第4話 N警察署での取り調べ1

 週3日のアルバイトの傍ら、神野は週5日のペースで新しいスポーツクラブ(Gスポーツクラブ)に通い始めていた。

 バイトの帰りに利用するには以前と比べて何ら不便はなかった。むしろ、独り者で料理のできない彼にとって食堂が利用しやすくなった。

 Gスポーツクラブの設備はKスポーツクラブのそれと比べて段違いに良く、Kスポーツクラブが廃棄した旧タイプの機種もまだ現役で活躍しているのが嬉しい。会費は約3分の2になった。

 かってKスポーツクラブの会員だった10数名とも再会でき、特に親しかったトレーニング仲間数名とも2年ぶりに会話ができた。


 3週間ほど経ったある日、そんなまったりとした平和な生活は交番勤務の制服の警察官2名の来訪を皮切りにじりじりと崩れ始めた。


(災難は忘れた頃にやって来る)

とはこのことか。


 野々宮奈穂の復讐心など全く気付かぬ神野には、正に『晴天の霹靂』であった。

 神野は生まれて初めてパトカーに乗った。警察署に行くという。

 途中、交番に立ち寄った。


「あれっ! ここなん?」

「いや。ちょっと、寄って行く。それから署に行く」


 その交番は20年ほど前に一度訪れたことがあった。


 神野が現役で大阪に勤務していた頃利用していた駅のホームで、明らかに痴漢目的と思われる中年の男を見つけた。

 その男は神野の乗る駅で前の電車を降り、目ぼしい相手を探してばたばたと乗車口間を動き回っていた。2~3度、そいつのすぐ後ろから乗り現場を押さえてやろうとしたが、混み過ぎていて無理だった。


 後日、近くの交番を訪れ勤務中の警察官に自分が立ち会うから現場を押さえてくれるよう頼んでみたが、満員電車で現場を押さえるのは難しいやら、逆に訴えられるとか言い訳ばかりで埒が明かなかった。50代の太った無気力な警察官だった。

 その時以来、神野はこの交番に関わるのを止めていた。拾得物もわざわざ遠くの他の交番に届けたほどだ。


 パトカーはN警察署に到着した。

 何度も前を通ったことのある警察署だ。古い……ただ古いだけの……。


 TVの刑事ドラマで見たような雰囲気に、

「なんか犯罪者になったみたいやなあ!」

と神野は思わずつぶやいた。


 警察官の一人がすぐに返した。

「犯罪者ですよ」


 神野はムッとした。

(取り調べもしないうちから、こいつは自分を犯罪者と決めつけている)


 2階の取調室に案内するという。狭い小汚い廊下を行き、ドアーを開けると部屋がいくつかあり、その一つに通された。

 初めだけ交番勤務の警察官のうち後輩らしい若いのが、すぐに自分を犯罪者扱いした先輩らしいのが取り調べを担当した。

 この間、このN警察署の私服の警察官数名が入れ代わり立ち代わり出入りしていた。暇な連中どもだ。

 どうでもよい世間話で和んだ後、本題に入った。


「Kスポーツジムの大友裕子さんからお尻を触られたという被害届が出ていますが、間違いないですか?」


 意外と言葉は丁寧だ。神野はすぐに返した。

「触ってはいない。ただ、太ももから上に滑らしたとき、臀部の下の方に当たっただけ」


「大友さんははっきり、『触られた』と言ってますよ」

「当たったことは間違いないと思うが、触ったのではない」


 パソコンを打ちながら、こんな押し問答が延々4時間近くも続いた。彼らは時々席を立ったりしていたが、神野は座りっぱなしだ。途中で一度、室内で検証があった。

 

 トレーニング仲間に対しては、スキンシップに無遠慮な神野であった。だが裕子に対しては遠慮気味だったが、改めてどこまでと言われても脚の付け根のすぐ上辺りとしか言えず、絶対的な確信はない。

 これがセクハラになるのなら、30代のスキーヤーとしての全盛期の頃、何10回犯罪を犯したことかしれない。


 40年も前、神野は北海道のニセコ高原の最奥にある小さなスキー場で民宿を営む、仙人のようなご老体から深雪を滑る極意として、山腰の有効性を徹底的に指導されていた。

 彼はその後、徹底した自主トレを行い、深雪スキーではある程度のレベルに到達していた。


 その後も深雪を求めて、八甲田山をメインにニセコや燕温泉の各スキー場に毎年出かけていて、スキー宿で知り合った若いスキーヤーにはよく実演で指導していた。

 これらの行為は女性スキーヤーに対してはすべて犯罪になってしまうではないか。腰や骨盤に触れることなく、どうやって指導するというのだ⁉

 


 途中、先輩警察官は後輩の作成した供述書を時間をかけて修正していた。最後に、プリントした供述書にサインと指印および捺印を要求された。

 触ったのではなく、触れたとか当たっただけといくら言っても聞き入れられないので、罰金を取られることもないだろうからまあいいかと気楽に考えたが、最後の一文だけは納得できなかった。


 その供述書の中に『著しく迷惑をかけ』という文言があった。

 神野には、(自分の腰の柔軟性を取り戻すために有効な術があれば伺いたい)という不純な動機こそあったが、大勢のアスリートに受け入れられたこのストレッチングを指導したのに、『著しく迷惑をかけ』は到底納得できるものではなかった。


  先輩警察官は、条例でそうなっているので削除できないなどと馬鹿なことを言っていた。

 多少は不快な思いはさせたのかもしれないが、『著しく迷惑をかけ』などしていない。

 条例に合致してないなら犯罪ではない。


 この件で交番勤務の先輩警察官と少々強くやりあった。埒が明かないので、

「相談する人がいるので、明日にでも出直す」

と言うと、すかさず


「ああ、後で訂正できますよ」

と私服の警察官から声がかかった。彼らはこの為に居たのか!


 取り調べも既に5時間近くになっていたので、神野も流石に少々疲れと空腹を感じていた。

 神野には相談するのに最適な人物が頭に浮かんでいた。その人は彼の義理の叔父で、T警察署の元警視である。

 相談したいがそうすると、冤罪なのに誤解されたままの情報が身内に伝わってしまう恐れがある。それに、ケータイをスマホに替えたばかりで、まだ義叔父の電話番号が移されてなかった。


(後で訂正できるならまあいいか。それより早く解放されたい)


 大きな判断ミスだった。あまりにも無知で迂闊だった。

 この大ミステイクがそれから数年間の自分の人生を大きく狂わすことになるとは、この時神野は想像だにしなかった。


 決して元警視の義叔父の権威を借りたいわけではない。フェアープレイを誰よりも望んでいる彼は警察官の取り調べに関する知識が得たいだけだった。


 裁判沙汰になるとも知らず、神野はサインし、指印、捺印を押した。



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