迷子
疲労で重い身体を引きずって、燐はダンジョンを進む。
僅か数歩進んだ後、燐はぴたりと足を止め、周囲を見渡す。
燐とトロールの戦いで荒廃した壁面や地面。
微かな気流が岩肌に当たって立てる風音。
ルームから伸びる通路は、深く暗い。
「…………アリス」
「なに?」
「ここどこか分かるか?」
「…………」
燐はトロールから逃げるために、でたらめにダンジョンを進んだ。
アリスは橋で肉体を喪失し、次に目覚めたのは燐の紋章内だ。
ひゅるりと冷たい風が流れる。
寒さではない理由で、燐は背筋を震わせた。
急に大きく、そして暗くなったように見えるルームを険しい目で睨みつける。
「…………どれぐらい逃げたか分かる?」
アリスもまた、緊張の滲んだ声で尋ねる。
燐は僅かに悩み込み、自信なさげに答える。
「………足を怪我してたから、そんなに遠くには行ってない、はずだ」
あの時の燐は錯乱していた。
その感覚にも自信がなかった。
「―――ッ。燐、モンスターが来てる」
「ヘルドッグか?」
「分からないわ。でも――――」
もしそうなら、燐は死ぬ。
片足を引きずっている状態の燐が、戦えるモンスターではない。
「ルームに退くぞ。あそこなら、隠れられる」
燐がトロールから逃げ出し、引き籠った小ルーム。
燐はそこへと不規則な足取りで、進んでいった。
「いッ………!」
「燐………!?」
倒れ込みそうになる燐をアリスが心配そうに表情を歪める。
燐は痛みがひどくなってきた足の傷を苦々しく思う。
それだけではない。トロールに潰された胴体も、鈍痛を訴え始めている。
燐は小ルームに入って、座り込んだ。
荒い息を吐くその横顔は蒼白で、揺れる瞳は今にも閉じそうだった。
(………これは、まずいわ)
HPはアリスが持っていた回復薬と【ヒール】である程度回復したが、腿に刻まれた裂傷と失った血液は完全には癒えていない。
じわじわと、今もHPは減少し続けている。
(現在地も分からない。燐は動けないから、ワタシが正規ルートを探さないといけないわ。でも、燐を一人には出来ない………)
「行って来い、アリス。帰り道、見つけてきてくれ」
悩むアリスへと燐ははっきりと告げた。
「………分かったわ。気を付けてね」
アリスが飛び立つ。
彼女の残した燐光を惜しむように手を伸ばして、そして下ろした。
緩やかに腰に伸びた手は、『石蜻蛉』を掴み、握りしめた。
静かな時間が流れていく。
何も変わり映えしない洞窟の中にいると時間間隔が失われていく。
時折聞こえる怪物の声を、ナイフを握りしめて、耐える。
壁からモンスターが湧き出てこないかと、壁の凹凸を覚えるほど見つめ続けた。
こつり、と微かな音を聞いた。
こつり、こつりと断続的に響く小さな音だ。
生物の奏でる足音であった。
それは確かに、燐が潜む小ルームへと近づいていた。
(………二足の足音………ゴブリンが、一体か)
燐は短槍を支えにして、立ち上がる。
(MPは、もうない)
感覚的にMP残量を推測し、魔法ひとつ放てないと確信した。
(相手は2階層のゴブリン、今までと同じように倒すことはできない。それなのに俺はこんな状態だ)
相手が一体だけなのがせめてもの救いだと自分を慰める。
ゴブリンが小ルームの入り口に気づいた。
人ひとり入れるぐらいのほんの小さな入り口に、緑の手がかかる。
燐は小さく息を吸い込み、短槍を構えた。
身を乗り出し、その姿が見えるのを待つ。
だがゴブリンはぴたりと止まった。
(気づかれ―――――)
燐の悪寒を肯定するように、ゴブリンは甲高い声で鳴いた。
『Giiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!!!!!!!!!』
「――――ッ!こいつっ!!」
燐は慌てて踏み込み、短槍を突きこむ。
『Gi………』
魔石を貫き、ゴブリンは短い悲鳴を上げて灰となった。
(まずいまずいまずいッ!!モンスターが寄って来るッ!)
燐の脳内は、激しい焦燥に支配された。
今にも小さな入り口からモンスターが群れを成してくるのではないか。
そんな妄想が一秒経つごとに加速していく。
慌ててバックパックを掴み、背負う。
短槍を支えにして、おぼつかない足取りでルームを出る。
『アリス!聞こえるか!?』
『―――ッ、燐?どうしたの?』
『しくじった!モンスターが寄って来る!』
『………ワタシの所に来て!多分、正規ルート近くよ!見覚えのある地形が見えてきたから!』
アリスの位置は、互いの繋がりを通して分かる。
ここからそう遠くない。
普段であれば、簡単に行ける距離だが、アリスがいない分、慎重に進む必要がある。
(アリスを呼び戻すのは………だめだ。正規ルートに行って終わりじゃない。誰か冒険者に助けてもらわないと!)
