第16話 文学少女と天才ピアニスト その十四
14
カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響いている中、ぼくは再び文字を紡いでいく。
一度集中し始めると時間を忘れて、自分の中にある物語の世界に没頭してしまうことがある。
頭の中に漠然とある世界を、ぼくの脳から指を通して文字へと変換していく。
曖昧で、あやふやで。輪郭すら存在しない世界を文字という形で枠の中に落とし込んでいく作業は、ぼくにとって楽しい時間。
時には行き詰まり、筆が止まることもあるけれど。それでもいつか形に出来たらいいなと願いながらキーボードを叩き続ける。
そんな時間がしばらく続いた後、ふと我に返ると時計の針がかなり進んでいることに気づく。
「あっ……そろそろお昼の時間かな」
ぼくはそう呟いてから大きく伸びをした。
集中して執筆をしている間は気づかなかったけど、肩や背中が少し凝っている気がする。
最近は胸辺りの成長が著しいせいか、肩こりも昔よりも凝りやすくなっているのは少し辛いところ。
その上、ブラのサイズも少しきつくなってきたので、これ以上成長してほしくはないというのが本音だったりする。
「さてと……」
ぼくは首を回したりして軽くほぐしつつチラリと沙音の様子を伺う。
彼女はベッドの上で小説を読んでいた。よほど集中しているのか、ぼくが見ていることにも気づいていない様子。
すごい真剣に読んでいる……。
彼女の視線は本に書かれた文字へと注がれている。そんな光景を見ていると不思議と微笑ましい気持ちになった。
ぼくは彼女を邪魔しないように静かに立ち上がると、こっそり部屋を出た。
そしてキッチンへ向かいながら、先程の沙音の真剣な表情を思い出す。
普段はあまり小説を読まないと言っていたのに、あそこまで熱心に読んでいるのは意外だった。
あの小説が面白いのは、ぼくも知っている。だから、沙音が夢中になってしまうのも分かる。
面白いものは隅々まで味わいたくなるものが、人間の性というもの。
だからああして読んでもらえるのは物語としてはきっと極上の喜びだろう。
そんなことを思いつつ、ぼくはリビングに着くと、そこにはお母さんがソファーに座りながらテレビを見ていた。
「お母さん、お昼は何かある?」
ぼくが尋ねると、お母さんはこちらのほうを向いて考えるような仕草をする。
「そうねぇ……あるにはあるけど……そうだ、せっかく沙音ちゃんが来てるんだから、二人でどこか食べに行ってきたらどう?」
お母さんがそういう提案をしてくる。確かにそれも悪くないかもしれない……。
材料があるのなら、一瞬、ぼくの手料理を振る舞うのもありだとは思ったがやめた。
沙音はお嬢様だ。きっとぼくの手料理なんて口に合わないかもしれない。
それでもしっかりと食べてくれるだろう。まだ短い付き合いだが、彼女はそういう人間だと理解している。
だからこそ、今回はちゃんとお店でご飯を食べるのが良いだろう。
ぼくはそう考えながら、お母さんの提案に乗っかることにしたのだった。
それから沙音と話し合った結果、ぼくと沙音は駅前の喫茶店を訪れていた。
この喫茶店はリーズナブルな値段設定でありながらも美味しい料理を出すので評判らしい。特にパンが絶品という話。
なんでもマスターがこだわりを持って作っているらしく、それを目当てに来るお客さんも多いとか。
店に入ると他のお客さんが多くいたが、とても落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「なるほど、なかなかいい感じだね」
「でしょ~、あーしのお気にの店の一つなんだ」
沙音は得意げに言うと、店内を見回している。今回この店を選んだのは、沙音がこのお店を気に入っていたかららしい。
確かに雰囲気もいいし、料理も美味しそうだ。これなら期待できそうだな。
「いらっしゃいませ、二名様ですね?」
店員さんが出迎えてくれると席へ案内してくれる。案内されたのが窓際の席だったので窓から外を見ると景色がよく見える。これはなかなかいい場所だなと思う。
ぼくと沙音はそれぞれ向かい合わせで座ると、店長さんがメニュー表を渡してきた。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
メニュー表を渡されて去っていく店員さんを見送ってから、ぼくはメニュー表を開いた。
「さて、何にする?」
ぼくは沙音に問いかけると、彼女も一緒になってメニュー表を覗き込む。そしてしばらく悩んだ後、彼女は口を開いた。
「あーしはナポリタンにしよっかな、サヨサヨはどうする?」
「せっかくだし、このハムエッグサンドにしようかな」
