6輪 皇太子の侍衛

 水晶宮での密会を終えたロザリーは、行きと同じようにケイレブと馬車へ乗り込んだ。ジェイデンの見送りを受けて、銀の煉瓦道を馬車が走り出す。


 生垣の向こうに皇太子の姿が隠れたところで、ケイレブがぽつりと問いかけた。


「いかがでしたか」


 かすかな緊張の滲む若者の声音に、ロザリーは淡くほほ笑んだ。


「以前とお変わりないようで、安心いたしました」

「では――」


 蜂蜜色の瞳に、期待が宿る。だがそれには目を伏せて、ロザリーは緩く首を横に振った。

 にわかに上がっていたケイレブの口角は直後には下がり、耳を垂れる仔犬のように俯いてしまった。


「そうですか……」


 しょんぼり、という言葉があまりにもぴったりとくるケイレブの落ち込み方に、ロザリーは胸のざわつきを覚え――必死に笑いを堪えた。


 ケイレブがなぜこれほど、ジェイデンとロザリーの関係に一喜一憂するのかは分からない。忠臣として皇太子の将来を心配している、と見ることはできるが、彼の個人的な感情も窺えるようでもある。


 心当たりといえばやはり皇后の首飾りだが、詳細が分からないだけに先への影響は未知数だ。いずれ探る必要が出てくるかもしれない。そう心に留めて、ロザリーはこの疑問をいったん脇へと置いた。


 扇で口元を隠して笑いの衝動をやり過ごしたロザリーは、やや声をひそめて呼びかけた。


「ケイレブ様」


 俯いていたケイレブが顔を上げる。彼が返事をする前に、ロザリーはすかさず続けた。


「実は、お願いしたいことがあるのですけれど――」





 ノヴァーリスの皇都ラガーフェルドは、街の南を流れるランブラー河のほとりに建てられた皇宮を中心として放射状に道が伸び、ちょうど扇を広げた形をしていた。ランブラー河沿いには高い柵と庭園を持つ貴族の邸宅が並び、河から離れるほど木と漆喰で作られた庶民の家や商店、集合住宅が増えていく。


 シュラブ地方の雄たるヘルツアス侯爵の街屋敷もまた、河沿いでひときわ広い面積を誇る邸宅の一つだった。


 皇室所有を示す青薔薇の紋章が入った馬車が芝の庭園へと乗り入れ、大理石の柱が並ぶポーチに横づけされると、赤毛の侍女が迎えに出てきた。


 ケイレブの手を借りて馬車から降りるロザリーのもとへ、侍女はすかさず駆け寄って礼をする。


「お帰りなさいませ、ロザリー様」


 侍女の挨拶は優雅と言うにはややハキハキし過ぎていたが、それがロザリーにはかえって快かった。


「ただいま、ミンディ。わたくしが不在の間、なにもなかった?」

「問題ございません。言いつけられておりましたことも、すべて終わっております」

「そう、よかった。ありがとう」


 虹彩の鮮やかな瞳にほほ笑みかけてやれば、侍女は誇らしげに淡く頬を染めた。その眼差しには、美しき侯爵令嬢への素直な尊崇が窺える。


 長身ゆえに大人っぽく見られがちな侍女だが、実際には少女と呼べる年齢をようやく過ぎたばかりだ。表情にまだまだ初々ういういしさがある。


 必要なやりとりを侍女と交わしたところで、ケイレブが馬車の扉の前からロザリーに軽く礼をした。


「それでは、わたしはこれで」

「お待ちになって」


 すぐに馬車へ乗り込もうとする皇太子の侍衛を、ロザリーは呼び止めた。振り返った彼が踏み段にかけた足を下ろす間に、ロザリーは侍女に耳打ちをする。頷いた侍女は、すぐさま屋敷内へと小走りに入っていった。


 ケイレブは不思議そうにこちらを見ていたが、ロザリーがあえてなにも言わずにいると、侍女は二人をさほど待たせることなく戻ってきた。その手には、蓋つきのバスケットが下げられている。


 ロザリーは中身を確認してから扇と交換する形でバスケットを受けとり、ケイレブの方へと向き直った。


「よろしければ、こちらをお持ちになって」

「これは?」

「チョコレートとビスケットのケーキです」


 言いながら、ロザリーはケイレブに中身が見えるようバスケットの蓋を持ち上げた。


 蓋の隙間から差し込んだ光で、皿ごと入れられた円形のケーキの表面が波打つ光沢を放った。チョコレートと溶かしバターを合わせたものに、砕いたビスケットをたっぷり混ぜて押し固めた、伝統的なケーキだった。今日のものには、干し葡萄も加えてある。


