姫様ここにあり!

あんぜ

第1話 佳乃

 ぽたり、ぽたり――。


 古びた裸電球が天井からぶら下がる廊下には窓がない。真っ暗な中、その裸電球だけがチカチカと明滅している。ひんやりとした冷たい空気は僅かに湿気を孕み、カビと朽ち木の匂いが漂う。廊下の壁には漆喰が一面に塗られていた。


 漆喰の一部は新しく塗られたものだった。その、新しく塗られた部分が剥がれ落ち、さらに積み上げられていたレンガが崩されている。レンガもまた、それほど古くないもので、その赤い色が廊下に散乱している。


 ぽたり、ぽたり――。


 音は壁の穴の先から聞こえてくる。

 穴は人ひとりが通れるくらいの大きさ。

 壁の穴の先はただただ赤い。壁も、床も、おそらく天井も。


 ぽたり、ぽたり――。


 部屋の中央には150cmほどの小柄な人形が立っていた。

 人形――微動だにしない、そして人にしては細く滑らかな白磁のような肌。

 滴り落ちるのはその指先から。


 足元には――――足元には湯気をまとった塊が居た。錆びの匂いを伴った湯気は塊からも立ち上がっていたが、開いたまま閉じない穴からも小刻みに吹き出てきていた。


「――――ヲ、ヨコセ……」


 不意に、人形は呟いた。唇を動かすことも無く。



 ◆◆◆◆◆



「そんな服も持ってたんだね、初めて見たよ」


 新井 佳乃あらい よしのが笑顔でそう言った。

 彼女は俺のクラスでは、いや三年ではいちばんの美人。少なくとも俺はそう思う。

 長い黒髪、背が高く、顔も整っている。成績もよく、運動もそこそこできて性格もいい。

 こんな彼女と俺は仲が良かった。


「やっぱり恋人にはなれないのか?」

「ごめんね、それだけは無理なんだ」


 俺はなけなしの小遣いをはたいてスーツを買ってみた。

 高校で着るようなのじゃなく、デートで着るため、友人のアドバイスを受けて。


「誕生日プレゼントは何も要らないって言うから、せめて恰好だけでもと思ってな」

「私にはあなたのくれた思い出があるから。それだけで十分」


「なあ、本当に外国にいっちまうのか? なんなら俺の家に来ないか……」

「そういうわけにも……いかないんだ」


 まあ、そうだろう。高校生がなんとかできるほど世の中は甘くない。

 彼女の父親が海外に行くってのならついて行くしかない。

 俺だって家が裕福なわけじゃない。彼女と結婚しても……。


 ただ、佳乃のことをどうしても諦めきれない自分が居た。

 デートの途中、何度か佳乃の肩を抱こうとしたけれど、彼女に躱される。


「俺のこと、嫌いになった?」

「違うよ。私には、そんな資格がないだけ……」


 彼女はいつの頃からか、俺に触れられるのを避けるようになった。

 どこへ出かけても恋人のようだったし、クラスでもそう見られていた。

 それがまるで別人かのように。


 少し高めのレストランで昼食を取ると、もう別れの時間だった。

 彼女は空港近くのホテルへ行く前に、俺との最後の時間を作ってくれていた。


「佳乃、最後にキスだけでも……」


 彼女はようやく俺の腕で触れさせてくれた。

 ただ、唇が触れ合う寸前――。


「やっぱりダメ、ごめんなさい……」


 確かにもう二度と会えないだろう相手に未練を残させるのはずるい。

 けれどその態度は自分を否定されたかのように感じられた。

 佳乃の心はもう俺には無いのか?



