わたくしが溺愛されるのは当然です ― 薔薇たちの純愛革命 ―

入鹿 なつ

序章 わたくしが婚約破棄されるのは当然です

1輪 新春の宴

「なぜ君がそれを持っている」


 突然あがった声に、談笑していた貴人たちが振り返った。低く抑えられた男声であったが、若く澄んだ響きは人々の耳に届きやすかった。


 庭園に面した大広間の窓は、夜の色をしている。いくつも吊された水晶のシャンデリアが、鏡面となった窓に映り込み、室内は真昼のように明るい。その光の下で咲き競うごとく盛装した貴人たちの、視線の中心にて。


 ヘルツアス侯爵令嬢ロザリー・フレディーコはぽかんとして、目の前に立つ若者を見上げていた。


 真正面からロザリーを見据える若者の面差しは、この場にいる誰よりも完美だ。


 紫紺のリボンで束ねられた長いホワイトブロンドは温むミルクの色合いであるし、鳩羽色はとばいろの瞳は角度によって淡く紫を帯びた輝きを見せる。リボンと揃いのフロックコートに包まれた痩躯は、運動を欠かさないと分かる隙のない佇まいだ。


 ジェイデン・ネムロノーサ――ノヴァーリス皇国の皇太子であり、ロザリーの婚約者である。


 真っ直ぐな鼻梁も、銀の睫毛も。彼を形作るなにもかもが光を纏って見える皇太子の甘い美貌は皇室の白薔薇とも称され、この国の乙女ならば誰もが一度は憧れを抱く。


 けれど今は眉間に厳しさを刻み、吊り上がった眉の下でロザリーを睨みつける双眸は氷点下の冷たさをしていた。彼の肩越しに覗く天井画の英雄たちまで、威圧的に彼女を見下ろしているようだ。


 新たな季節の巡りを祝う新春の宴の、最中さなかのできごとだった。人々の熱気に暖められた会場でロザリーが胸元のショールを外したところ、途端に目の色を変えた皇太子に詰め寄られ、今に至る。


 息をのんだロザリーは、右手で葡萄酒色のガウンドレスのスカートを、左手でレースの扇を握り締めた。そのまま彼女が声を発せられずにいると、ジェイデンはやや苛立ちを見せて言い直した。


「なぜ君が、その首飾りをしている」


 具体的な言葉を投げかけられたことで、ロザリーはようやく息を吸い込んだ。動揺を抑え込もうと、黄金こがねの後れ毛を撫でつけ、紅い唇を軽く湿らせる。ガウンドレスと同色の瞳で婚約者を見詰め返しながら、彼女は自身の白い喉元へと手を置いた。


 そこには、手の平のくぼみにぴたりと填まるほど大きな紺碧のダイヤが一つ、プラチナの鎖で飾られていた。


「これは……つい先日、皇都の宝飾店で購入したものです。今宵のような華やかな場に、相応しいと思いまして」


 答える声は震えた。ロザリーを見下ろすジェイデンの眉間の皺が、険しさを増す。


「それが、どういうものか知っているか」


 ロザリーは一瞬だけ言葉を詰まらせてから、恐る恐る問い返した。


「どう、というのは一体……」

「皇室に入ろうという人間が、皇后の首飾りを知らないとでも言うつもりか!」


 ついにジェイデンが声を荒らげた。滅多にないことにロザリーはすくみ上がり、両手で扇を握り直した。


「も、申しわけございません。ですが、本当に知らないのです。これは本当に――」

「わたしが生母の首飾りを見間違うとでも言いたいのか」

「いいえ、決してそのような」

「ならば確かめようか」


 素早く言ったジェイデンが手を伸ばし、ブルーダイヤを乱暴につかんだ。ロザリーがはっとしたときには音をたてて鎖が切れ、首飾りが若者の手中に落ちた。


 皇太子による突然の狼藉に、周囲が騒然となる。


 揃って仰天する人々を押し分けて、年嵩としかさの紳士が進み出てきた。金褐色の髪に白い筋の目立つその紳士は、ロザリーを背に庇うように、婚約者たちの間へ身を割り込ませた。ロザリーの父、ヘルツアス侯爵だった。


