎧の上から同色の外套を羽織り、外套の隙間から革帯から短剣を提げ、手斧を太腿に括りつけているのが見えた。流麗な容姿には似合わぬ、過剰とも思える装備は迷宮探索者のそれである。そんな白髪の女に、もちろん面識はない。

 予想外のことにぎょっとして後退しようとして、動けないことに気が付く。依然として手足は縛られており、状況に進展はない。部屋には灯りがついていた。周囲を見回してみたが、フィリクスは不在のようだ。こちらを観察している女以外には異変は見つけられない。

「だれ……?」

 なんとか会話をしようと思い付いて、咄嗟に口を突いて出たのは、我ながら凡庸な質問だった。彼女もそう思ったのか、薄い唇に皮肉げな笑いを浮かべた。

「あたしはアリサ。味方よ。魔術師は殺したから安心してね」

 衝撃的な事実を告げるにしては、恬淡とした物言いだった。醸し出していた剣呑な空気が薄れて剽軽な印象に塗り替えられる。

 ラルフは動揺して口を噤み、だが頭に浮かんだのは恐怖よりも、事が解決したのなら早く家に帰りたいという切願のみだった。

「さて状況はどこまで判っている?」

「……攫われて、売られそうになった」

「それだけかー。まあ十分だけどね」

 アリサは朗らかに笑った。場違いな余裕は狂気の発露にも思えたが、ラルフはあまり興味がなかった。

「ねえ、アリサ、俺の家を知らない?」

 アリサが一瞬だけ、表情を強張らせたが、すぐに元の笑顔に戻る。

「あんたの家なんて知らないわよ。わたしたち、いま会ったばかりだし、あんたの顔にも見覚えはない。それともあんたはどこぞの有名な貴族なわけ? だったら一件ずつ巡ってやってもいいけど……助けたら報奨が貰えるかな?」

 アリサは肩を竦め自分の言葉を鼻で笑うと、すぐ何事か思案するような顔つきになった。それから冷静に問う。

「名前は?」

「ラルフ。たぶん」

「たぶん? 曖昧な表現ね」

「記憶がない。ぼんやりとそう呼ばれていたような気がするだけ」

「記憶がないにしては、淡々とした喋り方じゃないの。嘘ついてる?」

「本当のことだよ。けどこういう喋り方をすると、おかしいのか?」

「……不幸だわ。あんただけじゃなく、あたしにとっても」

 アリサは腰の革帯から小剣を引き抜き、慎重にラルフの縄を切断した。わずかな挙動でも彼女の動作は洗練されているのが窺える。それを惚れ惚れと見ていたラルフだったが、流れるような動作で首元に小剣を突きつけられて、言葉を失った。

「じゃあ今後の予定を話し合おうか。あんたはどうしたい? また路地に戻りたいならそれでもいいけれど、きっと危険は尽きないね」

「……」

「戻る? 進む? あたしにここで殺されてみる?」

 不思議な金の双眸が、じっとこちらを見つめている。半端な覚悟を許さないその目に、ラルフはたじろぎつつ、向けられている刃を窺った。

「それは脅し?」

「ううん――」

 アリサは頸を振る。

「演技。あたしが引きつけるから逃げなさい、速やかに」

 言い終えた刹那、アリサはその刃を返し背後から迫っていた人間に突き入れた。迷いない動作で立ち上がり、滑るように襲撃者を取り押さえにかかる。

 襲撃者は見覚えのあるその外套を羽織っていた。黒い血痕で汚れてはいるが、それはたしかに魔術師・フィリクスが纏っていたローブだ。だが襲撃者はフィリクスより随分と小柄で、人並外れた膂力を持っていた。四肢すべてを使った獣のような姿勢で天井まで飛びあがると、アリサの背後に降り立ち、アリサの頸を締めにかかった。

 茫然としていたラルフは我に返り、残っていた縄を解き周囲を見回した。逃げろと指示されたが、室内にある唯一の扉の前で二人は争っている。

 脱出が無理なら、戦うしかない。ラルフが迷ったのは一瞬だった。

 壁際に落ちている短刀に赤い結晶が紐で括りつけられているのを見て取ると、ラルフはすぐさま駆け寄り結晶を口に含んだ。

 赤い結晶の正体は判らない。しかしラルフはこれが非力な自分に必要なものであると、記憶の奥底で知っていた。

 口に含み流れ込んできた液体は、焼けそうなほど熱く肉を焦しながら身体の奥に届く。それと同じくして、弱っていた身体に力がみなぎっていく。空腹も眠気も吹き去り、いまはただ衝動のみがある。劇的な変化に肌が粟立ち、動機が激しくなる。立ち眩みに耐えつつ、状況を確認する。

