第2話


 唇と唇が合わさる行為をなんて言うか知ってる?

 なーんて問い掛けをしても、全ての人間が口を並べてその答えを即答するだろう。

 それくらい誰だって知っている一般常識、知っていないやつなんて生まれたばかりの赤ん坊だけ。

 でも、その意味を知っているだけで実際にした事がある人なんてあまりいないでしょ…なにせ私自身ソレをしたことがなかったんだから皆んなそうに決まっている…。

 え?したことある人って結構いるの?私が経験ないだけ?…う、うっさい!


 とっ、とりあえず…!

 私はソレが初めてだった!初めてだったんだ!

 ただ唇と唇が合わさるだけなのに!あんなにも温かくて重みがあった現実味があるなんて知らなかった!

 だから最初気付かなかった……司が突然歩み寄ってきた時何をされたのかを!


「~~~ッ!!!」


 湿った唇が全てを物語っていた。

 私は唇を拭って、混乱しながら司を睨む…。

 しかし、さっきまでの煮えたぎるような怒りがそこにあるかと言われたら…無いと答える。

 それくらいの緊急事態だった、司に対する怒りの炎が弱まってしまうくらい…今はとんでもない事態なのだ。


「な、ななっ…!なにをしたか、アンタ分かってやってんの!?」

「ああ、悪いと思っているが……でもすまない、どうしても我慢できなかった」

「だって私は…茜の事が好きだからね♡」

「絶対悪いと思ってないでしょ!?あとそれは理由にもなってなーい!」

「そ、そもそも!突然…あんなっ!」


 それは唐突で突然で理不尽。

 奪われた初めての体験、それはいつか運命の相手とするんだろうな…なーんて淡い乙女心を秘めながら思っていたけれども。

 まさか、まさかまさかまさか司なんかに…!あの大嫌いな司に私の初めてを奪われたなんて……!


「キ、キスするとか…!ありえないからぁ!!」


 キス。

 そう、私はキスされたんだよ。

 それも大大大ッ嫌いなアイツと…キスをした。


「茜、今のは私も悪いと思ってる…でも、今まで遠くから君を見ていたから、久しぶりに君と話してると…その、気持ちが抑えられなくて、ついね?」

「な、なにが抑えられなくてだ!大体分かってんの!?私はアンタが大っ嫌いで話すどころか見たくもないレベルで嫌いなの!」

「ああ、分かってる…でもさ」

「それが君を助けない理由になるかい?」

「はぁ!?何言ってんの!?」


 急に真顔になって変なことを言い出した司を前にして、私は理解できずに困惑するしかなかった。

 そんな私を前にして、司はキスしたことを忘れた様子で私の足先から頭まで往復するように視線を動かす。

 そして、急に険しい顔つきになるや否や、司は一気に距離を詰めてきた!


「この一週間…なにをしてたんだい?」

「はぁ?それアンタに言う理由が…」

「言わないとこのままキスするよ?」

「い、言うから唇近付けんなぁっ!!」


 一歩踏み出して顔が近付く。

 またキスされると思って悪態をすぐに解除した私は渋々この一週間どう過ごしていたのか…簡単に説明を始める。


「この一週間ネカフェとかカラオケを転々としてた……」

「かなりよくない生活をしてたみたいだね…それで?」

「そ、それでってなによ…?」

「どんな食生活を?それとその身だしなみを見るに察するけど……満足した生活は出来ていたのかい?」

「べ、別にアンタには関係な……」

「あるよ?だから聞いてるんだ」



 バサリと言葉を斬られて、喉が詰まる。

 気が付けば司はかなり距離を詰めていて、私と司の距離はお互いの胸が当たるか当たらないかの瀬戸際だった。

 そのあまりにも近い距離のせいで…私は私の怒りに薪を焚べられずに、ただただ混乱していた。


「あーもう!この一週間ずっとコンビニとかワックとか牛丼とか食ってた!!あとそんなとこばっか泊まってたんだから風呂にも入ってないし、満足に寝れてないっつーの!」

「なるほど…少なくとも女子高生が過ごす環境ではないね」


 う、うっさいわ!

 てか聞かなくても分かるんなら最初から聞くな!