 年齢と共に厳しさを刻んだ侯爵の眼光には、若き皇太子では宿しえぬ鋭さと迫力があった。憤りを内心に押さえつけていると分かる低音で、侯爵は年長者として皇太子をたしなめる。


「殿下。我が娘に対し、あまりにも無礼が過ぎます。いくら婚約者とはいえ、このようなおこないが許されると――」

「なにを騒いでいる」


 朗とした別の声が、侯爵の言葉を遮った。ロザリーたちに注がれていた視線が、声の方角――南の壁際に据えられた国主の座へと、一斉に振り向けられる。輝く宝冠を頂いた皇王は、大広間に咲く人々を一段高い位置から静かな眼差しで見下ろしていた。


 首飾りを握ったジェイデンが、真っ先に玉座へ駆け寄った。


「陛下に申し上げます。我が婚約者、ヘルツアス侯爵令嬢ロザリー・フレディーコが、亡き皇后の首飾りを所持しておりました。おあらためくださいませ」


 ジェイデンが差し出した首飾りを、皇王は筋張った手で受けとった。堂々たる国主は大粒のブルーダイヤを目の前にかざし、ふむと低く唸る。


「確かに、皇后が亡くなった折に失われた首飾りのようだ」


 大広間の貴人たちが色めき立った。ある者は蒼白になる侯爵を見て囁き合い、ある者は呆然と立ち尽くすロザリーへの罵りを呟いた。


 長髪を翻したジェイデン皇太子は、手中に戻った首飾りを人々の前で高く掲げた。


「皆、お聞きになりましたね。これは、十六年前に何者かに持ち去られ、長らく捜索がされていた皇后の遺品です――まさか、ヘルツアス侯爵家が持っていたとは」


 吊し上げるように、ジェイデンは糾弾する。ロザリーは慌てふためいて、玉座の前へ身をなげうつように両膝をついた。


「いいえ、殿下! 我がフレディーコ家は、決して殿下がお考えのようなことは――」

「ロザリー様!」


 両手まで床につこうとしたロザリーのもとへ、侍女が血相を変えて駆け寄った。鮮やかな赤毛と長身が目を引くその侍女は、主人の腕をつかんで立たせようとした。けれどロザリーは、令嬢らしからぬ荒い仕草で彼女の手を振り払った。