 ラルフは無害だと認知されているのか、襲撃者がこちらを気にする様子はない。目前ではアリサが絞めあげられている。ラルフは恐る恐る彼らに近づき、襲撃者が集中しているのを察して一気に飛び掛かった。襲撃者が振り向いた拍子に、被っていたフードがとれる。

 小柄な体躯から予想していたが、襲撃者の正体は少女――ノイと呼ばれていた子である。彼女は突然のことに驚き飛び退こうしたが、アリサはそれを許さない。懐から出した二本目の小刀を振るい、躊躇なく少女の体へと突き刺す。

 肩を抑えられ、刀を刺され、それでも尚もがこうとする少女の腹を、今度はラルフの持っていた小刀が抉る。声にならない叫びを漏らし、痙攣して血を垂らしはじめた。だが弱る気配はまだなく小刻みな痙攣を繰り返すと、異変が訪れた。纏った服が膨らみ、肌が紫に変色していく。

「……半魔か。惨いことを」

 アリサの声がなにを意味するのか、直後に知ることとなった。

 最初に少女の背に、鳥のような翼が生えた。服を突き破り、突っ張った皮膚と鋭角的な骨格が姿を現す。そのうち顔付きも少女ではなくなり、鳥の嘴のようなものが露出する。そして最後に複眼――ぎょろりと奇妙な光を湛えた目玉は、ラルフを睨みつけた。

 ラルフは六つの目に見つめられ、恐怖に立ち竦んだ。目の前で行われた変身が、現実のものなのか自信がもてない。なにがなんだか理解できないが――止まったら殺されると本能は警鐘を鳴らしていた。

「ごしゅ、じ、さま……」

 もういない人間を呼ぶ、濁った声。

 ラルフが怖気に身体を強張らせた一方で、アリサはごく自然に動いていた。被膜に覆われた骨を無造作に掴み、腰に提げていた手斧を取り出し絶つ。薄い皮膚はたいした抵抗もなく破れ、血飛沫があがる。吹きだした血栓は壁を濡らし、アリサの銀髪を染め上げ、近づいたラルフにも降りかかった。

 生温く鉄臭い雨を浴びて、ようやくラルフの時間は動き出す。さっきまでの緊張が嘘のように身体が軽い。半魔に肉薄し、躊躇なく刃を押し込んだ。半魔はもがき抵抗するが、アリサは淡々とした動作でその抵抗する四肢を一本ずつ破壊していく。

 ラルフは頬に埋め込まれていたはずの結晶があるあたりに、刃を差し込んだ。幾度も、幾度も――彼女の口が誰かを呼ぶのを止めるまで。

 アリサがラルフの手を抑えるまで、一連の動作は続いた。

「もう十分だよ、もういいよ、君は殺したんだよ」

「……え?」

 顔をあげると惨状が目に入った。冷静になってみればラルフが馬乗りになっているのは、上半身は化物、下肢は人間のそれ――少女の細い両足である。脚には青痣が痛々しく目立っていた。意識した途端に吐き気がこみあげてきた。這いずるように血の海から逃れ、少女だった化物の残骸を見ないようにして嘔吐した。

 胃液の匂いと鉄臭い臭気が混ざり合い、眼球の裏に張り付く。また嘔吐感がこみあげ、吐く。胃液ばかりだった吐瀉物のなかに、一回り小さくなった赤い結晶が落ちた。

 アリサは蹲ったラルフに近寄り屈んだ。小さな背中を撫でながら、低い声で囁く。

「助けてくれてありがとう」

 ラルフは返答しなかった。襲撃を退けた初めての経験をどう咀嚼していいのか判らず、女性の感謝も素直に受け取ってよいものか判断に迷っていた。「どういたしまして」と言うのは違う気がした。

