第9話 Side柊千秋
――きっと香恋は仕事が忙しくて疲れているからだ……。ここで俺が取り乱すのはみっともない。
最初に違和感を感じた時には、浮気より体調が悪いのかと思った。
初めは香恋の不貞を疑ったわけじゃない。
今時とか言われそうだが、政略結婚同様に家同士の利益と祖父母の付き合いの繫がりから結婚したけれど、香恋とは同級生だったし元々の仲は良い方だったから、『夫婦』でいられた。
だが、妻の異変に夫の俺が気づかないわけないじゃないか。
俺への態度が明らかにおかしくなっていく。
それは俺が香恋に話しかけてもツンケンと素っ気なく余所余所しいのと、常に不機嫌で怒っている。
香恋は売れっ子のモデルだから家に帰らないこともざらだったが、心が荒んでいくのを見過ごせない。
ずっと我慢してきたが、ここのところは輪をかけて妻は自由奔放だった。
俺以外の男と、香恋が身体を重ねてるって知っていた。
黙認してきた。
元々は香恋は兄さんの許婚だったし、俺は香恋が兄さんを本気で好きなのも分かってた。
そして――、兄さんが香恋を抱いてから捨てたことも。
与えた幸せをすぐに取り上げる行為は、とても残酷だと思った。
『別れるのを前提で、兄さんはなんで手を出したんだ!』
『大切なまま思い出にしたいって、だから抱いてくれと頼んできたのは向こうだよ。言ったはずだ。俺は結婚なんかしない。誰ともな――』
兄の恋愛観がよく分からない。
俺はその時何も経験していない中身が子供で、なかなか理解は出来ずに考えが追いつかなかった。
どうやら、兄の優大は真剣に愛しすぎてしまうと相手にかなり依存するようだと知った。
恋愛ってのは自分が思っている以上に、人それぞれの価値観や嗜好やクセや求める好みというのがあって、多種多様なんだと気づいた。
年齢や経験を経るほど、単純明快にはいかないんだって。
『俺はね、千秋。……好きな女性が出来ると支配欲が湧いて把握したくなるんだよ。束縛が酷くなると互いに不幸になるから、俺は一人より時々会うぐらいの関係の女性が複数居たほうが心が安定するんだ。俺にあるのは、たまには満たされたいって願望だ。本気の恋愛は、相手を苦しめるだけ』
俺は妻を幸せにしたいと思ってた。
頑張ろうって。
――俺には、好きな人がいた。
小夏だ。
俺はずっと小夏のことが好きだった。
小夏と俺は、暮らしていた家が近所ということもあって、小中高と登下校を共にした仲だ。
気が合って仲良くなった。小学生からの友達だ。
中学生の時に告白したけど、振られたんだ。すっごくショックだったな。
小夏と俺は特別で。
絆を感じてた。
小夏から向けられる視線の熱さもあったから、俺のこと好きでいてくれてるんじゃないかって勘違いして自惚れていた。
交際は断られても友達として関係は続いて途切れず、俺と小夏は友情を育んだ。
友情は壊れなかった。
でもその実俺は、胸の内では小夏を諦めきれずいた。そっと秘かに想ってた。
どうしても忘れられなかった。
小夏は藤宮と結婚したっていうのに。
けれど、ちゃんと思い出に変えて、妻の香恋を愛そうと誓った。
でも、香恋は俺を拒絶している。
身体は受け入れても、心は防衛線を張ったままだった。
(香恋は兄さんのことが忘れられないんだな)
憐れに思った。
小夏を忘れられない自分と重なった。
……もう、香恋の好きにしたら良いよ。
俺は君を幸せにしてやりたかったのに、出来そうにもない。
✧✧✧
「二人っきりなんて久しぶりだよね。小夏、ちょっと飲み直さない?」
「私、お酒はあんまり飲めないの」
