第2話 Kスポーツクラブ2

 半年ほど前から20代半ばの新入女子社員がフロアーの担当になっていた。名前を大友裕子といった。神野は初めの頃、彼女は女子大生か卒業直後のアルバイターかと思っていた。ふっくらぽっちゃりしていて、動きも口調もゆっくりでいかにも田舎娘といった感じの女性である。

 そののんびりとした雰囲気は、やもめ暮らしのご老体には、縁側の話し相手に最高の癒し系であろう。


 それにしても動くことが嫌いのようだ。ただ半日突っ立ったままで、なんかハシビロコウを連想させる。

 エルゴメーターを使ったあとは、各自が備え付けのタオルで汗を拭くことになっている。そうしなかった会員には注意をするなり自分が代わりに拭くなりする必要があるが、いつも知らん顔だ。トレッドミルまたしかり。

 

 ストレッチマットを使用したあとは使用前用の箱にあるマット拭きで汗を拭く事になっているが、使用後は使用後用の箱に入れなければならない。使用前用の箱が空っぽになっているよと何度注意してもその時に無表情のまま補充するだけ。すぐに忘れるようで、注意をされてからでよいと思っているようである。


 10月になり神野はKスポーツクラブから3kmほど離れたGスポーツクラブへの乗り換えの準備を進めていた。

 例年通りだと12月からGスポーツクラブではキャンペーンが始まるかもしれないのである。


 そんなある日、神野はいつものようにセルフストレッチングのあと、エルゴメーターを30分漕いだ。機種もゲームソフトもいつものとは微妙に違う。

 更衣室でTシャツを着替え、フロアに戻ると裕子と鉢合わせた。軽い気持ちで訊いてみた。


「エルゴメーターが新しくなったんだね?」

「そうです。他の機械も新しいの入ってます」


「じゃあ、見せてくれる?」

 筋トレ用のマシンはフロアの西側にあり、そちらに案内される途中、神野は以前からずっと気になっていたことをダメ元で訊いてみた。


「数年前から、腰が固くなった所為だと思うが腹筋での上体起しが全然できない……」

「あ、腹筋台ならこちらにあります」


 神野は腹筋マシンの手ほどきを受けたいわけではなかった。むしろ避けていた。腰椎すべり症を抱えている彼には上体を起こすタイプの腹筋運動は具合が悪いのだ。だが、珍しく積極的に指導してくれようとしているのを断る理由はない。

 誘われるままについて行く。

 その腹筋台は黒革のカバーの付いた台に上向きに横たわるタイプで、両足をそれぞれ乗せるローラーが一対ずつセットされている安価な物だ。

 裕子は北側から腹筋台に乗り、両足を東側にあるローラーに乗せた。上体を起こし、腰の角度を左手で指し示しながら、「この角度が90度になるように」

と説明した。神野はこのときつられるように、右手で裕子の背中の下部に軽く触れた。


 やがて裕子は腹筋台を南側に降り、二人ともフロアの中央に戻った。


 神野は元々は腹筋、背筋はかなり強く、ほとんど測ったことのない背筋力は30年前で179kg、最後に測った数年後で164kgを記録していた。

 一方腹筋力と言えば、70歳近い今でも腹筋ローラーを脚を伸ばしたまま、膝をつくことなく難なく20回できた。上体起しも脚を固定しなくても、30年前には1分間で40回は余裕だった。

 そんな神野が今現在脚を固定しなければ上体起しが一回もできない。全く力が入らないのである。その原因を知りたかった。

 最近になって神野自身は、おそらく10数年前から固くなってきた腰の所為に違いないと考えていた。


 上体起しで腹筋を鍛えたいわけではない。腰の固さ故、上体起しができないのと同様に、ランナーに大切なふくらはぎ、ハムストリング、臀部下部を物につかまることなく一気に伸ばすストレッチングができないのが悔しいのである。

 ランナーは通常外を走ってトレーニングを行う。河川敷や林道でのランニングをメイントレーニングとするが、樹木や電柱や塀に手をかけることなく、いつでもどこでも行えるこのストレッチングは、彼らにとってたいへん価値あるものだといえる。


(ようやく、本命の質問に入れる)

 神野は固くなった腰を柔軟にする方法が知りたかった。 

(この有効なストレッチングの効果を体感してもらえれば、腰の柔軟性回復に関して何かヒントが得られるかも……?)

(まずは、このストレッチングを会得してもらわなければ……)


 軽くポーズ を取りながら、

「ランナーにとって有効なストレッチングだけど、私は腰が固過ぎてやりにくい。でも、貴女だったらできると思う。ちょっとやってみてくれる?」


 裕子は無表情ながらも、その気はありそうだ。


「まっすぐ立って………」

「右脚を左脚の前にこのように重ねて………」

「無理に手を下に伸ばそうとしないで、頭と腕の重みだけを利用して………」

「腰を折りながら右膝の裏で左膝の皿を押す」


 このとき、神野の左手は裕子の左肩に軽く触れていた。


「この辺りのストレッチ感を意識して………」


 こう説明しながら、神野は右手のひらを裕子の左膝裏の上部から脚の付け根辺りまで軽く滑らした。

 初めてこのストレッチングを説明するときはこのように説明しながら、効果的な部位を手のひらで示すのが一般的だ。筋トレにしろストレッチングにしろ、効果を最大限に上げるにはその部位を意識する必要がある。また意識するにはその部位に触れるのが効果的である。

 これは英単語を教えるのに日本語で言ってから英語で発音する方法より、指で指したり触れたりした後、英語で発音する方法が身につきやすいのと同じである。


 藤谷慶に限らずトレーニング仲間の女性会員は、ほぼ例外なく脚線が美しい。脚の付け根から臀部にかけても滑らかで段差がない。だが、裕子の場合は少し違った。脚の付け根を過ぎた辺りですっと離れる感じでなく、何かにぶつかって急停車したような………。



 神野はすぐ手を離した。その直後、女性の声が聞こえた。

「大友さん、内線が入ってますよ」


 この10分ばかり前、受付にいた奈穂は更衣室から出てマシンフロアに入って行く神野を見送った。

 5分ほどして、何気なく見たフロア西にある鏡に神野と裕子が腹筋台にいるのが映っている。裕子が神野に腹筋台の使い方を説明しているようだ。

 一瞬、神野が裕子の腰のあたりに触れたように見えた。この流れで少しでも裕子の下半身に触れてくれればしめたもんだが……。奈穂は心の底から期待した。


 やがて裕子は腹筋台から南側に降り、二人とも西側のフロアに向かった。 

 二人は鏡から消えた。

 奈穂は受付から離れて鏡の方に向かった。

 8mも歩いたところで直に2人の姿が見えた。通路の北端にある柵から4~5mのところで2人は向かい合って何か話している。

 やがて裕子はこちらに背を向けたあと前屈姿勢をとった。神野は何か話していたが、やがて少し姿勢を屈めて右手を裕子の左膝裏の上に置いた。


(しめた。チャンスかも)


 神野の右手は裕子の左脚の付け根辺りまで動いている。そのまま臀部に触れて手を動かしてくれれば万々歳だ。

 しかし、期待に反して神野の右手は下に降りようとした。


(もう今しかない)


「大友さん、内線が入ってますよ」 

 奈穂は用意していた言葉を発した。

   


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