4輪 水晶宮への誘い

 石畳を踏む馬車の揺れに身を任せながら、ロザリーは広げた扇越しに向かいの席を窺い見た。そこには、くっきりとした目鼻に神妙な表情を浮かべた皇太子の侍衛が、折り目正しく座っていた。


 皇太子ジェイデンの使者としてケイレブ・シューゲイツが皇都のヘルツアス侯爵邸を訪ねてきたのは、正午を少し過ぎた時間だった。


 ジェイデンがロザリーに直接会って話したい要件があるのだと、皇太子にもっとも近い侍従は告げた。


 あの腹黒皇太子は果たしてなにを始めるつもりか、と思い巡らせつつも、ケイレブに正面から目を見て言われては、ロザリーが断れるはずもない。赤毛の侍女が共にきたがったが、今回は同行させるべきではないと判断して、別の用事を言いつけて屋敷に残した。


 ケイレブは皇室警護を司る近衛府このえふ所属の騎士のはずだが、紺地に控えめな銀のふちどりのフロックコートが着映えする長躯は、どちらかといえば事務官のような風采だった。


 けれど、いくら馬車が揺れても上体がまったくぶれないさまを見れば、やはり人並み以上に鍛えているのだと分かる。皇太子の侍衛ともなれば、騎士といえどコートの下には舶来品の自動拳銃も提げられていることだろう。


 額や耳元では少し癖のある焦茶色の髪が揺れ、したたるような艶を放ちながら垂れかかっていた。ロザリーの黄金こがね色の髪が澄ましバターだとしたら、彼の髪色はチョコレートに似ている。深い彫りの奥にある瞳は、向こう側まで見通せそうほど透明な蜂蜜色だ。


 気立てを表すように彫りも眉も真っ直ぐなケイレブの面差しは、甘さよりも凜々しさの印象が強い。甘みの塊のようなジェイデンと並ぶと、その印象はますます際立つ。でありながら彼を見て想起されるのが甘いものばかりなのが、ロザリーにはたいへん興味深かった。


 観察する視線に気づいたように、俯き加減だったケイレブが目を上げた。ロザリーは顔を隠す扇の位置を少し高くして、憂げに見えるように斜め下へ目線を逸らした。


「ロザリー殿は、やはり今でも殿下が怖いですか」


 不意に思いついたように問うたケイレブの声は、見た目の凜々しさに違わぬ落ち着きある低さだった。しかし響きにかすかな強張りがある。緊張が隠しきれていない。彼はあるじのもとに着く前に、ロザリーが元婚約者に抱いているものを探ろうとしているのだ。


 やはり腹黒皇太子の侍衛だ。よく手懐けられている。だが、性根が素直過ぎて腹の探り合いに向いていない。それが、ロザリーが彼を気に入っているところでもあるが。


 ロザリーは答えを躊躇う振りをして、どう返すのが効果的だろうかと少し考えた。


 怖い、とそのまま返しても、ケイレブはロザリーに同情を向けてくれるに違いない。だがそれではあまりに芸がない。新春の宴から、もうすぐ二ヶ月が過ぎようとしている。いつまでも悲劇ぶって傷心に浸り続けるのも、心証がいいとは言えないだろう。


「それは……」


 言いよどみながら、ロザリーは皇太子の侍衛を横目に窺った。その瞬間、はっと息をのみそうになり、慌てて呼吸を止めて堪える。


 ケイレブが真っ直ぐな眉をハの字に歪め、いかにも不安げにロザリーを見ていたのだ。


 ……端正な凜々しい顔で、叱られる仔犬のような表情をしないで欲しい。いじめたくなってしまう。


 ジェイデンは毎日こういう彼を見ているのだろうか。だとしたら、あまりにも羨ましい。皇太子は人間性に欠陥があるが、傍に置く者を見極める目は評価に値する部分の一つだ。


 理性で衝動を抑えられても、胸の高鳴りばかりは止められない。それを悟られぬよう扇で口元を押さえたロザリーは、わずかに眉尻を下げて、ケイレブに向かって淡くほほ笑んだ。


「やはり、おかしいですわよね。子供の頃から、ジェイデン殿下のことはよく存じ上げているはずですのに……たった一度のことで、こんな風になってしまうだなんて」

「いえ、そんなことは」


 目線を下げたロザリーに、ケイレブがやや早口になる。軽く息をつく間を置いてから、彼は言葉を選ぶように続けた。


「ロザリー殿がそう感じられても、仕方ないと思います。殿下が公の場であのように感情を露わにされたのは、初めてのことでしたし。正直、わたしも驚きました。ただ――」


 そこまで言って、急に先を躊躇うようにケイレブは口を閉じた。視線を逸らせて迷うようすを見せる彼に、ロザリーは小さく首を傾げた。


「ただ?」


 ロザリーが繰り返して先をうながすと、ケイレブは目線を戻して苦笑いを浮かべた。


「申しわけありません。この先は、やめておきます。勝手に話すと、殿下に叱られますので。ですが、あのとき殿下がとり乱されたのは仕方がなかったのだとだけ、言わせてください。そうでなければ、殿下がロザリー殿を傷つけるなど、絶対にありえません」


