神聖国大聖堂の集い。

 双子の女神を主と崇めるルミナ教。

 人族のリーダー的な存在である神聖国は、そのルミナ教の頂点である大聖女を国主とする宗教国家である。

 この国は善人の国である。

 国政を司る上層部には本当に善人しか存在しない。

 女神様は清廉な心を是とし、国民は、それを心掛けるほどに、特別な力を賜わることが出来た。

 魔力が増えたり、膂力を授かったり、頭が良くなったり、足が速くなったり、お肌がスベスベになったりと、まぁ色々である。

 また、恩寵にかまけて悪しき様に振る舞えば、あっという間に力を失ってしまい、見る間に失脚してしまう。

 ただまぁ、俗物的な女神様の好みというか、匙加減によるところが多いので、まったくの公平という訳ではないのだが。

 そして、完全に実力主義の国である。

 貴族もいないし、世襲制や縁故による昇進などもない、賄賂など金で立場を買うなどもっての外の、とってもクリーンな国である。


 さて。


 その神聖国の、他国では王城に位置する大聖堂にて。

 この国の最高戦力たちが集結していた。

 聖女の頂点たる大聖女を筆頭に九人の聖女、百人の聖騎士、他、高位の神官にシスターと、大聖女を先頭にして、全員が列を成して跪いている。

 胸の位置で手を組み、双子の女神様に祈りを捧げているところだ。


 先頭で跪くのは大聖女マリア。

 歳は四十代後半だが、その色気たっぷりの美貌は二十代のお姉さんにしか見えない。

 秘訣は女神より賜わる魔力の恩恵である。

 この国は女神のおかげで皆が美形である。

 中でも、上層部ほど得られる恩恵は果たしないモノになる。

 その頂点たる美貌で、さらにはボインでもあるお姉さんが祈りを捧げる目の前には、大理石で作られた双子の女神像だ。

 仲睦まじく手を取り合い、その繋いだ手では銀の明滅を繰り返している。

 只今、神託の真っ最中である。

 大聖女は時折りブツブツと囁いては、ウンウンと頷き、小さく首を振る。

 どの仕草も晴れない表情、いわゆるお説教前に見る顔である。

 間違いなく悪いお告げだと、背後の皆が戦々恐々としていると。


「チ」


 美しくも苦い顔で小さく舌打ちしたのを合図に光が消えた。

 どうやら神託が終わったようだ。


 マリアは、はぁとため息を吐くと、スッと姿勢良く立ち上がり、クルリと振り返った。

 背後の二列目に控えているのは九人の聖女。

 一様に、真摯な祈りを捧げている。

 張り詰め厳かな空気が流れる中、マリアは一人の聖女に声をかけた。


「聖女アニエス、顔を上げなさい」


「はい」


 キラキラと眩しいほどに煌めくエフェクトがかかったような美貌の持ち主。

 長い金髪は黄金に瞬き、ぱっちりお目目がなんとも愛くるしく、この世の全てから愛されているような顔立ちの、そんな聖女が顔を上げた。

 歳の頃は女盛りの二十代中頃か。

 美女ばかりが居並ぶ聖女の中でも、圧倒的な輝きを放つ、まさにこれぞヒロインという存在感。

 タイプは真逆だが、大聖女の氷のような美貌にも十分匹敵する、プリティでキュートな聖女様だ。

 この可愛らしい美人さんこそが、三年前に魔王を討ち果たした勇者パーティの一人である。

 聖女としての能力は途轍もなく抜きん出てはいるが、しかし誰よりも明るい性格と、うっかりするような失敗が多く、その何処か抜けているところに国民からの絶大な人気を得ている。


 そんなアニエスは何やら嫌な予感を覚えていた。

 こういう勘は得てして当たるものだとドキドキが止まらない。

 目の前の大聖女が発する威圧感なのか、魔王と対峙した時よりも緊張している。

 悪戯がバレる寸前のハラハラとした想いだ。

 大聖女の直弟子にあたる十人の聖女。

 その中でも、このアニエスはマリアに叱責を受ける回数が最多である。

 それはもうぶっちぎりで。

 皆がワザとだと怪しむ、いや確信しているくらいだ。


 ――えー、最近は何かやった覚えが無いんだけど。


 内心ヤバいと思いつつも、アニエスは取り繕ったお澄まし顔をキープしていると、マリアは端的に告げる。


「汝の序列を一位とする」


「な、なぬっ!」――嘘だろっ!おいっ!