「おっ、いいね~!じゃあ店員さん呼んじゃおっか」
そう言って沙音が手を挙げて呼び鈴を押す。するとすぐにさっきの店員さんがやってきたので注文をした。
それからしばらく待つと料理が運ばれてくる。
運ばれてきた料理からはとても香ばしいパンの焼ける匂いが漂ってきて食欲を刺激してくれる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
早速手を合わせてから一口食べると、パンの柔らかな食感とともにバターの香りが口の中に広がった。
そして一緒に詰められたハムもジューシーで美味しい。たまごは甘味を抑えた味付けになっており、それがハムの塩気ととてもマッチしていていくらでも食べられそう。
うん、これは確かに美味しい……。
ぼくは舌鼓を打ちながら幸せな気分に浸っていた。
「どう?おいしい?」
「ああ、とても美味しいよ」
ぼくは素直に感想を伝える。すると沙音は嬉しそうに微笑んだ。
「よかったぁ~、あーしもそれ好きなんだよね」
沙音も自分が頼んだナポリタンを一口食べると、満足そうな表情を浮かべる。
「沙音はよくこの喫茶店を知っていたね」
「まあね~、クラスの子と来たりしてるから」
「なるほどね……」
確かに沙音の性格ならクラスの友人ともよく遊びに行ったりするだろう。
彼女はノリの良い性格なのでクラスの人気者でもあると聞いている。
「まあ、あーしが普通にナポリタンとか食べるだけで、みんなビックリするんだけどね」
沙音はそう言って苦笑いをする。まあ確かにお嬢様が喫茶店でナポリタンを食べるのはイメージと少し違うかもしれないな……なんてことを思ったり。
「あっ、サヨサヨもいまあーしのことお嬢様のくせにとか思ったでしょ?」
「えっ!?いや、そんなことは……」
図星を突かれて動揺してしまうぼく。そんなぼくを見て沙音は悪戯っぽく笑う。
「あははっ、サヨサヨって意外と分かりやすいよね」
「……あまりからかわないでくれよ」
ぼくは少しムッとして答えると、彼女はごめんごめんと言いながら手を合わせた。
それからさっき沙音が読んでいた小説の話をしながら食事を楽しんだ後、会計を済ませて店を出た。
「さてと、どうする?このまま家に帰るかい?」
「ん~?ちょっとその辺を歩こうよ」
「ああ、構わないよ」
別にこのあと特に予定はないので、ぼくは沙音の提案に乗った。
「おっ、さすがサヨサヨ、話が分かるぅ」
沙音は嬉しそうに言うとぼくの腕に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと沙音!?」
「別にいいじゃん、女の子同士なんだし」
沙音はそう言いながらさらに強く抱きついてくる。柔らかい感触が腕に伝わってくるのを感じてドキッとしたが平静を装う。
「まったく、仕方ないな……」
ぼくはため息をつくと、ぼくの腕にからめられた沙音の腕を離れないようにしっかりと受け入れる。
二人で肩寄せながら歩く姿を道行く人たちに見られるのは少し恥ずかしかったけど、それも悪くないと思った。
「サヨサヨの腕って細いし、柔らかいよね」
「そうかな?」
沙音はぼくの腕に頰を寄せながら言う。なんだかくすぐったいな……。
「それにいい匂いもする~」
沙音はそう言いながらクンカクンカと鼻を鳴らしている。恥ずかしいからやめてほしいんだけど……。
「ほら、あんまり匂いを嗅がないでおくれよ……」
そんなやりとりをしつつ歩いていると、駅内の広場であるものを発見した。
「こんなところにピアノが……」
駅内の広場には一台のピアノが置かれていた。おそらくストリートピアノというやつだろう。
誰かが演奏している様子もなく、ただそこにポツンと置かれているだけのようだ。
「あれ?サヨサヨ知らなかった?」
「いや、知らなかった……」
ぼくは素直に答える。ピアノなんて縁遠いものだし、そもそも音楽にはそこまで興味がなかったから。
最近は沙音のおかげで少しは興味を持てるようになったけど、それでもまだそこまでではない。
「これって誰でも自由に弾けるのかい?」
「そうそう、あっ、なにあーしに何か弾いて欲しいとか?」
沙音はそう言いながらニヤリと笑う。別にそういった意図はなかったが、せっかくなので何か弾いてもらうことにした。
「そうだね……沙音の演奏が聴きたいな」
「よーし、任せといて!!」
沙音は嬉しそうに笑うとピアノの前に座る。そして人差し指で音を鳴らすと、ピアノの調子をチェックするように音を奏で始めた。
「うんうん、これならいけそう!!」
沙音は満足げに頷くと、今度は指を軽やかに動かして演奏を始めた。
彼女の指が鍵盤の上を踊る度に美しい音色が生まれる。その音は優しく包み込むようでとても心地よかった。
