4


 フロントで待っていた朝子に、笠寺がまだ眠っていること、目覚めたら連絡してほしいことを伝えると、ホテルの玄関へと歩み、戸に手をかけた。その背中を、朝子に呼び止められた。


「ねえ……静ちゃんがって本当なの?」


 おそらく彼が農協に買い出しに行った日に、誰かに見られたのだろう。


「……、そうみたいです。」

「やっぱり。」

 朝子は生まれも育ちも兎和山だ。静が死の淵から蘇ったことと山の泣き声、そしてこの雨を結びつけているのかもしれない。


「俺も、先輩のこと探してて。おばさんはなにか知りませんか。先輩が行きそうな場所とか……生前、先輩が好きだった場所とか」

「申し訳ないけど、わからないわ」

 朝子は顔を曇らせた。


「少なくともここには来てない。……来ないはずよ。だって、私、最後の日、静ちゃんにきついこと言っちゃったから。きっと私のこと、怖がって近寄らないはずよ」

「きついこと?」

「……聞いてない?」


 そんな話は、静から聞いたことがなかった。朝子の人となりについて、静からはおっとりして優しい人だと再三聞かされていた。ことあるたびに菓子だの果物だのをもらって帰ってくるし、トラブルがあったことなど、一度もなかったはずだった。


「そうなのね。……もちろん笠寺さんには言わなかったんだけど……、」

 朝子の口元に当てられた手に、わずかに力が入るのが見えた。当時のことを思い出しているらしかった。


「その……静ちゃん、お客さんの部屋から……ものをね、ったの。」

 盗った。

 洸太はかつて彼が万引きした夜のスーパーを思い浮かべた。


「一回だけよ、ほんの一回だけ。物も、なんてことはない、お客さんの煙草だった。金目のものを盗んだとかそういうのじゃない。でも、まさかそんな、静ちゃんがするなんて、思わなくって……。

 私も、お客さんに責められちゃって、それで静ちゃんにその……少し厳しく叱っちゃったの。

 そのあと、あの土砂災害の話を聞いて……私のせいかもしれない、って思った。私が責めたから、あの子、あんな雨の日に出ていって。もし私があのとき、ちゃんと事情を聞いてあげてれば――」


 洸太はその話を聞いて腑に落ちた心地がした。


 静の本質は旅人だ。

 彼は一つの場所にはとどまれないと言っていた。

 どんな素晴らしい場所でも、やがて嫌になる日が来ると。


 そのシグナルが盗みの衝動だとしたら、今まで何かから逃げ回るように各地を転々していたのも納得ができる。


 その土地を離れたくなる。盗む。咎められる。そこを離れて他所へ行く。

 それを繰り返していたのかもしれない。


「知りませんでした、」

「そうなのね。……ごめんなさいね。こんなことを今になって……」

「いいんです。話してくれてありがとうございました。」




「……なぁ、東片」

「はぁい?」

 冷えた車内で、エンジン音だけが温かく聞こえた。灰色に寂れた温泉街と、濁流をたたえた川が、車窓を流れていく。

「お前、どれくらい遠くまで行ったことがあるんだ」

――旅行に行けよ。

 静の言葉を思い出す。


「ええ?どうでしょうねぇ。南は鹿児島へも行きましたがね、北は岩手の田老かな……意外と青森より北は行ったことがないんですよ。」

「面白いのか、」

「はぁ、」

 東片はやけに細いハンドルをちょこまかと動かしながら、間抜けな声を上げた。


「仕事がですか?遠くへ行くことですか?まぁどちらにせよ、ほどほどですよ。天職だとは思いませんがね、気に入ってはいます。ほら、この仕事って、基本一人ですから。たまに会社に帰って報告するぐらいでね、気楽なんですよ。ひとりきり、どこへでも好きなところに行ける。道一本違うだけで、景色なんか全然違いますし」

「……そのまま逃げようとか、思わないのか」

 それを聞いて、東片は大きく笑った。


「逃げてどこへ行くんです?」

「別に、どこか、知らないところへ」

「知らないところねぇ。ま、そういうのが好きな人もいるでしょう。でもわたくしはそこまで旅人ではないのですよ。どこまで行っても、最後には決まった場所に帰る。そういうのが丁度いいんです。

 イヤですねぇ〜大高さん、わたくしをほだそうとしても何も変わりませんからね。わたくしの仕事は、あなたの先輩の魂をよそに売り渡すことです。すでに取引は成立していて、あなたの交渉する隙は一分もないんですからね」


 別にそんなつもりで言ったことではなかった。

 ただ、案外東片が自分自身のことをよく理解していて、それを踏まえて要領よく生きていることに驚いていた。


 すっかり暗くなった窓の外を眺めながら、静のことを思いうかべる。


 彼は日本全国、好きに飛び回っていた。好きなところで仕事をし、好きな時期にそれをやめてまた別のところへ行った。

 仕事と仕事の合間に、彼は必ず洸太に会いに来た。

 近くの喫茶店でコーヒーを飲み、それからまた新しい場所に旅立っていった。


 自分は静にとって何だったのだろう。


 頭の奥から、ゆっくりともやが広がっていく。体が重く、動かせない。


「……なんだか眠い。お前、薬盛ったか」

「まさかぁ。単純にお疲れなんでしょう。いいですよ、少し休んでてください」

 洸太はそのままシートに深くもたれかかった。

 疲れのせいか、なんだか生き物の膝の上にいるような妙な温かさを感じた。



 車は夜道を走る。

 後部座席で目を閉じながら、浮かんでは消える思案をそのままにさせた。

 彷徨い出た静は今どこにいるのだろうか――出ていって、何をするつもりなのだろうか――久しぶりに見た祖母の影――ずぶ濡れの笠寺の背中――。


 ふわふわと思考の海を漂う洸太の耳に、車のエンジン音やウィンカーの軽快な音が届く。それらは妙に柔らかに、心地よく鼓膜を震わせた。


――どこまで行っても、最後には決まった場所に帰る。そういうのが丁度いいんです――


 静もそうであったらいい。


 旅の合間のとまり木として、自分を選んでくれていたのなら、きっと自分は救われる。

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