 素っ頓狂にも間の抜けた声を漏らしてしまうアニエス聖女。

 完璧だったお澄まし顔は一瞬にして崩れた。

 変顔である。

 顎を突き出し、目を見開いたままフリーズする。

 予感は的中したが、それは想像以上に悪いものだった。

 序列一位とは次の大聖女を示すものだ。

 この国の生きとし生ける全ての者たちの母になれと言うのだ。

 そんな、ばかな。

 まさかまさかの大どんでん返しである。

 そうはならないように立ち回っていたのに?

 ちょっと楽しみながらも、アホの子を演じていたのに?

 今までのお説教タイムは一体なんだったのか?

 屈辱に耐えた時間を返してよー!


 そんな思いを胸に秘め、無言で口をお魚のようにパクパクとするアニエス。

 この口パクには勿論意味がある。

『嘘でしょ、嘘だと言ってよ、母様』と、必死に訴えているのだ。


 その対面。


『てめえ、こんな時に嘘なんて言わねーよ』と目線で返すマリア。


 師弟関係を結んでから十年の時が過ぎた今、二人は完璧に通じ合っているので、声無き会話は一言一句違わずに成り立っている。


「此度の魔王軍を退けた後、私は大聖女を引退します」


「……。」


 半ば放心状態となったアニエスは、フラフラと左右に大きく揺れ始めるが、マリアはコレを無視して平然と続ける。

 アニエスのペースに持っていかれる訳にはいかない。

 とっても長くなるから。


「貴女がこの国の母として差配しなさい」


「…………あ」


 アニエスは我に返った。

 そして、このまま決まってなるものかと、断固拒否の姿勢を見せる。

 バーンと、右手の平を勢いよく突き出して。


「ちょっと待ってくださーい!

 何故私なのですか?

 私よりも優秀で序列の高いお姉様方がいまーす!」


 アニエスの序列は六位だ。

 歳上で纏め役となれる聖女は五人もいる。

 そんな私が母様なんて畏れ多い。

 荷が重いし、重すぎる。

 ストレスで太っちゃう。

 っていうか真平ごめん、嫌なのだ。

 本当に嫌だから必死である。


 アニエスの叫びを、マリアは涼しい顔でそれを無視。

 氷の美貌は何一つ揺るがない。

 完全に受け流されたアニエスは、負けるものかと、更なる攻めに入る。


「むん!」


 突き出した手のひらを握り拳へと変えた。

 ギュウギュウに力を込めた握り拳だ。それをマリアへと差し出す。

 力づくも辞さないぞ、これはそういうポーズである。

 この二人は、気に食わない事があれば、普通に殴り合いの喧嘩をする。

 師弟の絆はぶつかり合う度に、強固なものへと変わっていくのだ。

 二人の絆は誰にも引き裂けない。

 それはもう、カッチカチである。


 ――母様よ、簡単に勝てると思うなよ。成長したニューアニエスの力を思い知るが良い。


 母様も、二十年前に魔王討伐を果たしている。

 今まではその経験の違いからか、まったく歯が立たなかった。

 容赦なくボロ負けだった。

 けちょんけちょんにされてきた。

 しかし、魔王討伐を果たした今は違う。

 経験値の差は、ほぼほぼ無いだろう。

 肉体も今がピークだ。

 この国で一番強いと自信を持って言える。


「ふんっ!」――絶対に退くものか!