 熱心に言い募るケイレブに、ロザリーは訝しんで目を細めた。


 実はロザリーもこれまで、ジェイデンが本気で声を荒らげる姿など見たことがなかった。だから演技と分かっていても、新春の宴での彼はかなり衝撃的だった。やはり違和感のある演出ではないかと事前に確認はしていたが、普段怒らない者が怒るから事を大きくできるのだと、ジェイデンが主張したのだ。


 確かにすべて彼の言った通りになった。それがかえって、ロザリーには据わりが悪かった。


 皇王や近侍も含め、皇太子の身内があまりにすんなりと、新春の宴での彼を受け入れている。つまり演技でなかったとしても、彼が狼狽しえるなにかが件の首飾りにあるのかもしれない。


 首飾りについてロザリーがおこなった調査は、盗品であることを確定させるところまでだ。その後、皇太子から公表された以上のことは把握していない。


 どんなに性格が歪んでいようと、ジェイデンも人の子だ。生みの母親の遺品を見て、心乱れることもあるだろう。だが、それだけと思えないものがあると、ロザリーの直感が訴える。


 ケイレブは父・ユーゴニス伯爵が亡き皇后の兄だ。ジェイデンとは一つ違いの従兄にあたる。ロザリーが知らない事情を知っていても不思議ではない。他言をはばかるということは、やはり故人に関わる秘密があるのか。


 気になることは多いがロザリーはひとまず「そうですか」とだけ返して、現時点でケイレブを追及することはしなかった。踏み込むべき機会は、今ではない。


 そうして二人が会話をしている間に、馬車がプラチナの城門をくぐった。途端に、車窓が目の覚めるような青に染まる。国政の中心たる皇宮の前庭に入ったのだ。


 宮殿は銀色の煉瓦が敷かれた前庭を抱え込むように、南北の翼棟を伸ばしていた。外壁はラピスラズリの青で染め上げられ、まさしく蒼の皇宮ブルーシャトーの異名に相応しい。


 空色との対比でさらに鮮麗さを増す城館に出迎えられた馬車は、二つの門を有するアプローチを通り、北翼のポーチへと横づけされるのが通常だ。だがロザリーとケイレブを乗せた馬車は、門を一つくぐったところで横道へと逸れた。


 ラピスラズリの外壁と、プラチナの窓枠の並びを横目に見ながら、馬車は壮大な城館を回り込み、奥の庭園を目指す。噴水に佇む女神像が見守るその庭は、城館の大広間からも望める景色だ。


 馬車は、完全な線対称の花文様に配置された花壇と生垣の間を抜け、銀色の煉瓦道をさらに奥へとひた走った。どこへ連れていく気だろうかとロザリーが疑念を抱いていると、ボートの繋がれた池畔を通り過ぎ、道端の並木が途切れたところで、馬車はゆっくりと止まった。


 ケイレブが素早く馬車を降りて、ロザリーへと手を差し伸べた。若者のいざないで銀の煉瓦に降り立ったロザリーは、目の前のものに軽く瞠目どうもくした。


 庭園の奥に、もう一つの宮殿があった。手前の広場へ両翼を伸ばすその建造物は、間違いなく蒼の皇宮ブルーシャトーと同じ形をしている。


 色はラピスラズリの青ではなく、澄み渡る空の青だ。壁から天井まですべてが、透明な硝子張りになっているのだ。底部には一面に花が咲き乱れ、さらに多彩な色を見せている。


 見渡すほどのその規模は、実際の宮殿には遙かに及ばないものの、高位貴族の住む領主館には匹敵するだろう。壁と同様に透明な入口扉の横には、皇太子のもう一人の侍衛が立っていた。


「水晶宮、ですかしら」


 問いの形をとりながら、ロザリーは確信を持って呟いた。


 水晶宮は、皇室所有の温室だ。そこでは季節を問わず、国章でもある薔薇が事業として育てられている。ロザリーは身につけているべき教養として存在を知っていたが、直に目にするのは初めてだった。


 ロザリーの問いかけに、ケイレブは口元に笑みを見せて浅く頷いた。


「はい。殿下はこの中でお待ちです。参りましょう」


 ケイレブに導かれるまま、ロザリーは銀の骨組みを見せる水晶宮へと足を踏み入れた。


 始めに香りが押し寄せた。果実のような甘さと清涼感を持つ香気が、質量を持って全身に纏いついてくるようだ。左右を見やれば、区画ごとに色の違う大輪、あるいは小花を咲かせる多彩な薔薇が、光満ちる温室を埋め尽くすように咲き誇っている。


 その濃密な香りと色に陶然とした心地になりながら、ロザリーはケイレブに続いて、温室内を区分けする銀煉瓦の小径こみちを歩いた。


 温室の中ほどまで進んだところで、前を歩いていたケイレブが脇へと退いた。そうして開けた視界の先を、彼は指し示す。


 小径の先に、翡翠の四阿あずまやがあった。磨かれた白緑びゃくろくのドーム屋根には緻密な透かし彫りが施され、温室の天井から降り注ぐ陽光によって平らかな地面にレース模様を描き出している。屋根を支える柱にはつる薔薇が厚く絡みついていたが、見頃には少し早いらしく、茂る葉の間に青い蕾が目立っている。


 影と緑の彩り鮮やかな四阿あずまやの、ちょうど中央。曲線の優美なテーブルセットが一組据えられ、そこに皇太子ジェイデンの姿があった。

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