「さて、茜がよくない環境にいたのは理解できたが…これから茜はどうするんだい?」

「は?どうするって…なんのこと言ってんの?」

「今の君を見る限り、お金も底をついてるんだろう?そんな君が今後どうするのかプランを聞きたくてね?」

「プランって…」


 突然現れた司に驚いて忘れていたけど、今の私は貯金が尽きた状態だ…。

 ほぼ諦め状態でやさぐれていたからか、正直に言うとうっすい財布をどうにか出来る逆転の発想めいたプランなんてものはない。

 けど…。


「べつに…貯金が尽きたからって言っても、最近はパパ活とかあるし?そこらのおじさんを相手に上手いことやれば金を儲けられるでしょ」


 かわい子ぶっていれば楽なんだし、のらりくらりして触らせないでいても余裕で稼げるでしょ。

 でもそれはあくまでも想像の話だ、実際にそこまで考えていた訳じゃない…ただ強がってそう言ってしまったばかりに、私は司の怒りを買ってしまう。


「パパ活?」

「は?なに急に?目が怖……ひっ」


 司が一気に近付いたかと思えば、そのまま壁へと追い込まれて背中をぶつける。

 司の右手が私の頬を掠めると、ドンっと爆発音めいた音が鳴り響いた。

 

 ざわざわと肌がひっくり返る。

 鳥肌とかそんな言い方では表現出来ない程、司の表情には怒りが出ていて…その黄金にも似た髪はいつもより逆立っていた。


「茜、そんなこと考えてたのかい?」

「は、はぁ?なに急に…アンタには関係ないでしょ?」

「ある、だから私は怒ってる」

「君に会いにきて正解だった、会わなければ今頃君が身体を売っていたんじゃないかと思うとゾッとするよ」


 ゲーセン自体が薄暗い照明で常に暗いせいか、司の顔には影が出来ていた。

 真っ黒になった司の顔に、鋭く尖った殺意にも似た眼光が私を睨み付けている…。

 散々舐めていたくせに、初めて見る司の表情に私はビビっていた。


「怖いかい茜?でも仕方ないことなんだよ…そんな事を言い出してしまったら、私は君を傷付けてでも止める」

「だ、だからアンタには…!」


 何度目かの「関係ない」。

 それを言おうとした瞬間、言葉が詰まった。

 気が付けば司の空いた手で顎を掴まれていて、突然のことに私は戸惑う。


「何度も言わせるな…関係あるよ」

「私がどれだけ君の事が好きか…君は知らない癖に、そうやって君は私を突き放してどこかに行ってしまう…」

「ホント…私は今まで何をしていたんだ、怖がって茜に近付かないようにしていたが、茜がそんな事を言い出すなら……」


 掴んでいた顎を離して、司は息を吐く。

 天井の照明が司を照らすと、光に当てられて金髪が派手に輝き始めた。

 それはスポットライトに当てられた女優のようで、怒りに満ちた表情から一転…柔らかな笑顔を浮かべた司は右手を差し伸べて訳の分からないことを言い始めた。


「茜…私の家に来ないか?」

 