 アニエスはぶん殴ってでも撤回させてやると息を巻いた。

 歯を剥いて睨みつけるその容貌は、獰猛な肉食獣の気配を漂わせる。

 事実、アニエスは歴戦のツワモノが居並ぶ勇者パーティの中でも二番目に強い。

 剣聖の卓越した剣術と互角に打ち合う見事な杖術。

 大魔法使いの究極へと昇華させた攻撃魔法と互角と言える鉄壁の結界術。

 スピードスターである女シーフの驚異的なスピードにも対処してみせる芸術的な体術。

 そして何より、どんな大怪我も瞬時に癒してしまうという究極の回復魔法。

 流石に聖剣ありきの勇者には敵わないが、素手での殴り合いでは、その勇者でさえも圧倒してしまうほどの傑物である。

 だが、しかし。

 そんなアニエスが放つ歴戦のプレッシャーにも、マリアは顔色を変えることなく、至って冷静に告げる。

 勝利が確定する、とっておきの切り札を切る事にした。


「神託が下りました。次の大聖女はアニエスと。

 水の女神様並びに闇の女神様の要望です」


 私が決めたのではないよ。

 神託だよ。女神様二人が決めたのだよ。

 私は代弁しているだけだよ。

 だから私に凄んでも無駄な事だよ、と言っているのだ。

 この神聖国において、女神様のお告げは唯一無二の絶対だ。

 覆す事など不可能である。

 これには流石のアニエスも、たちまち勢いが削がれていき。


「ぐぬっ」


 突き出した拳を引っ込めてしまった。

 獰猛な気配は一瞬にして霧散する。

 後に現れたのは、大きな瞳も相まって、まるで泣きそうなチワワの如く、プルプルと震えながらの沈黙となる。


 ――それはまずい。迂闊な発言が出来なくなった。


 アニエス得意の弁術が完全に封じられてしまった。

 双子の女神様は心が狭いと有名である。

 故に危惧したのは自らの美貌だ。

 神託に逆らったら、このスベスベお肌を没収されてしまうだろう。

 艶のあるサラサラな金髪も色を無くし、枝毛だらけとされてしまう。

 この神聖国を代表する見事なヒップラインが、デロンと崩れてしまうに違いない。

 そのお尻が大好きな、あの彼をガッカリとさせてしまうかもしれない。


 それでも。


「で、で、でも、でもでも、でもでもでも」


 嫌だ嫌だと、二の句を繋ごうと足掻き始めたプルプル聖女。



「わ、わ、わたくしより―――」


「黙りなさい」


 しつこく言い募ろうとするのを、マリアは、もうぶった斬ることにした。

 もう勝負付けはついたのだ。

 これ以上の問答は時間の無駄にして意味をなさない。

 マリアはマリアでそれどころではないのだ。


「女神様のお告げは絶対です。

 近く貴女にも神託が下ることでしょう」


 最上位の者だけが神託を賜わることが出来る。

 母なる大聖女が言うのだ。間違いなくその日はやって来る。

 それが来た時、即ち、大聖女生活スタートだ。

 そこまでいけばもう後戻りは出来ない。

 水の女神はとても気さくで軽い方だと有名だ。

 脳裏に過ぎったのは、軽い感じで「やっほ〜」なんて神託を下す水の女神様だ。

 それは良い。とにかく明るいアニエスだ。

「やっほ〜」と返してやる所存である。

 テンションが合いそうな姉の方は心配ない。

 問題は姉とは逆に無口だと有名な闇の女神様だ。

 無言でずぅっと見つめてくるらしい。

 死んだ目でだ。

 どんな罰ゲームだと突っ込みたくて仕方がなくなるらしい。

 アニエスなら絶対に我慢出来ない。

 死んだ目がクールだと勘違いをしているお方だ。


「YOU、目がいっちゃってる〜」


 なんて指摘された腹いせに、自分にも死んだ目を強要してくると確信している。

 そして死んだ目のブームを巻き起こせという無茶振りをしてくるに違いない。