「変な子供だとは思ってたけど、ちょっとびっくりしたな。もしかして半魔を見るのがはじめてじゃないとか?」

「……半魔ってなに?」

「迷宮の化物が人間に変化したのを半魔と呼ぶの。人間に変化すると迷宮の外を自由に闊歩できるようになるし、言葉も喋れるようになる。だけど弱点は変わらず魔結晶だから、それを破壊すれば死ぬよ」

 遺体を一瞥したアリサの目には、憐憫や罪悪感らしきものは一切浮かんでいなかった。

「俺が飲みこんだのも魔結晶?」

「そう。魔結晶っていうのは、魔物の命の核。これを身体から取り出すことで魔物は命を失う。そしてこれは魔術的な力が込められた、生命力のようなものだから身体に取り込めば一時的に超常的な効果を発揮させられる。君みたいに飲んで、そのあと吐きだすのがいい使い方だね。長時間体内から取り出さないでいると、狩られる側になってしまうから」

 魔物とは迷宮に巣食う化物のことだ。どこで得たかも定かでない知識が脳裏に浮かんだ。アリサは口ぶりや恰好から迷宮探索を生業としている人間のようだが、魔結晶を飲むという論は一般的なものなのだろうか。どこか違和感があったが具体的に指摘できない。疲労のためだろう、思考に靄がかったように、うまく考えが纏まらなかった。ただひたすら家に帰りたいという想いのみが胸の内で疼く。

「一緒に来る? 君を置いて行くの心配になっちゃった」

「…………」

 アリサの誘いに、ラルフは現実に戻った。冷たい床に膝をついて次の行動を考える。けれど唯一の望みが叶わないとすれば、ラルフはどうしたらいいのだろう。

 途方にくれたラルフに向かって、彼女はおどけて笑った。

「わたしは君の素質に惚れちゃったんだ。素晴らしい才能だよ。勘だけで魔結晶を取り込むなんてさ。そうできることじゃない」

「考えてやったわけじゃない。身体が動いた……。それに変だと思ってたんだ、あの赤い結晶」

「知らずに動いたなら尚のこと素晴らしいね。悩む前に動けって皆言うけれど、実際にできる人間はごくわずかだ。みんな悩むことに夢中になって、行動が遅れる。そして出遅れて死ぬ」

 ラルフは顔をあげた。金色の目はラルフを微笑ましげに見つめていた。血塗れた姿で場違いにも思えるほど泰然としている彼女に、やはり恐怖心はわかない。

「わたしはさ、こんな生活してるから、普通の子供らの遊びを教えてあげられないけど、代わりに迷宮に入れるようになるまで面倒みてあげるよ。本物の家が見つかったら帰してあげてもいいけど、君に似合いの居場所をあげてもいい。どうする?」

 家に帰りたい。だが誰かに迎えに来てもらうのを待つのに懲りたのも事実だった。ラルフは不安げな顔でおずおずと差しのべられた手をとった。

 縋りつくような気分で掴んだ手は温かかった。


 それからアリサとの生活、もとい訓練が始まった。

 兎型の魔物の突進を避け損ね、足を絡ませ転ぶ。泣くのをこらえ身体を捻って、魔物を狙い小剣を突きだす。だが小剣は宙を切り、魔物はラルフを悠々と押しのけて森の暗がりに跳ねて行った。その背が非力さを嘲笑っているようで、悲憤を制御できず涙が滲みでてくる。情けないことにこんな調子が迷宮第一階層に入ってから長いこと続いている。

 迷宮特有の薄紅色の空は現実感がなく、生温く磯臭い空気も慣れないものだ。座り込み吐息をつきながら、森のあちらこちらから魔物の敵意を向けられているような気がして身震いした。

 ラルフは攫われた事件以後、魔結晶を取り込むことを禁止されており、生身を鍛える練習をさせられていた。魔結晶の補助なしでは、非力な子供だという自覚があった。だからなのだろうか。ラルフは魔物が怖くて仕方ない。自力で魔物を狩れるようになるとはどうしても思えないのだった。

 ラルフが起き上がる様子がないことを見かねて、背後からアリサが近づいてきた。漆黒の皮手袋を嵌めた手を伸ばし、頭を撫でて慰めてくれたかと思うと、次の瞬間頬を平手打ちされる。