これは……凄いな。
ぼくは思わず息を飲むほど感動していた。さすがは天才ピアニストと言われているだけのことはある。
彼女が一度曲を弾き始めると、周囲の人々が一人、また一人と足を留め、やがて人だかりができるまでになった。
人が増えたからと言って彼女は緊張なんて一切していない。むしろ楽しそうに演奏を続けていた。
一音一音から彼女の感情が伝わってくる。彼女の思い描いている世界が音楽という形で形作られているのがよく分かる。
ぼくはただ黙って彼女の演奏に聞き入っていた。
そして演奏が終わり、沙音がぺこりと丁寧なお辞儀をすると周囲から拍手が巻き起こった。
「すごいねぇ~あの子」
「あんなに若いのにあんな技術を持ってるなんて……」
「見た目はギャルってのがまたいいね」
周囲の人々は口々に感想を言い合っている。
そんな人々に物怖じせず、間をかき分けながらぼくのところへ沙音が駆け寄ってきた。
「どう?サヨサヨ、良かった?」
「……とても素晴らしかったよ」
ぼくは素直な気持ちを伝えると、沙音は嬉しそうに微笑んだ。
「えへへ、ありがと……まあ、あーしならこのくらい余裕だし」
ぼくの称賛を受けてなお、沙音は自身の才能を誇示するように胸を張っている。
まあ、彼女の才能は本物なのは間違いない。
たった一曲演奏しただけで、道行く人を魅了し、虜にしてしまうのがその証拠だ。
正直、普通にお金を取れるレベルの演奏だったと思う。
「今日は何を弾いたのかい?」
何となく察しはついているけど、それでも一応尋ねてみる。すると、沙音は待ってましたと言わんばかりに答えた。
「フフフ、今回の曲はあーしのオリジナルの新曲だよ!!」
「ああ、やっぱりか」
聞き覚えのない曲だったからそうだろうとは思っていたけど。それにしても、また新曲を作ったのか。
「今回のも自信作、やっぱあーしって天才だから作曲もよゆーでできちゃうじゃん」
沙音は褒めて褒めてと言わんばかりで瞳をチラチラとこちらを見てくる。
「さすがだね、凄いと思うよ」
ぼくは素直に賞賛の言葉を口にすると、沙音はますます嬉しそうに笑った。
そんな彼女を見ていると自然とこちらも笑顔になってしまう。
「えへへ~、サヨサヨに褒められるの嬉しいな~」
沙音はそう言いながらぼくの腕に抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと……」
「いいじゃん別に」
そんなやり取りをしていると、ふと視線を感じる。そちらを見ると周囲の人たちから生暖かい視線を向けられていた。
どうやらぼくたちのやり取りをずっと見ていたらしい。
「……そろそろ帰ろうか」
「うん!そうだね!!」
そんな視線に耐えられなくなったぼくは、そそくさとその場を後にしたのだった。
「あっ、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「了解、ここで待っているよ」
「うん、すぐ戻ってくるから」
沙音はそう言うと駆け足でお手洗いに向かっていった。
残されたぼくは手持ち無沙汰になったので、とりあえずスマホを見ながら沙音が戻ってくるまで時間を潰すことにした。
ただ、スマホを見ていても頭に過るのは、先ほどの沙音の演奏。
奏でられたピアノの戦慄は今も耳の奥に残っている。
あの瞬間、確かにぼくは沙音のピアノに心を奪われていた。
「本当に凄いな……」
思わず独り言を呟く。すると突然後ろから声をかけられた。
「やっと見つけたぞ!!」
振り返るとそこに立っていたのは、高そうなスーツを着た中年の男だった。
「どちら様でしょうか?」
見覚えのない男の顔にぼくは首を傾げる。すると男は激昂したように叫びながらぼくの腕を強く掴んできた。
「ふざけるな!!それで惚けられるとでも思ったか!?」
「は?いきなりなんですか?」
意味が分からず困惑するぼく。見知らぬ男に腕を掴まれただけでも怖いのに、この男は何故か怒り狂っている。
その迫力にぼくは内心恐怖を感じていた。
「髪を切ってメガネをかけてそれで変装のつもりか!?さっさと家に戻るぞ!!」
男は掴んだぼくの腕を引っ張ってそのままどこかへ連れて行こうとする。
「ちょ……」
あまりの勢いに抵抗しようにも上手く動けない。それどころか気迫に圧されて何もできなかった。
どうしよう……このままじゃ誘拐されるんじゃ……。こわい……いやだ……。
恐怖で頭が真っ白になってきた時、突然、男の腕を掴む手があった。
「ちょっと待ってください……お義父さま……」
ぼくを庇うように現れたのはお手洗いから戻ってきた沙音だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます