誘う香り 火茂瀬真斗
俺は梓さんに背を向けて、歌姫の待つ2階へ上がった。
甘い香りが漂う廊下を歩き、『Hitsuki』と彫られたプレートが貼られた扉を見つける。
ゆっくりと歩み寄り、ドアノブに手を掛けた。
ヒツキ:「遅かったわね」
上品に笑う仮面を付けたヒツキは、大きな天井付きのベッドに横たわり、こちらを見ていた。
ベッドの上のヒツキが何も身につけていないのが、白いレース越しに透けて見えた。
ゴクリと無意識に唾を飲み込む。
後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと一歩一歩、ベッドの上で艶かしく微笑むヒツキに近付く。
廊下に漂っていた香りはこの部屋から発せられていたようだ。
おそらく、ベッドの横にあるアロマキャンドルからだろう。
甘く官能的な香りは、俺の理性を容易に狂わせた。
火茂瀬 真斗:「この部屋には……2人だけ?」
薄暗い照明が大人の世界を作り出す。
俺は首元まで締めていたネクタイを片手で緩めた。
ヒツキ:「貴方と私……2人だけよ」
ヒツキは自分の腰をゆっくりと撫でる。
その行為を見て、俺は下唇を舐めた。
久しぶりの生身の女に、体内で血液が駆け巡る。
そして浮かぶ、みゆきの顔。
今まで女霊とは体を重ねていたが、それは夢であって現実ではなかった。
現実の女に手を出した事は一度も無い。
俺の中に残る理性の欠片が、目の前の女を拒絶する。
早く殺人依頼の情報を聞き出さなくてはならない。
ヒツキ:「ねぇ……服を脱ぐ前に、呑み直しましょ?」
俺が声を発する前にカーテンの隙間から伸びてきた手が俺の頬を撫でる。
残った理性を削ぎ落とす様に、優しくゆっくりと。
火茂瀬 真斗:「うん……じゃぁ少しだけ」
俺の頬を撫でる手に自分の手を重ねる。
ヒツキは手をカーテンの中に引っ込めると、白いシーツを体に巻き、カーテンを開けた。
ヒツキ:「ここ。座って」
ヒツキはベッドの淵に座り俺の手を取ると、自分の右隣に座るように誘導した。
火茂瀬 真斗:「何呑むの?」
くびれた腰に手を回し、抱き寄せる。
ヒツキ:「私の好きなの」
ヒツキはアロマキャンドルの炎が反射する華奢なワインボトルとワイングラスを指差した。
火茂瀬 真斗:「ロゼが好きなんだ」
ヒツキ:「スパークリングよ」
ふつふつと気泡が浮き上がるピンク色の液体は半分ほど無くなっていた。
火茂瀬 真斗:「他の男と呑んでたの?」
ヒツキの顎を指ですくい、俺の方に向かせる。
ヒツキ:「気になる?」
んふふ、といやらしく挑発する様に笑うヒツキからは、仄かにアルコールの匂いがする。
グラスが2つ並んでいるが、片方しか濡れていない事から、おそらく俺が来るまで1人で呑んでいたのだろう。
火茂瀬 真斗:「あとでたっぷり教えてもらうよ」
ゆっくり唇を近づけると、人差し指で止められた。
ヒツキ:「それは……あとで」
おあずけを食らい、仕方なくワインを呑む事にした。
ヒツキ:「乾杯」
ワイングラスが触れ合う。
グラスに口を付け、隣のヒツキを横目で窺う。
火茂瀬 真斗:「ねぇ。何で仮面、外さないの?」
仮面から少しはみ出ている火傷の様な、皮膚のつっぱりの原因から聞き出す事にした。
理性が残っている間にヒツキや店の事、殺人依頼について聞いておく必要がある。
理性が飛んだら覚えている自信が無いので、既にスマホで録音をしている。
ヒツキ:「貴方の興味を引き付けておく為よ」
そう簡単には話してくれないようだ。
改めてベッドの上で聞くことにして、俺は諦めてワインを口に含んだ。
ヒツキ:「貴方、お仕事は何してるの?」
ヒツキは俺の太ももを撫でながら、上目遣いで俺を見つめる。
ほんのり赤くなった頬に、お酒で濡れた唇が色っぽい。
全身で俺を誘っている。
火茂瀬 真斗:「公務員だよ。平凡な」
アルコールが強いのか、頭がクラクラする。
ヒツキ:「今の収入、満足してる?」
火茂瀬 真斗:「どう思う?」
俺はワインを呑み干した。
ヒツキ:「良い仕事があるの」
ようやく本題に入った所で俺の体に異変が起きた。
ヒツキの顔は見えるし、声も聞こえる。
だが目を動かす事も、唇を動かす事も出来なくなってしまった。
体に感覚が無いのだ。
火茂瀬 真斗:「どんな仕事?」
今の発言は俺であって俺じゃない。
ヒツキ:「美人を殺して私に報告してくれるだけでいいの。簡単な仕事でしょ?」
怪しげに笑うヒツキの顔も見えるし、殺人依頼の内容も聞こえる。
火茂瀬 真斗:「それだけでいいの?」
だけど答えているのは俺じゃない。
俺の意識は体から隔離されている。
ヒツキと取り引きをしているのは俺の “体"だ。
ヒツキ:「こんなに簡単なのに誰も報告に来てくれないの。好きなだけ報酬を出してあげるって言ってもダメなの」
火茂瀬 真斗:「俺に任せて」
だんだん“俺”は眠くなってきた。
ヒツキ:「ねぇ……」
ヒツキはワイングラスを置き、自分の後頭部を手を伸ばした。
だんだんと俺の視界がぼやけて、目の前が見えにくくなってきた。
ヒツキ:「私、綺麗?」
ヒツキが仮面を外した。
だが俺にはもう見えない。
隔離された俺の意識は眠ってしまった。
目を覚まし、体に感覚が戻ったのは、駐車場で梓さんに殴られた時だった。
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