第37話 隔たり 前編
バイクの上で額に夜風を感じていた。
「ところでさ、何で
俺が喋り出すと、スレッジは前を見たまま応えてくれた。
「飛ばすぞ」とは言っていたものの、安全運転で助かる。
「どうせあの豚みてぇな大司教が悪さしてるんだろ」
豚みたいな大司教――グラハムのことだとすぐに分かった。
バーグ砦から脱獄する際にも遭遇した憎たらしいデブとして、記憶に深く刻まれている。
また、そのバーグ砦を中心とするこの辺り一帯が奴の統括地である事も念頭に置いて会話を続ける。
「近頃、教皇が民衆に叩かれまくってるのは知ってるか?」
「新聞で読んだ。防壁街をやったのがとうとうバレたんだろ。ざまぁ見ろ!」
「全くだ……そんでグラハムも教皇派だから、あいつへの不満が高まってるのも事実。尤も、あいつのお膝元であるこの街で事を構える命知らずはいねぇみたいだがな」
「もしかして……庶民からの信用回復の為に主を利用するつもりなのか⁉」
「お前には一から十まで言わなくても良さそうだな」
主をしばらく泳がせれば確実に人的被害が出て、すぐに噂になるだろう。
すると、人々は恐怖からの早急な開放を願う。
グラハムが軍隊を動員してそれを叶えれば、功績を誇示できる……そういう企みだ。
グラハムが主を逃がしてしまったのは、脱獄騒ぎに起因するものであり、半分事故のようなもの。
しかし、その真実を知らない世間に伏せて自作自演を働くなど言語道断。
「ハァ……グラハム、とことんクズだな。そこまでして権力にしがみつきたいかよ」
愚痴もほどほどにして無事『My Dear Son』に帰ると、勢い良く扉が開き、先に戻っていたジュリエッタが半泣きで飛び付いて来た。
「もぉっ!! ルドウィーグのバカッ!!」
「悪かったよ……」
ジュリエッタの華奢な拳が俺の胸倉を叩かんとすると、スレッジが彼女を羽交い締めにする。
「止せ、毒が
心配から転じた怒りとも喜びともつかない感情を持て余す彼女を他所に、
「さぁ、取り敢えず部屋に入りな」
「今夜は臨時休業にしてあるから心配要らないわよ」
暖のよく効いた部屋に入って間も無いが、俺はまだ話したい
幸い、彼は隠れたりせずそこに居た。
「モーリス。ジュリエッタのこと、ありがとうな」
「やめてください……ジブンはあなたの事を置いて逃げた臆病者っす」
モーリスは唇を噛み締め、卑下の言葉を口にする。
これにはスレッジも口を挟んだ。
「礼くらい素直に受け取っとけよぉ。おめぇの臆病がなきゃ三人共倒れだったんだぜ? 俺を見つけ出して知らせてくれたのもおめぇじゃねえか」
スレッジが「シャキッとしろ」と言わんばかりに彼の背を叩くものの、むしろより深く俯いてしまった。
険悪な雰囲気にならないうちに気分転換を試みたのだろう、ジーナが
「ム……取り敢えず、ご飯食べて落ち着こうよぉ」
と切り出す。
反応が無いモーリスに
「君もせっかくだからさぁ」
改めて振るものの、彼はこれ以上無いくらい拳を握り締めてわなないていた。
皆、今更になって、彼の感情が爆発寸前な事だけは分かった。
「もうやめてください、さっきから居心地が悪くて仕方無いんすよ!!! 何でそんなに親切にしてくれるんすか⁉ ジブンは、ここに居ていい人間じゃないのに‼」
モーリスはそう吐き捨てるや否や駆け出し、店を飛び出して行った……呼び止める間も無い程の俊足だった。
仮にも普段からヴィンセントのもとで働いている彼のことだから、独りでは夜道を歩けないなんて事は無かろう。
心配すべきは安否ではなく心の方だ。
闇で生きる事を一度は選んだものの、まだ良心の捨て切れないが故に罪悪感に苛まれて板挟みに陥っているのだろう。
彼の言った「居心地が悪い」とは、心の傷に人の温かさが染みて痛いということだ。
夕食の前に、俺は風呂に向かう。
汚染の主の体液を頭から被ったのだ。
毒であるそれを洗い流す事は急務である。
ただ、解毒剤を呑んで尚、俺は自分が思うより大分衰弱しているらしく、皆から「一人で入浴できるようには見えない」と言われてしまった。
そんな訳で、スレッジと仲良く男風呂という流れになった。
「髪洗ってやるよ」
「自分でできる」
「いいから、楽にしてろって」
無理に断る程でもないので、俺は大人しくスレッジに背中を向ける。
風呂場での彼は義手を外しているため、俺の頭皮に触れる掌は一つだった。
けれど、力強くも丁寧な手付きで石鹸を泡立てるものだから、思っていたよりもずっと心地が良い。
「お前の髪、すげぇ癖強いなぁ」
「この外ハネが昔っから言うこと聞かないんだよ」
「クハハッ、俺も若い頃はそうだったぜ。めんどくせぇから今は短く切ってるけどな」
誰かと入浴……それ自体とても新鮮だった。
こう感じるのは、防壁街の家では母さんと二人暮らしだったからだろう。
幼い頃の母子入浴はノーカウントとして、一緒に入る人が――簡単に言えば父さんが居なかったのだ。
あの人は母さんと離婚したわけではないが、訳あって俺が赤子の頃から遠く離れて暮らしているそうだ。
年に数回、手紙でやり取りしていた……遠慮がちな態度が滲み出た文面から、どことなく善い人な気がした。
とは言え、詳しい宛先を知っていたのは母さんも、我が家も失われてしまったため、復縁の望みはあまりに薄い。
少し寂しいが、どうしようもないことだ。
さて、泡を洗い流して湯船に浸かった俺は、スレッジに尋ねた。
「ヴィンセントって、どんな男? 教えて欲しい」
彼は義手の接合部を弄りながら、渋い顔をしていた。
「んなこと話してたら、長過ぎて
「別に風呂から上がってからでもいいじゃないか。はぐらかさないでくれ」
「お前……」
「全部でないにせよ、さっき知ったよ。ジュリエッタの過去とか、クロードの事情とか。ヴィンセントのこと、もう他人事には思えない」
モーリスがあれだけ苦しんでいるのを見せつけられたのが、この考えに至る決定打だった。
弔いになる者として、放っておけない――放ってはならない。
以前からこの街で戦っていたスレッジなら少なからず知っている筈だ。
しかし、彼はついに首肯で返してはくれなかった。
代わりに、重い口調で零す。
「あいつの問題は、俺に責任がある……お前は関わらなくていい」
スレッジはまだ体が温まるほど湯船に浸かっていないにも拘らず、ザバッと上がってしまった。
タオルを口で咥え、片腕でも器用に絞って身体を拭く。
その仕草は心成しか乱暴で、彼の静かな怒りが現れていた。
ヴィンセントへの怒り。
自分自身への怒り。
弔いに課せられた非常なる現実への怒り。
そういうものをいくらか想像する事はできても、当人にしか知り得ない真相がある。
真相は恐らく最古参の弔いたちだけが持つ暗鬱な記憶であり、彼らと俺を隔てているのは確かだった。
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