 ◇◇◇◇◇



 彼女と別れたあと、海浜公園に取り残された俺はフラフラと手摺に沿って歩き、やがて魂が抜けたかのようにベンチに座った。やりきれない思いと共に強く握りしめた手。


 不意に痛みが走った。左手を開くと、どこかで引っ掛けたのだろうか。赤い血が。血はぷつりと小さな玉になり、やがて広がっていく。傷口を舐め、止血のために再び左手を強く握る。


 ――やっぱり諦められない。俺は駅に向かい、電車に乗った。



 ◇◇◇◇◇



 結局、彼女のアパートの近くまでやってきてしまった。

 最後、彼女が謝ったあのとき――佳乃は泣いていた。ただ、震えてもいた。

 ただの拒絶にしてはおかしい。俺はその理由が聞きたかった。


 彼女のアパートの前には黒いセダンが停まっていた。

 明らかに異質な雰囲気はハイヤーなどでは無いということがすぐにわかる。

 不審に思っていると、アパートから強面の男が三人出てくる。


 ――佳乃!?


 佳乃はその男の一人に手首を掴まれていた。

 俺は何が起こっているかわからなかった。

 ただ、海外へ行くなんて様子にはとても見えない。


 佳乃の親父さんはアパートのドアの前で佇んだまま。


 ――佳乃が連れていかれる!


 そう感じ取った俺は、佳乃の腕を掴んでいる男に向かって行った……。



 ◇◇◇◇◇



「痛てぇ……」


 気が付くと冷たいコンクリートの床に座らされていた。

 顔中が腫れぼったく、体のあちこちが痛かった。

 背中に回された腕は両手を、そして両足首を紐で縛られている。


 飾り気のないコンクリート打ちっぱなし、だだっ広い部屋には照明は無く、窓からの強い光だけが眩しく見えた。ただ、意識がハッキリしてきてよく見ると、部屋にはカメラを始めとした撮影機材のようなものがいくつもあった。そして部屋の一角には殺風景な部屋とは不釣り合いな大きなベッドがひとつ。


「なんだこれ……」


 俺の理解を越えていた。この平和な日本で何が起こっているのかわからない。

 彼女を攫おうとしていたのはヤクザにしか見えなかった。


 腕が自由にならないか足掻いていると、やがて部屋の入口の方から大勢の人の気配が。

 ドアが開くと、セーラー服姿の佳乃が背中を押されて入ってきた。


「佳乃!?」

ただしくん!」


 佳乃のセーラー服は中学の頃のものだった。サイズの合っていない服を無理に着ている。


「ご対面~」


 そう言って――ギャハハ――と笑うチンピラっぽい男。


「お願い、彼を放して!」


「放せるわけねえだろ」

「こいつのせいで兄貴がドタマカチ割られたんだぞ」

「不随になってるかもしれねーだろが」


 チンピラの他にも強面が七人は居る。


「そゆわけでぇ、佳乃ちゃんもいい加減素直になろうね? 彼がどうなるかわかんないよ?」


 チンピラが佳乃を脅していた。佳乃は涙目で唇を噛む。


「佳乃、何か知らんがやめとけ。チンピラの言う事を聞く必要はねえ」


「何だとこのクソ坊主!」


 ドカッ――と既に痛みのある部分に蹴りを入れられ、悶絶する。


「やめて!! 聞くからっ、言うこと聞くからっ」


「彼氏クンも余計なこと言わない。言うと――」


 チンピラが顎で指示すると、強面の一人が日本刀? 短刀なんかじゃない、鍔の無い日本刀を抜いてこちらに向けてきた。


「――ちょっとずつ削ぎ落しちゃうよぉ?」

「ヤダヤダヤダ、やめて!!!」


 佳乃の悲鳴が響く。


「別に俺はどうなってもいいや。――でも佳乃、こんな奴らの言う事なんか聞いちゃダメだ。聞いたらそこで負けだよ、佳乃」


「あるぇ? 佳乃ちゃん、彼氏クンに言ってないの? 撮影、初めてじゃないもんねぇ?」


 佳乃は俯いたままだった。


「ただねえ、そっちの初めてはやっぱ貴重だしぃ? 誕生日まで待ってあげたんだよねぇ、佳乃ちゃん? これからバンバン稼いでもらわないとねぇ?」


 佳乃は何も言わない。

 あいつ、資格がないってこんなことに巻き込まれてたのかよ!