『私は今一人暮らしなんだ、パパからマンションの一室を貰ってね…今はそこで暮らしてる』

『それなりに部屋は余っているし、何より今の君にとってはありがたい提案だと思う…だって私の家に住むだけで衣食住が全てが与えられる訳だからね』

『それに…茜は私にとって大切な人間だ、君のためなら私はなんだってするよ?毎日君のために料理を振る舞おう…君の欲しいものだってなんだって買い与えてあげるさ』

『私の家という時点で嫌がると思うが…しかし今の君は無一文、路頭に迷う寸前だ。そんな時に高級マンションに無償で住めるのなら……選択の余地はないだろう?』

『さあ、上記の提案を受けた上で君の回答を待つよ♪』


 終始ニコニコだった。

 私のパパ活宣言から司は何かいい案を思いついたらしく、その案というのは司の家に私が住むという提案だった。

 もちろん最初は断った、なんでアンタなんかの家に私が住まなきゃいけないんだって猛反対した。

 けど、さっきみたいなことを言われると断る理由はどこにもなかった…だって私ホントに無一文だし、マジで路頭に迷う寸前だったし。

 だからこれは、不可抗力っていうやつなのだ…。


「お、おじゃましまーす……」

「いらっしゃい茜♪」


 クソご機嫌だな…。

 司の家に足を踏み入れた私は早速後悔する。

 マンションの敷地内に足を踏み入れた時から司は上機嫌で、その理由は私と隣を歩けていることが幸福らしい。

 中々キモいやつだと内心ドン引きしながら、私は司が住んでいる部屋を見る。

 部屋は高級マンションさながらの…かなり豪華な一室だった。


「司、こんなとこ住んでたのかよ…」

「ああ、私のパパが安全のためにもこの部屋を強く推していてね…半ば無理矢理という形で住まわせて貰っているよ」


 呆れ顔でそんなことを言う司が羨ましくて、イラっとくる。

 でも仕方ない、司の家はかなりの金持ちだ。

 社長でイケメンの父親とイギリス人で美人な母親を持つ司は、まさに親ガチャ成功者って言ったところで…その家族仲も良好だ。


「…ホント、私とは正反対」

「ん?なにか言ったかい?」

「なにも言ってない…てか近付かないで」

「いや、部屋の紹介があるんだから来てもらわないと困るよ…」


 司に案内されたのはリビング。

 生活感はあるものの、何でも完璧にそつなくこなす司らしく部屋全体は綺麗な仕上がりだ。

 ゴミ一つもなければ物が置きっぱということはなく、コイツは家でもこんな感じなんだと辟易する。

 それから、司の部屋もとい寝室…空き部屋、キッチン…お風呂、トイレ、ベランダに空き部屋…空き部屋………空き部屋って多いな空き部屋!!


「せっかくの部屋が勿体無い!」

「仕方ないよ、元々複数人で住むところなんだから一人で住むとなると持て余してしまうよ」

「でもよかった、使い道のない部屋が君のために活用できるとは思いもしなかった…」

「…アンタ、ほんとに私のことが好きなんだ」


 今までそんな素振りを見せなかった癖に、今更になってそんなことを言われても疑うもの。

 ギロリと睨め付けながらそう言うと、司は照れくさそうに頬を染めると聞いてもいないのに訳を話し始めた。


「ずっと、ずっとずっと前から茜が好きだった」

「初めて会った時が私の恋の始まり、それからは茜の事しか見てなかった」

「じゃあなに、子供の頃から私のことをそういう目で見てたワケ?」

「うん、ずっと見てた」

「へぇ、司ってレズだったんだ?みんなが知ったらドン引きするかもね?」


 嫌味タラタラに私は煽る。

 けれど司は全くの無傷の様子で、首を縦に振って肯定する。


「そうだね。でも…心に決めているのは君だけさ」

「物心つく時から男子への興味は薄かったんだ、その代わり隣にいた茜が私にとって全てだった…だから好きになるのも当たり前だろう?」

「当たり前になるか!てか、私のこと好きだからって今日みたいにキスしたらぶっとばすから!」

「あれは本当にすまない。でも、またしたいのなら言ってくれ、いつでもしてあげるから♪」


 言わねーーよ!!

 天地がひっくり返っても、拷問されても私は絶対言わないわっ!!


「とにかく…私はとても不服なんだけど、当分アンタの家にいていいってことでいいわけ?」

「ああ、ずっといてくれても構わないよ♪」

「……なんかしないでよ?何度も言うけど私、アンタのこと大っ嫌いだから」

「…………………………しないさ」


 おいなんだその無言、今明らかになっがい無言があっただろ!てか両目が私を見てないぞ、ほんとに何もしないんだろうなぁっ!?


「いや、本当にしないよ…ただ」

「ただ?」

「正直に言うと…見返りは、欲しいよね」

「お、おまっ、おまえ……おまえぇ…!」


 否定しておいてすぐに掌返すなバカ!!

 欲望丸出しじゃん!私のこと気持ち悪い目で見てんじゃん!!つーか少し照れながらそんなことを言うな浅ましい!


「言っとくけど!そんなこと言われても私は見返りとかそんなの与えないから!」


 大体…大嫌いで私のことをそういう目で見ているヤツにそんなことを言い出したら、なにをされるか分かったものじゃない…。

 どうせ司のことだ、調子に乗ってキスとかなんだとかやってくるんでしょ。


「わかってるさ…茜のことだからね。でも、さ?」

「な、なによ?」

「一文無しの君に高級マンションを住まわせて、その上で食事も提供する…あとは君が住むためにこれからいろんなものを買い与えることになるのだが………ここまで用意した上で、なにもないというのはいささかどうだろうかと私は思うんだが…?」

 

 い、言ってることが事実だから何も言い返せない……。

 っていうか!そもそもそんなこと言い出したら最初からなんで言わないわけ!?


「不服そうだけど…大体、こういうものは礼儀として当たり前のことだろう?例えば今までお世話になった人には贈り物は当たり前…感謝の気持ちは心だけではなく物的証拠として渡す物ではないだろうか?」

「ぐっ…だったら私ここから出てくから!それなら文句ないでしょ!?」

「それはダメだよ茜…今はもう夜遅いし、なにも持っていない君を外には出せない」

「うっさい!そんな下心出してるお前なんかの近くにいたら、なにされるか分かんないの!!」


 それは心外だ…とショックを受ける司の隙を突いて、私は司の横を通り過ぎて玄関に急ぐ。

 こいつなんかの提案を受けるんじゃなかった。

 早くここから出て逃げないとっ!