正規ルート付近なら、冒険者に会える可能性が高くなる。
見返りは求められるだろうが、地上までの護衛を頼むのだ。
それが生きて戻れる最善手であることは燐にも分かる。そのためにも、アリスには正規ルート付近で冒険者を探してもらう必要がある。
(アリスには頼らない。自分で、切り抜けてやる)
暗い洞窟の奥へと、燐は覚悟を決めて踏み出した。
瞳を凝らし、耳を澄ましながら慎重にアリスの方へと進んでいく。
普段より、遥かに遅く、おぼつかない足取りだった。
今までは気にしてもいなかった通路の奥の暗がりが、怪物がぽかりと開けた口に用に見えた。
その奥に足を踏み入れる度、重く唾を飲み込む。
精神がすり減っていくのを感じる。
(――――ッ、遠い!)
『ねえ、燐。今日はご馳走よね?』
ふと、心中に聞こえたアリスの声に、燐は思わず息を漏らした。
「そうだな。アリスは好きなものを買えよ。俺は病院食だろうけど」
『なによそれ………。それならワタシも我慢するわ』
「それが出来たらな。アリスが食関連で我慢したことなんて無いだろ」
『そんなことないわよ………多分』
「アリス…………そっちいくの、少し遅れそうだ」
『燐?ねえ、燐――――』
三匹の獣がいた。
黒い毛皮に白い牙。
低いうなり声をあげ、前方から姿を現した。
すでに、燐に気づいている。逃げることはもうできない。
「またお前等か。この階層、ゴブリンの方が多いんじゃないのかよ」
散々燐を追い詰めた忌々しいヘルドッグに、燐は短槍を構え、ルームの壁に背を預ける。
途端、ヘルドッグたちは一斉に駆け出した。
幾重もの吠え声が重なる。
最も速い一体が、瞬く間に燐の足元まで距離を詰め、飛び掛かる。
燐はそれを短槍で弾き飛ばした。
(いい加減慣れるんだよ!)
だが、仕留めるには至らない。
すぐに起き上がり、噛みつこうとする。
それを短槍の柄で押しとどめる。
『ガウッ、ガァアアアッ』
金属が擦れる不快な音と共に、柄が悲鳴を上げる。
燐は蹴りを喰らわせる。
軽い悲鳴を上げて、ヘルドッグは吹き飛んだ。
同時に燐もまた、傷口に走った鋭い痛みに、瞳を歪めた。
『『グオォオオオッ!!』』
「――――ッ!」
燐は短槍を大きく薙ぎ払い、ヘルドッグたちを遠ざける。
牽制するように、地面を大きく叩き、威嚇する。
(まずいな………)
燐の力で、この場を切り抜けることはできない。
だが、心に薄く広がる諦観を燐は嗤った。
「さっきよりは断然マシだ………!」
手足がもげようと、命が尽きようと狩り殺す。
不思議と恐怖は無かった。
決意と共に、一歩を踏み出す。
獣たちはただならぬ燐の気配に、一歩下がった。
どちらかが動けば、死闘の幕が開ける。
そんな時、銀閃が走った。
「――――ッ」
宙を飛び、ヘルドッグの急所を貫いた矢に、燐は瞠目する。
残ったヘルドッグの視線がそちらに向いたとき、すでにその首は身体から落ちていた。
気付けば、燐の目の前には日本人形のような美しい女性が立っていた。
立ち姿から考えるに、燐にもヘルドッグにも気づかれない速度で近づき、既に鞘の内に収めた刀を振ったのだろう。
濡れ羽色の長髪をたなびかせ、燐を睥睨する女性、九条姫へと、燐は小さく「助かりました」と声をかけた。
「お前、戦う気だったのか」
姫は、なぜか訝しむような声音で、厳しい視線を向ける。
燐は質問の意図が分からないまま、小さく頷いた。
「燐、生きてる~?」
雫が短弓を片手に呑気に手を振っている。
雫のフードから頭を出したアリスも笑顔で手を振っている。
「アリス、よかった………」
安心した燐はそのままふらりと倒れ込む。
地面にぶつかる前に、姫がその身体を支えた。
「燐!?大丈夫!?」
アリスが慌てて燐の側による。
「気絶しただけだ。死にはせん」
姫が静かにそう言った。アリスはほっと胸を撫で下ろし、雫はまじまじとアリスを見た。
「本当に『妖精の宿木』なんだね」
ギルドでダンジョン下層へと向かっている途中、雫は突然アリスに声をかけられた。
滅多に見ない【妖精】が現れたばかりか、話しかけられるというイレギュラー。
初めは警戒していた【金翼の乙女】たちであったが、燐の名を聞き、雫はすぐにアリスを連れて駆けた。
それを姫が追いかけ、今に至る。
「…………とりあえず、地上に届けるぞ。その後までは面倒を見れないが」
「ええ、助かるわ」
アリスは姫の言葉に、安堵して微笑んだ。
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