 チンピラが佳乃の腕を取って、嫌がる彼女をベッドまで引っ張っていく。


「やめろ!! 佳乃を離せ!!!」


 俺が叫んだところで誰も相手にしようとしない。ニヤニヤと笑っているだけ。

 頭にくる!――こんなの絶対に許せない!――佳乃だけでも助けたい!


 俺は精一杯の抵抗をと、後ろに転がって背を床につけながら両足で日本刀を蹴り上げた!


 ――刀が上手く紐を斬ってくれたのはよかった。ただ、足首もぱくりと傷が開いていた。


「こいつ!」

「何やってんだバカ!」


 俺は立ち上がり、佳乃に向かって走った。

 脚が上手く動かない……。

 短い距離なのに遠く感じる……。


 ベッドの直前で俺は転倒した。

 訳が分からなかった。

 それだけで猛烈な痛みが体中に走った。


「雅くん!!」


「痛てェ! 噛みやがった!」


 佳乃が俺に覆いかぶさるように飛びついてきて俺の太腿を押さえた。

 彼女が必死で押さえているところに物凄い痛みを感じる。


「やだっ、切れてる、血が止まらないっ、やだやだっ」


「バカが! せっかくの衣装を血まみれにしちまいやがって!」


 二人がかりで佳乃は俺から引き剥がされていく。

 俺は彼女に手を伸ばすが届かない……。

 だんだんと痛みがハッキリしてくると、俺はその痛みのせいで悶えた。



 彼女を助けることができない……。

 絶望の中、聞こえてくる声……。



「こ、こいつが自分から……」

「バカ野郎! 商品傷つけてどうする! 元も取れてねえぞ!」

「医者だ、医者呼んでこい!」


 何が起こったのだろう。

 ベッドの方を見るが彼女は居ない。


 違う、反対側を見る。俺の後ろを見る。すると彼女の体が――床に倒れて動かない彼女の体が見えた。男が彼女の首のあたりに手を当てているのが見える。彼女の体が痙攣していた。


 そんな…………そんな、そんなそんな、そんな馬鹿なこと!!


「あ、ああ…………ああ………………」


 太腿を押さえていた左手を伸ばす。血まみれの手を伸ばす。彼女の足首に触れる。

 重さはあるのに何かが足りない。ぐったりとしていて何も反応がない。


「おおお、おおお…………おおおおお」


 嗚咽と共に顔を覆った。

 佳乃が…………。



 ◇◇◇◇◇



「クソが、ダメになっちまったじゃねえか! なんでンなもん持ち込んだ!」

「いや、若頭が持って来いって……」


「ああ!? オレがいつ言った!? お前が勝手に持ってきたんだろうがよぉ!?」


 チンピラが男に絡んでいた。

 どうでもいい……もう、どうでも……。


 

「――――ヲ、ヨコセ……」


 何か…………聞こえた気がした。


 寝たままそちらを見やると、さっきまで横たわっていた彼女が居ない。


 ――いや、居た。


 佳乃は立っていた。

 首には割れた傷口があった。


 彼女、あんな髪型だったっけ――最初に目に入ったのはそれだった。

 彼女の髪は逆立っているように見えたけど、そうではなかった。

 黒い、二本の艶のある捻じれた大きな角が頭に生えていた。


 顔、彼女の顔に似ていたが違う。

 いつもより切れ長に開いた目の中にはいくつもの瞳が並んでいた。三つ、いや五つ? たくさんの瞳はきょろきょろとそれぞれが別々に動いて周囲を覗いていた。血の気の無い肌は見る見るうちに白くなり、艶を堕とした白磁のようになめらかに。