「ふふっ、知ってる。でも飲めないけど嫌いじゃのも。アルコールの弱い果汁がメインのカクテル作るよ? 俺のキッチンで一緒に料理しようよ。軽く締めか簡単スイーツを作って、思い出話でもしない?」
今日は園田はいない。
妻の夏恋も、……いない。
「俺、君のピンチに助けるって約束……まだ果たしていないだろ?」
小学校でクラスメートの携帯電話の盗難騒ぎがあった時、小夏は疑いをかけられた俺のために奔走して無実を証明してくれた。
本来、携帯電話なんて持って来たらいけないのに持ってきた上に、無くなった。
犯人はその携帯電話を持ってきた本人。自作自演だったんだ。
あいつは俺を恨んでいた。
小夏は友達が多いので人脈を活かして、その子が校庭の生け垣
「いいのに、そんな。……私、友達が泥棒扱いされてるのが許せなかっただけだよ」
「嬉しかったんだ。俺を信じて、俺のために一生懸命にって頑張ってくれたよね? これはお礼、あの時のお返しだよ。素直に受け取って」
俺は小夏に『旦那さんの浮気の証拠 』の写真を差し出した。
妻の香恋の素行調査のついでに藤宮のさらに証拠集めをしてもらった。
「デートしよっか」
「えっ?」
「お互い、すっきり別れたら。……小夏、前に海のそばの水族館に行きたいって言ってたからさ。やっぱりそれとも旦那さんと行きたかった?」
「ううん。……最後の思い出とかって感傷に浸ろうって思っただけ」
「そっか。俺は妻とのもう思い出はいらないかな。裏切られたけどいっときは愛し合ってたって、……それだけでいいや」
「別れたら、次の恋なんかしないと思う」
「そんなことないと思うよ。もったいないじゃん。この先は長いから、独りでなんて……。俺がそばにいたい」
「同志として?」
「……今は同志の気分かもね。だけどね、そのあとは分からないよ? ……俺、子供の時から君のこと好きだったから。焼けぼっくいに火がついた気もする」
「……ごめん、そっか。私も本当のこと言うと、柊くんのこと憧れてて……好きだったから」
――えっ?
どういうこと、だ?
「小夏、俺のこと振ったよね?」
「うん。……ごめん。柊くんってすっごくモテるから私なんかとは釣り合わない気がしたし、友達の麻友子ちゃんが柊くんのこと好きだったから、彼女を裏切るみたいで。……振ってごめんね」
「はーっ、そっか」
俺は脱力していた。
男として、小夏には意識してもらえていないんだと思っていた。
俺達の間に友情はあったけど、恋愛には発展しないって。
「小夏、……今は?」
情けない。手が震えてる。
急な来客が来ても良いようにストックしていたピンチョスの材料を皿に載せたパンに盛り付けようとしたけど、緊張して上手く載せられない。
「……私たち、タイミングが合わなかったんだね。告白しとけば良かったかな」
「それはどういう意味? 今も好きって受け取っていいの? 俺のこと、まだ好きでいてくれてるって勘違いしそうだ」
じっと見つめると、小夏の顔がぱあっと桃色に染まっていく。
そんな顔されて平常心ではいられない。
「キスしたくなる」
「えっ?」
そっと小夏の頬に手を触れると、柔らかい感触に胸が騒いだ。
このまま唇を重ねて、抱きしめたい。
……歯止めになるのは、俺も小夏も既婚者だって足枷だ。
「柊くんのことはいつだって大切な人だと思ってた」
「それって俺のこと好きだって言ってくれてるの? 離婚したら、小夏とそばにいて一緒の時間を過ごせるって受け取っていいのかな」
香恋と藤宮に復讐だなんて、するつもりはなくって。
ただ、もう自分の気持ちに嘘をつくのはやめにしたいと思ったんだ。
勇気が出なかった。
小夏を失いたくなかったから。
だけど小夏が結婚して自身も結婚したら、疎遠になってしまった。