 そんな痛い母様なんて、皆、嫌だろう。


 ――こうなったら私の美声と演技力を駆使するしかない。


 アニエスは正攻法はダメだと悟ると、攻め方を変える事にした。

 変幻自在のトリックスターと言われる真価が、此処に発揮されたのだ。

 頭をフル回転して悲しげなシナリオを思い描き、直ぐに実行に移す。

 こうなりゃヤケであるという玉砕戦法とも言える。


「ぁぁ」


 低くて重い、血を吐くような呻き声だった。

 ズーンと分かりやすく肩を落として、オーバーアクションから入ることにする。

 此処から観客を魅了して味方に引き込もうという目論見、情に訴えてみるという精一杯の抵抗である。

 浅はかが過ぎるが、それもアニエスの人気の一因でもある。

 まぁ煽っているだけだが。

 目の前で見せられているマリアの苛立ちは募るばかりだが。


 アニエスは悲壮感を滲ませた貌で、クルクルと踊るように回り始めた。


「そんなぁぁぁぁぁぁぁ」


 穏やかな水面をゆっくりと泳ぐ白鳥のごとく、なんとも優雅な足捌きで。

 滑らかな円を描く、見事な回転である。

 まぁ、マリアにしてみれば、めちゃめちゃ煽りに煽られている感じなのだが。


「こ、この野郎」


 ヒクヒクと頬を引き攣らせてそれを睨みつけるマリア。

 こめかみには、ビシっと青筋が張り付いている。

 もう、ブチ切れる寸前である。

 彼女の主張はこうだ。

 私は二十年も皆んなの母をやっているんだけど。

 その間、休みは月に半休が三日しか無いんだけど。

 その貴重な半休も、お前たち聖女に気を使ってお茶に誘ったりして潰れているんだけど。

 しかもお前は呼んでもいないのに、毎回顔を出しているんだけど。

 自腹で用意した自分の分のお菓子を、文句を言いながらもやっているんだけど。

 それに毎日のように夢に女神様が出て来るんだけど。

 寝ている時まで仕事をしているんだけど。

 お前は有給までちゃんと消化しているだろうが、と。


 しかし、その爆発寸前の苛立ちは、テンション上げ上げのフィーバータイムに突入してしまったアニエスに届くことはなく。


「い〜や〜だ〜よ〜、ママン〜〜〜」


 身振り手振りを交えながらの悪ノリが始まってしまった。

 アニエスには直ぐに調子に乗ってしまうという悪い癖がある。

 そうなると、つい楽しくなって暴走してしまうのだ。

 そんな時、マリアがする事は決まっている。

 問答無用の鉄拳制裁だ。


「わ〜た〜し〜♩では〜♪無〜理〜♩

 今からでも〜♩嘘だと言って〜♩

 か〜あ〜さ〜ま〜♫」


 初めの悲壮感も何処へやら、明るく朗らかな歌声である。

 なんだかとっても楽しい気分にさせてくれる。


「はい!はい!はい!はーい!」


 アニエスのファンである茶坊主たちが、手拍子と合いの手を入れ始めた。


「ラララ〜♫アリーナー!サンキュー!」


 まるでミュージカル俳優のように歌って踊る、そんなノリノリのアニエスの無防備な背後に、鬼と化したマリアが素早く回り込み。


「ラララ〜♩ハッ殺気?!」


 やばいと気づき、顔を上げるがもう遅い。

 マリアは右手を大きく振り上げて、既に振り下ろした後だった。

 狙われたのはアニエス自慢の見事な臀部である。


「お前が次の母様だ。しっかりしな!」


 パァン!と特大の喝を入れられた。


「ぎゃっ!」


 空気を切り裂く容赦の無い一撃に、膝から崩れ落ちる、夢破れしミュージカルスター。

 流石の反応速度を示して、咄嗟に障壁を張ったがしかし、いかんせんの硬度不足につき、パリンと破られ大ダメージを被った。

 そのままお尻を抑えて踞り、涙声を震わせる。


「い、いった〜いぃぃぃぃ。

 自慢のお尻が、割れちゃったよぉぉぉ」  