 ひたり――裸足の一歩を踏み出す。


 ひたりひたり――が二歩、三歩と歩いたところで誰かが声を上げる。


「なんだこれは」


 ――沈黙。


 この部屋にはまだ何人もの男が居たはず。

 そして寝たままで頭を大きく動かせないが、俺はに見とれていた。



「――――ヲ、ヨコセ……」


 それが何かを言った次の瞬間、誰かの悲鳴が聞こえた。

 同時に重いものがドスンと落ちる。

 見てはいけない気がした。


 ヤクザたちは大騒ぎとなる。

 そして何か、――ドン――だか――ザン――だか、そんな感じの鈍い音を立てる度に悲鳴が聞こえてきていた。


 ――この部屋で恐ろしいことが起こっている。


 ヤクザどころじゃない、人の理解を超えたことが起こっている気がした。

 目にするのも恐ろしいほどの事が。


 やがて悲鳴こそ聞こえなくなったが、今度は呻くような声があちらこちらで。

 鈍い音は未だに続いている。


 鉄錆の匂いと共に糞尿の匂いが混じってくる。

 あまりにも気持ちが悪かったため、ほんの少し目を開けて見た。


 目の前には赤黒く染まった床があった。

 壁も赤。場所によっては天井まで赤かった。


 床には人の形を失くした塊があった。

 それは僅かに動き、生きているのが見え――。


 ひたり――目の前に素足が現れた。

 

 赤い床を、が歩いて来た。俺はなぜかほっとしていた。最後に佳乃を見られてよかった。佳乃の足だったものを見られてよかった。


「ミルナ、ミナクテイイ」


 がそう言った。それは屈むと俺の太腿に手をやった。激しい、抉られるような痛みがあった。傷口の中をまさぐられているようにも思えた。――が、それも短い間のこと。気が付いたときには全く痛みを感じなくなっていた。足首も同様に。


 俺は声に言われた通り、目を瞑った。

 すると俺は持ち上げられ、数歩歩くと柔らかいものの上に寝かせられた。

 同時に朦朧とし始め、その薄れゆく意識の中、声を聞いた。


「――――ヲ、ミセテオクレ……」



 ◇◇◇◇◇



 俺はベッドの上で目を覚ました。


「ん……どこ」


「雅くん!? 気が付いた! おばさん、雅くんが!」


 消毒薬の匂いがした。それから腕に刺さった点滴。


「病院?」


「うん、助かったんだよ、わたしたち!」


「え、何が……」


 その後、母が顔を見せた。

 どうやら俺たちはヤクザの事務所で発見されたらしい。

 事務所まるまるひと棟、上から下まで凄いことになっていたらしい。

 凄いこと――としか教えてくれなかったが、何となくわかってしまった。


 ヤクザに攫われた俺たちは、最上階のベッドの上で二人して寝ていたとか。

 奴らに何が起こったのかは警察が調べているらしいけれど、あんなこと、誰も信じないだろう。体調が戻ったら事情を聞かせて欲しいと言われているそうだ。



 ◇◇◇◇◇



「お父さん、逃げたみたい」

「えっ」


 隣のベッドに寝る彼女がそんなことを言ってきた。


「あの後、逃げたみたい」

「そうか」


「天涯孤独の身になっちゃった」

「俺の家にこいよ」




 佳乃は長い沈黙ののち答える。


「……うん」

「えっ?」


「……よろしくお願いします」

「よかった」


 彼女は涙を流していた。

 何でもいい、彼女が居てくれるなら。



「――のこと、覚えてる?」

「覚えてる」


「俺には見るなって言ってた」

「私も。見えなくなって音だけ聞こえてた」


「そうなんだ。――あれって何なの?」

「お姫様だって言ってた」


「お姫様??」

「うん」


「――ずっと私の体に同居してたんだって」

「同居?」


「そう、同居。私が見るものや聞くもの、触る物を一緒に感じてたんだって」

「よくわからないけど、……そうなんだ」


「ステキな恋を体験したかったのに邪魔されて怒ったんだって」

「ん??――どういうこと?」


「なんかそういう楽しみ方? みたいなのがあるみたい」

「へ……え?」


「だから、純愛をみせてって。私は雅くんに謝らないといけないことがたくさんあるけれど、雅くんが受け入れてくれるのなら精一杯……尽くします」

「そうか……そうだな、死ぬよりはいい」


 俺たちはベッドの上で手を伸ばしあって指先を絡めた。







--

 姫様は悪魔の姫様Devil Princessです。


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