「立ちなさい。座りこんじゃだめ。手元から武器を離してもだめよ」

 視界が滲んで、アリサの顔がぼやける。それでも彼女が厳しい顔をしていることは知っていた。不吉の象徴めいた鴉色一色で装備を固め、三つ編みを巻き外套のなかへ仕舞い込んだ彼女は少年じみていた。だが女性らしさを残しつつも意志の強さが現れた面差しは、迷宮の内部でも変わりない。

「泣いてもなんの問題も解決しないわ。いまはまだあたしがいるからいいけれど、いなくなったらどうするの? ラルフ一人で、どう生きていくの?」

 澄んだ金の目はラルフを見つめて問いかけてくる。ラルフにはそれがいつか消えてしまうことが想像できなかった。

「……でも、俺にはできない」

「いまラルフが直面してるのは、できるできないとかの問題じゃないでしょ。やらないうちから、できないって言ってるだけ。あたしとずっと一緒にはいられないのよ? ラルフの面倒を一生みてあげられるほど、あたしは優しくない。もちろん世界もね」

 小剣の柄を握りこむ。小剣は重く、目的のものへと振り降ろそうとするだけでも一苦労だった。ラルフは泥だらけになった自分の体を見下ろし沈黙する。

「………………」

 どこからか遠くから魔物の遠吠えが聞こえた。

「我儘言われても、これだけは折れてやらないから。ラルフが独りになっても生き残れるように教えてあげているの。あたしが教え込めるのはこれしかないから。反論はラルフが一人前になったら聞く。いまは立ちなさい。諦めんな。あたしができることはラルフにもできる」

 手を引いて立ち上がらせられて、向かってきた魔物と対峙させられる。

 ラルフはついに涙を滂沱と零しながら小剣を振るった。振るった小剣に躰を振り回され転び、何度も立ち上がった。勝利を収めるまで六時間の苦闘を続けさせられた。膠着と転倒を繰り返すだけの未熟な戦闘は、つまらないの一言に尽きただろう。けれど彼女は泣き言を零すラルフを叱咤し、戦闘が終わったあとには激励した。

「できないって言ってたけどできたじゃない」

「はい、アリサさんの言う通り……、です……」

「できるに決まってるわ。あたしはラルフができるって信じてたもの」

 痩せ細った子供の体についた傷を、彼女は普通の子供にそうするように慰めながら治癒術を施してくれた。耳元で囁かれた優しい声色は、ラルフの耳朶を心地よく打った。

 迷宮の陽が落ちたあと、天幕の下でラルフはアリサの傍で布に包まった。

「あたしはね、こういうことしか教えてあげられないの。いままでなにをやってきたんだろうって、自分でも呆れるけれどそれしかないの」

 訓練を迫っていた鬼のごとき気迫は消え去り、ラルフの頭を撫でる手つきはただただ優しい。

「足りないものは他人から奪うしかなくて、戦わなければ殺されるしかない。そういう考え方が浸透した世の中で、人間として生きるために必要な術……」

 アリサは言葉を途切れさせた。

「押し付けだととってもいい。わたし自身、自分が時々間違っているのかもって思うけど、でもいまは……」

 正否の判断はつかないものの、めずらしく胸中の想いを伝え聞かせてくれるのを、ラルフは安穏とした気持ちで聞いていた。


 ラルフが歳を重ねるにつれ、狩場となる迷宮の階層は深度を増した。小型の魔物から、中型、大型へ。狩りの対象となる魔物の難易度は高くなった。

「人間の急所は脳天、目頭、鼻、顎、鎖骨の間、鳩尾……股間まで一直線。そしてそれ以外の弱点は骨の薄い、こめかみ、関節の……」

 魔物を相手にするのに慣れたと彼女が判断すれば、今度は人間を殺す術を仕込まれた。舞踏武術、暗殺術、攻撃魔術の避け方、様々な武器の扱い方。それらの知識を修めれば、最終課題として毒を盛られて迷宮に置き去りにされた。熱に魘される身体で迷宮を這いずり、一階層の出口まで辿り着くのには一か月の時間を要した。

 そんな調子で滅茶苦茶な修練を課されて、初めに感じていた不満も忘却し四年が経ったころ。迷宮でラルフが罠にかけてみせた小竜を背景に立つアリサは出会ったときと同じ飄々として言ってのけた。

「ラルフは強くなった。これからはその力で自分の道を引き開きなさい」

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