「ミンディ、離れなさい。これはわたくしの問題です」

「ですが……」


 悲痛に顔を歪める侍女の肩を押しやって、ロザリーは玉座の方へ深く頭を下げた。


「その首飾りはわたくしが私的に手に入れたもので、父も知らぬことです。陛下は英明であらせられます。どうか、公正なるご判断を」


 顔を伏せ、ロザリーはじっと堪えるように皇王の言葉を待った。だが間を置かず降ってきたのは、変わらぬ勢いで責め立てるジェイデンの声だった。


「知らないと言うなら、それでも構わない。しかしこれは、フレディーコ家が盗品を扱うような者と交流があるという証拠でもある」

「それは……」


 狼狽えてロザリーは顔を上げた。鳩羽色の瞳と正面から視線がぶつかり、言葉に窮する。怯える令嬢の内心を見透かそうとするように、ジェイデンの双眸が鋭利に細まった。


「君との婚約関係は、考える必要がありそうだ」


 ひときわ抑えた低音で、ジェイデンは言った。その声色がことさら侮蔑の響きを持っていて、ロザリーの顔からみるみる血の気が引いた。


 ジェイデンは玉座へと顔を振り向け、父皇ふおうに囁きかけた。


「父上。この件は、わたしに任せていただいてよろしいですね」


 皇王はしばし考えるようすで、角張った顎を数度撫でた。我が子とその婚約者との間でちらとだけ視線を往復させ、唸るように頷く。


「いいだろう。皇太子にすべて任せよう。ロザリー嬢に、あまり無体なことはしてやるでないぞ」


 父皇の言葉にジェイデンは一礼し、御意を示す。そうして彼は、ロザリーに改めて向き直った。


「ケイレブ」


 ジェイデンが呼ばわると、長躯の若者が頭を低くして進み出てきた。宴の場にしてはやや控えめな装いの彼は、皇太子の身辺を守る侍衛じえいの一人だ。


「ロザリーを別室へ。わたしが直接、聴きとりをする」


 ジェイデンの指示に侍衛は低く「はい」と返し、跪くロザリーのかたわらに膝をついた。


「ロザリー殿、お手をどうぞ」


 思いがけず丁重に声をかけられ、ロザリーは相手の顔を見上げた。


「……ケイレブ様」


 ロザリーが名前を呟くと、彼は透き通った蜂蜜色の瞳に同情を滲ませた。皇太子の侍衛は打ちひしがれる令嬢の手をとり、肩を支えるようにしてゆっくりと立ち上がらせる。


「ロザリー様、わたくしも一緒に」


 先ほどロザリーに押しやられた赤毛の侍女が、再び寄り添う位置まできた。皇太子の侍衛とは反対側の手を握ろうとする彼女を、ロザリーはまた、今度はできるだけ優しく振りほどいた。


「一人で大丈夫よ、ミンディ」

「ですがロザリー様、そんなに青いお顔では……」

「わたくしよりも、お父様の傍にいて差し上げて。お願いね」


 またしても気づかいを拒絶された赤毛の侍女は、意気消沈してその場でうなだれた。悄然とする侍女の姿に小さく胸を傷めつつ、ロザリーは皇太子の侍衛に導かれるまま大広間をあとにした。


 青い床の回廊に出たところで、皇太子の侍衛が不意に口を開いた。


「殿下は、亡き母君に関わることで動揺されているだけです」


 囁くように言われ、ロザリーはびっくりしてかたわらの若者を見上げた。彼は一瞬だけ令嬢と目を合わせ、すぐに進行方向へと視線を戻した。けれど輪郭のはっきりとしたその唇は、静かに言葉の続きを紡いだ。


「大丈夫です。殿下が、あなたを悪いようにするはずがありません」


 軽く息を吸い込んだロザリーは、正面に顔を戻しながらそれを吐き出した。その吐息に、淡く感謝を乗せる。


「――ありがとうございます」


 皇太子の侍衛に手を引かれてロザリーが連れていかれたのは、くれないの間だった。


 呼び名の通り壁から天井まで赤大理石で化粧されたその部屋は、主に皇室主催の会食や、閣議の場として使われる。十数人がけの長卓が三列置かれた室内は、侍衛と二人きりではがらんとして感じられ、ロザリーをますます侘しい心地にさせた。


 重苦しい静寂の中、ロザリーは最奥の隅の席に座った。膝の上で扇を握り締め、卓上の花瓶に飾られた深紅の薔薇の束をじっと見詰める。


 ほどなく、ジェイデン皇太子が姿を見せた。


 最小限の動作で侍衛を下がらせたジェイデンは、部外者がいないのを注意深く確認してから扉を閉めた。すぐさまロザリーの方へと体を向け、伸びやかな足運びで歩み寄ってくる。その途中で、通り過ぎざまに花瓶の薔薇を一本抜きとる。


 婚約者の前で歩みを止めると同時に、皇太子は流れる動作で薔薇を差し出した。

 俯き加減だったロザリーが怪訝に目を上げると、ジェイデンは色の薄い唇に微笑を刷いていた。


「主演女優には、花を贈るのが礼儀だろう?」


 紳士的に言うジェイデンのあでやかな笑みに、ロザリーはしばし見入った。この微笑で、一体どれだけの人間を骨抜きにしてきたのか。


 数瞬のあと、ロザリーの紅い唇もまた、上弦の弧を描いた。ジェイデンの手から薔薇を受けとり、深紅の花弁を口元に寄せれば、甘美な香気が鼻腔を満たす。


「恐れ入ります──殿下も、たいへん真に迫った名演でしたわ」

たぐいまれなる名女優からの賛辞に、恐悦至極に存じます」


 皇太子は持ちうる最上級の優雅さで、麗しさに棘を隠し持つ令嬢へお辞儀した。

 いたずらっぽく顔を上げたジェイデンの鳩羽色の眼差しと、ロザリーの葡萄酒色の眼差しが再び交差する。


 そうして二人は、共謀者の笑みを交わした。

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