 危機感が私を急かして、私はドアノブに手を掛けて押した。

 肩に力を入れて、体重を傾けるようにドアを押すけれど…次の瞬間。

 ガチャンっと硬い音だけが玄関に響いた。


「なっ…」


 最初はなにごとか理解できなかった。

 でも、すぐに分かった…司のやつ、私が逃げるのを未然に防ぐためにロックとチェーン掛けてる!

 

「だめだよ、茜…」

「ひえっ…!」

「君は私の提案を受け入れたんだから…素直に私の家にいなよ?別にいいじゃないか…茜が私になにかしてくれるだけでいいんだ、それだけで君は安全に毎日を過ごせる…」


 司の声が耳元に囁かれる…。

 背中に司の胸らしき柔らかい弾力が乗っかって、やけに重く感じる。

 それと同時に司の声がやけに恐ろしく聞こえて、体全体が裏返るみたいにゾワゾワする!!

 なにこれ…ホラー?私気付いたら呪われた家に来ちゃってたわけ!?


「ま、毎日が過ごせてもアンタに何かされそうだから嫌なんだけど!!」

「…心外だな、私は茜に"なにか"はしないよ?」

「私はね?さっきも言ったけど心の底から茜を愛しているんだ♡君のためなら私は何でもできる、何でもする…♡でも、物事には何かをするためには代償がいる」

「仕事をするためには給料を、車を動かすにはガソリンを、私が君を守る為には君の愛情を…」

「昔みたいに接してほしいだなんて、そんな無茶は言わないよ…でも、君がこんなにも近くにいるんだから…少しくらい我儘になってもいいよね?」

「ひっ、ひぃ~~……!」


 司の腕が私を抱きしめて離さない。

 さっきから力を入れているのに、全くとて解ける気配がしない…!

 大体、司ってこんなやつだった?私が知る司はこんなグイグイくるようなやつじゃなかった!私のことなんか眼中にないみたいな態度を取る、嫌なやつだった!

 それに…なにが昔みたいだ、司なんかのことなんか何一つだって…!


 なに、ひとつだって…。


「…………………」


 そういえば、司は今みたいに昔から距離が近かった。

 昔の私も司のことが好きだった…お互いを姉妹のようだと思ってたし、一緒にいようとかそんな約束をしてた…。

 くそ、なにひとつどころか…全部覚えてる。

 司は子供の頃と変わらないままだ、少し引くくらいべったりくっついて来て私のことしか見てない…。


 私は、私は司を拒んでるのに…!

 なんで今更そんな風に近付いてくるわけ…!


「ああ~もうっ!もういい!わかった!わかったから!!」

「もう降参…見返りでもなんでもするから、住まわせてくれる代わりになんでも一つ聞いたげる…」

「え?一つだけなのかい?」

「なに…文句あるわけ?」

「別に、ないよ」


 もう、諦めた。

 両手を挙げて降参のポーズ…。

 入れていた力も脱力して、無気力気味な声で私は一つだけ司のお願いを聞くことにした…。

 司の言う通り、一つだけじゃ足らないと思う。

 でも、私なりに最大限譲歩したんだ…大嫌いなやつを相手にサービスした方でしょ。


「それで?なにがお望み?早く言って」

「そ、そんなに急かないでくれ…うーん、そうだな」


 司はめちゃくちゃ悩んでるみたいだった。

 あれがいいかこれがいいか、子供みたいに頭を捻って考えている。

 私はそんな司がバカみたいに見えて、内心ほくそ笑んでいた。


 でも、バカなのは私の方だった。

 司は私なんかより天才だ。

 それに、司からすれば大好きな人間からなんでも一つ願いを聞いてくれるっていう大層な話が出て来た訳で…そんなことを言われたら、たとえ子供であろうと大人であろうと言う事は一つだ。


 それは……。


「これから毎日、私の言う事を一つ聞いてくれ♡」

「………は?」


 要約すると…願いを増やすこと。

 一つだけって言われたら、三つ四つと増やすのが当たり前。

 私はそんなことを考えもなく『なんでも』と言ってしまったばかりに………。


「茜♡これから一日一回…私の言う事を聞いてくれ♡」

「はぁっ!?は、はああああああああ!!」


 もう一度言う…バカは私でした。

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