「本当は今日のお茶の時間にと作ったのですけれど、殿下の件でそのまま残ってしまいましたの。お嫌いでなければ、どうぞお持ちになって」


 長躯を丸めて興味深そうにバスケットの中を覗き込んでいたケイレブが、説明の終わりと同時にロザリーを見た。


「ロザリー殿が、作られたのですか」


 蜂蜜色の瞳を丸くするケイレブに、ロザリーは少々の照れを込めて苦笑した。


「ええ。お口に合うとよろしいのですけれど」


 ケイレブの顔がほころんだ。凜々しい容貌が一変して柔らかな印象になる笑顔だった。思いがけず心臓が跳ね、ロザリーは彼の屈託ない表情に目を奪われた。


 やはり自分は、彼のこの笑顔が好きなのだと。ロザリーは再認識した。


 ケイレブも大人の男性であるので、当然とり繕うべきときは弁えている。ロザリーとて、皇太子の学友であり遊学の同行者でもあった彼がそのまま近侍となるまで、これほど情感豊かな人物だとは思っていなかったのだから。


 皇太子の侍衛でいられる今ならば、そのままでも問題なくやっていけるだろう。しかしこの先、爵位を継いで本当の貴族として立ったとき、彼の心根の素直さは確実に弱点となる。かといって、現在の政権を担っている親世代のように、彼の表情に厳しさが癖づき、愚直とも言える素直さが失われるのは惜しかった。


 だから、ロザリーは彼を手に入れようと思った。自分ならば彼の弱点を補える、と。


 愚直と言えば聞こえは悪いが、ケイレブはそれだけ忠義に厚く、努力を惜しまない。参謀には向かないものの、それ以外の能力で見ればたいへん秀でた男性だと言える。そもそも無能ならば、あの皇太子が近侍などさせないと断言できた。


 そして権謀術数けんぼうじゅっすうを得意とするロザリーならば、そんな彼をゆめゆめ埋もれさせはしない――見込みがあるからこそ、手のかけ甲斐がある。


 男性の威を借りて見栄を張り合うしか能のない女性が彼の伴侶になるのだけは、絶対にあってはならない。それがもっとも彼の魅力と能力を殺すだろうことが、容易く想像できるからだ。


 だが、そのような思惑以上に――


 ケイレブは笑顔を崩さないまま、ロザリーの手からバスケットを受けとった。


「ありがとうございます。必ず殿下にお届けします。きっと喜ばれます」


 嬉々として告げたケイレブに、ロザリーはつい噴き出してしまった。


 他人を前にした自分がいかに気を張っているかを、ロザリーはケイレブと関わるようになって初めて自覚した。彼と話していると不思議と力が抜け、今のようになんの思惑もなく自然と笑っていることが多いのだ。


 それに気づいたとき、ロザリーはくすぐったいような奇妙な心地がしたが、嫌だとは感じなかった。


 腹黒な皇太子の一番近くにいながら、感化されず真っ直ぐなままの彼が、ロザリーには眩しく、快かった。


 ロザリーは目を笑みの形に細めたまま、背の高いケイレブを見上げた。


「ケイレブ様。これはケイレブ様に差し上げましたのよ」


 やんわりとロザリーが伝えると、ケイレブは意外そうに目をみはった。


「しかし、殿下を差し置いて、わたしがロザリー殿からものをいただくわけには」


 皇太子の侍衛の律儀さにもう一度笑ってから、ロザリーはバスケットを持っている彼の手に自身の手を添えた。


「わたくしの願いを引き受けてくださったお礼です。ああ、でも、残りものではかえって失礼でしたかしら。やはり改めて、もっときちんとしたものをご用意して――」

「いいえ、とんでもない!」


 焦ったように言いながら、ケイレブはロザリーに触れられた手を引いた。


「わたしは、できるだけロザリー殿の意に添うようにと、殿下から申しつかっているだけですから。あまり気をつかわれてはかえって心苦しいです。こちらで十分に嬉しいです。ありがとうございます」


 ケイレブは戸惑い気味に眉尻を下げながらも、やや頬を染めた表情は確かに嬉しげだった。


 思惑通りに彼が贈りものを受けとってくれたのを見てとり、ロザリーは満ち足りた微笑でこの日の仕上げにかかった。


「それでは、先ほどのお話、よろしくお願いいたしますわね。くれぐれも、殿下にはご内密に」

「お任せください。それでは、これで」


 念押しの囁きに力強く請け合い、ケイレブはバスケットを抱えて馬車へと乗り込んだ。

 走り出した馬車が門を出ていくのを見送り、ロザリーは侍女に声をかけて屋敷へと入った。


 初日としては上々だ。渡せるケーキがあったのはケイレブにも言った通り偶然だったが、なにもないよりはいい。それよりも、共有できる秘密を作れたことが一番の成果と言える。


 実際にはまったく隠す必要のないことでも、あえて秘密であると強調してなんらかの意識を持たせることが肝要なのだ。彼がしくじってバレたとしても構わない。いずれにせよ、察しのいい皇太子ならばすぐに気づくだろう。


 この先は、皇太子がどう動くかによってロザリーのとるべき行動も変わってくる――それは、主語を入れ替えたとしても現状を表せる。


 ロザリーは上階の自室に向かいながら、後ろを歩く侍女に気づかれぬよう、ほくそ笑んだ。当分の間は楽しみにことを欠かなそうだ、と心弾ませて。

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