どうせ、離れなくてはならないのなら、きちんと自分の気持を好きな相手にぶつけていれば後悔なんかしないですんだんだ。
「柊くん……。あの……。あのね」
「うん」
「ごめん。今すぐ離婚出来るかは分からないし、颯斗くん……夫のことをすぐに消しされるか自信がない。それと柊くんに好きだって言われても、なんか……どうしたら良いのか分からない。だって柊くん、モテるのに。……なんで私なの?」
俺は小夏の手を握り、抱き寄せた。
「好きになったのに理由はないよ。だって考えるより、気づいたら君に恋に堕ちてたから。あとからどんどん好きが大きくなって。……小夏の好きなとこ、素敵なところはいくらでも出てくる」
「私も好きだった。……ごめん、まだ颯斗くんに引け目を感じちゃうんだ」
「へえ、……そっか。また俺を一番に好きになってよ」
「えっ?」
「俺、旦那さんより見てもらえるよう、頑張るよ」
「だってそれって……」
「もう……、小夏のこと好きだ。はっきり自覚したんだ。想い出にしようっておもったって無理だったんだ。俺は今も昔も君のことが好きだ。ずっと好きな気持ちはそっと存在していたんだろうね。思い出と一緒に静かに。再会して小夏と一緒に料理をしたり、食事をしたりが楽しい。なにより、俺は君と同じ時間を過ごせるのが嬉しい」
「……柊くん」
「俺も小夏も、覚悟を決めて別れる時はたたみかけるようにパートナーに話さないといけない。考える隙を与えるとこじれるし、別れを渋ったり、条件を自分に都合よくしようとするから」
「うん、ありがとう。……柊くんはあっさり別れらそうなんだよね? 私は颯斗がどう出てくるかが分からない」
「あれだけ用意周到に準備したからねって言いたいとこだけど。……ほんというとさ、俺だって裏切られて悲しかった。妻を罵倒したかった。クールで俺に関心がないはずの妻は開き直って、それから怒鳴って泣き叫んでた」
サレ妻、サレ夫とか言われる側の俺たちと、裏切って浮気した側の藤宮と香恋。心の傷のどちらが深いだなんて、誰の目にも明らかじゃないか。
「俺は小夏。君のことが好きだ。やっと本当の気持ちが言えた。小夏は藤宮といて幸せ? 将来もこの先何十年も藤宮と暮らして夫婦でいるつもりなの?」
「……颯斗とこの先何十年と一緒に暮らす。……きっとまた私、夫に裏切られるのね」
「一緒に戦おう。裏切られたままで知らぬ顔して夫婦生活を続けられるほどね、気持ちは割り切れるもんじゃないと思う。毎日毎日小夏が傷ついて、その傷を抉られていくのを俺は黙って見ていられないよ。そんなの小夏の心が壊れてしまう」
抱きしめた小夏は肩を震わせて泣いていた。
「……もしかして別れたくないの?」
いやだ。
藤宮を選び取らないでくれ。
「責めるつもりなんてないよ。小夏はどうしたいの? 藤宮と別れたい? それとも修復したい?」
答えを先走ったり強要しちゃいけない。
それは分かっているのに、俺は小夏の答えを聞きたくてしょうがなくって。
心が掻き乱されて、嵐に吹き荒れている。
ざわざわと落ち着かない。
小夏をもっと強く抱きしめる。
「――好きだ。俺は君が好きだ。それだけは忘れないで。小夏は一人じゃない。藤宮に立ち向かう時、俺は君のそばにいるって約束するよ」
小夏は迷っているのかもしれない。
夫婦が別れるのは簡単じゃない。書類上は紙一枚で別れるけれど、そこに辿り着くまでに相当のエネルギーが必要だ。
だから。
そう、ただただ、思うんだ。
俺の腕の中におさまっている小夏を、俺はなにがあっても手離してはいけないって。
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