 しかしそれでも、逆境に強いアニエスは、陽気なナンバーと共に腰を振り始め。


「でもでもでもでも〜♫」


 尚も悪ノリを続けようと復活寸前となるアニエス。

 してやられても千両役者っぷりを発揮して、此処から盛り返そうとするが。


「そんなの関係――」


「うるさい、邪魔だ、どけ」


「ぐえっ」


 マリアが足蹴にてそんなフラグを蹴散らしてしまう。

 役者の交代だ。

 新たなる主役は、そのまま、皆の前にまで躍り出ると、ボインな胸を張った。

 見事なボインに溢れる美貌、漂うのは熟年の色気だ。

 そんなマリアに性的な目を向ける者など一人もいない。

 いるわけがない。そんなのありえない。

 マリアはこの国の、みんなの母なのだから。

 お母さんにそういう目を向ける人などいないだろう。

 いないはずだ。

 いないと信じたい。

 お願いだ。

 そんな変態、登場させないでくれ。


 それはさておき、マリアは目を細めて、呆然とする皆をゆっくりと見回しながら続ける。


「この馬鹿は放って置くとして……。」


 一通りに目を向けた後、目を閉じて三拍ほど溜めた。

 ゆっくりと息を吸っては、そうっと吐き、さらに勿体つけるようにして続ける。


「皆の衆………。」


 静寂。

 物音一つしない。

 大聖堂にいる誰もが釘付けとなる中。


 クワっと目を見開き。


「っ!」


 右拳を高らかに突き上げて、ババーンと叫んだ。


「出陣じゃーい!」


 その力強い呼びかけがハートに直撃した皆の衆は、大きく退け反った後、肩をワナワナと震わせ始める。


「お…お、お……」


 その一瞬の静寂は力を溜めるための時間だ。

 噴火前の火山の如く、皆が一様に、湧き上がってきた感情を爆発させる。


「おおおおおおおお!!!」


 それは魂からの叫びだ。

 大聖堂がドカンと沸いた。

 聖女が、聖騎士が、神官が、シスターが、休憩の準備を進めていた茶坊主までもが。

 ジジイからガキまでの老若男女が拳を高らかに上げる。

 その場は一体感に支配された。

 この場に居る者たちは、ほぼほぼ孤児である。

 大聖女を母とした大家族だ。

 その母が言ったのだ。

 出陣だと。

 やってやるぞと。

 だから皆も続けと。

 高揚しない者などいない。

 涙目となった唯一人を除いて。

 次の大聖女に任命されたアニエスは、寝っ転がってふて寝をしている。


「えー、本当に嫌なんだけどー」


 大聖女になる。

 それは誰もが憧れる存在、という訳では無かった。

 デメリットが多すぎるのだ。

 まずは引退するのが女神の神託次第となる。

 自己都合では出来ない。

 下手をすると死ぬまでだ。生涯現役である。

 聖女はまだ良い。

 週休二日に有給もあるし給金も決して高くは無いが、まあまあだ。

 希望や意見なども聞いてくれる。

 ある程度の自由が確約されているのだから。

 しかし大聖女は違う。

 国主としての責任が重くのしかかってくるし、仕事も多忙を極める。

 残業代も出ない。

 丸一日休んでいる日など、見たことも無い。

 国から出ることも許されない。

 大聖堂から出ることすら簡単にはいかなくなる。

 アニエスの大好きな屋台巡りなどもっての外だ。

 教会の食堂でしか食べられない。

 長生きするようにと、薄味の健康食のみだ。

 自由など無いし美味しい物も食べられない。

 そこまでやっても給料など聖女となんら変わらない。

 せいぜい聖女たちに振る舞うお菓子代くらいのものだ。

 更に、使う暇も無い給料が、ある程度溜まってしまうと寄付を余儀なくされる。

 頭のおかしい所業。

 まったく意味がわからない。

 一体何が楽しくて働いているのだろうか。

 そして、一番の懸念。

