冥界へ行こう

「その……本当に、よいのだな?」

「え?」

「本当に、余との婚姻に応じるのだな?」


 ヨミは念押しするように、やけに神妙な顔をしてそればかりを繰り返した。口調こそ不遜だが、その瞳は不安げに揺れている。こちらを慮るような視線に、恵菜の方が戸惑ってしまう。


「だって、今からはもう断れないんですよね……?それに、ウェデングドレス着て結婚式できるって言うのはかなり魅力的ですし……。」


 世間一般から見たら、神や物の怪の類と婚姻を結ぶなど正気の沙汰ではないのかもしれない。だが、恵菜の場合は状況がかなり違った。正直、追い詰められていた。実家に帰れば僧侶との見合いをさせられるし、マッチングアプリに逃げればどの男ともまともなデートにさえこぎつけない。むしろ、目の前の男を逃したら次いつチャンスがあるか分からない状況だ。それに、まだ出会ってわずかであるが、ヨミはかなり誠実な部類に入る男性のように思えた。ドレスの件もそうだが、分からないことは変に見栄を張らずに聞き返すし、妥協案を提示してくれたりもする。嘘をつくタイプにも見えないし、そう悪くないように見えた。

 

「白のドレス、式で着れるんですよね……?その約束、守ってくれるなら。」

「ああ、当然だ。余は冥府の王と言っても神の端くれ、神は絶対に契約を反故にしたりなどしない。約束を守ることは、この魂をもって誓おう。」


 血の気のない、ひんやりした白い手が恵菜の手をそっと握る。大仰な言葉だったが、これ以上ないくらいに真剣な眼差しでそう告げられ、息が止まりそうだ。じんわりしたものが胸に込み上げて心をくすぐり、恵菜は相好を崩した。ヨミもようやく安堵したように深い息を吐き、穏やかな笑みを湛える。


「ふふ、肝の座ったおなごだ。ではすぐにでもここを発ち、冥界へと向かおう。……そういえば、そなた、名はなんという?」

「え?あぁ、恵菜です。及川恵菜」

「エナか。良い響きだ、まるで草原で戯れ転がる小動物のような愛らしさがある」

「えっ?そうかな……?」


 ヨミは機嫌が良さそうに恵菜の名前についてそう述べたものの、彼の感性が独特なのか恵菜の感受性があまり豊かでないのか、いまいちよく分からなかった。だがすごく嬉しそうだし、自分の名前を褒められて悪い気はしなかった。


「えへへ、なんか照れますね。それにしても結婚の約束した後で名乗るのも、ちょっと不思議な感じかも」

「うん?人の世での名など仮のものでしかないのだ、誰しも魂に刻まれた真名がある。冥界に棲家を移せばじきに今の名など忘れようて、さして問題ではない。ところでエナ、このあたりに水場はあるだろうか、川や湖だ。なければ噴水や水溜まりの類でも構わぬ」


 人間よりも遥かに長い時間を生きているからか、ヨミの言うことはよく分からなかった。混乱しつつもこの辺りの水がある場所を必死に思い出す。


「あ、そこの通り入って奥の空き地の横、小さいですけど湖ありました、確か」

「案内してくれぬか」


 言われるがまま公園を出ると、もうとっぷりと日は暮れていた。夜の闇を吸って一切光の落ちない雑木林を通り抜け、目当ての湖に辿り着く。新月だったらしい、一寸先も見えない暗がりに静謐さを溜め込むように底の見えない湖が広がっている。一人で来ていたら多分怖くて失禁していたかも。


 隣を見れば、ヨミの完璧なラインを描く美しい横顔が、ぼんやりと闇に浮かび上がっていた。彼は上質そうな革地でできたブーツのような履き物の底でざり、と地面を擦ると、掘り起こされた小さな石つぶてをそっと白い指で拾い上げ、しんとした湖に放り投げた。


 ぴんと張った水面に石ころを起点として小さな波紋が広がる。何重もの円を描く波紋が消えて元の凪を取り戻す前に、彼は小さく短い詠唱をした。呪詛なのかまじないなのか、恵菜の耳には馴染みのない言葉だった。


 その瞬間、目の前の空間に突如スッとナイフを入れたかのように、切れ目が走る。何が起きているのか理解が追いつかない中、ヨミは当然のような顔で空間の亀裂に手を入れると、がばりとそれを横に広げた。まるで切れ目の走った布を掴んで左右に引っ張ったようだ。その奥には黒々とした空間が渦巻いている。


「冥界への扉を開いた、我らが共に暮らす場所はこの先だ。さあ、余の手を取ってくれ。」


 差し出された手を恐る恐る取ると、ぐいっと引っ張られ肌触りの良い外套に包まれる。ヨミは艶やかな笑みを浮かべ恵菜を横抱きにすると、大切そうに抱きかかえたまま、冥界への入り口へと飛び込んだ。

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