 何よりも、何よりもが、夢である結婚が遠のくということだ。

 聖女は三十歳を目処として引退するかどうかの選択を問われる。

 もちろんアニエスは円満に辞する所存だ。

 結構な退職手当を貰えるし、それを元手に他国で治癒院を開くのでも良い。

 元聖女なら引っ張りだこ、生きてさえいれば大抵の傷は癒してしまう、破損した四肢でさえも生やしてしまうのだから。

 週に一日営業するだけでも大儲けだ。

 憧れのスローライフの始まりだ。

 しかし、大聖女となれば話が違う。

 やめられないのだから。

 あと数年ほど働いてから引退して、絶賛恋人関係にある勇者に嫁ぐというライフプランが叶わなくなった。


 勇者にどう説明しようかと頭を抱えるアニエス。


「勇者を辞めてもらって、秘書として手伝ってもらおうかしら?

 彼は優秀だから週一の休みくらいは確保出来るようになるかも」


 なんて、勇者を引退するなどあり得ない未来を思い描いたところで。


「ちょっと待てよ」


 違和感を感じた。

 勇者と結婚を約束していることは、マリアも既にご存知だ。

 先日報告した時は喜んでくれた。

 早く子供を作れよと、下世話な事も言われた。

 母様も早く作れよ、あっ、その前に彼氏を作らなきゃね、と白々しく返して、結構本気のどつき合いへと発展したが。

 ともあれ。

 なんだかんだ言っても母様は慈愛に満ちた優しい人だ。

 大聖女ともなれば女神様に進言する事も可能である。

 これまで何度も意味不明な神託を退けている。

 それをぶった斬ってまでの突然の人事。

 更に信じられないのは大聖女の出撃だ。

 歴史上、大聖女が出撃したという記録は自分の知る限り無い。

 明らかに異常事態だ。

 此度の魔王はそこまで強いということなのか?


 アニエスが顔色を変えて困惑する中。

 出陣の準備は粛々と進められていく。


「よーし!みんな!」


 一先ずの時が過ぎたところで、マリアがワイングラスを高らかに掲げた。


「杯を待て!」


「おおおお!」


「かんぱーい!」


 景気付けにとワインが振る舞われた。

 大聖女はそれを男前に一息で飲み干すと、詳しい概要を下知する。


「此度は経験豊富な精鋭のみの出撃とする。

 聖女は私を含めた上位の五位まで、聖騎士他は三十歳以上の百名までだ。

 準備が出来次第、速やかに出立とする。

 若い奴らは転移魔法陣に魔力を充填しておきな!」


「おおおおおおおお!!」


 皆が雄叫びを上げる中、ただ一人違う反応を示したのは、後ろ向きで考え込んでいたアニエスだ。


「え?!」


 若い者を残していくという内容に、目を剥いてバッと振り返り。


「母様!まさか!」


 焦り顔でそう呼びかけると、マリアは人差し指を唇に押し当て、ゆっくりと首を振る。

 黙っていろ、だ。

 その直後、厳しい顔から一転、優しく微笑んでみせた。

 それは久方ぶりに見た母の貌。

 聖女に就任した直後に向けられた慈愛の笑みだ。


 ――母様は死ぬ気なのだ。


 アニエスはマリアが生きて戻るつもりは無いのだと悟る。


 アニエスは天を仰いで瞳を閉じた。でないと涙が溢れてしまうからだ。士気が最高潮となった出陣前に、水を差す訳にはいかない。


「ああ」


 そうだ。そうだった。

 母様はいつだって自分を一番に犠牲にする人だった。


「誰か!私の杖を持てーい!」


「そんな」


 浅はかな自分を恥じて、天を見上げたまま、膝をつくアニエス。

 あれだけ明るかったその貌は見る影も無く。


「母、さ、ま」


 その力の無い呼びかけは、誰一人拾う事はなかった。



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