9.6
あれ以降、いなさとの打ち合わせには吹上だけが出席し、たまにオンライン会議に俺が呼ばれることはあっても、炉火に会うことはなかった。
いなさのイベントのPRはそこそこに成功し、いなさからはぜひ次も頼みたいと言われたことを吹上から聞かされた。次のお礼訪問で、ひとまず案件としては最後の打ち合わせになるらしい。
その晩、家に持ち帰っていた仕事の書類を整理しようとレターケースを漁った。
いなさの仕事の書類がいくつがある。案件が終了するなら、会社に持って行ってシュレッダーにでもかけるべきだろう。
その中から、しわくちゃの原稿用紙が一枚出てきた。一人暮らしを始めるとき、捨てるに捨てられなかったものだ。事務所で炉火と会ったあの日、読み返してここにしまっていた。
『……このように、昼の月は太陽光や大気に隠され非常に気づかれにくい。そこにあるのに無いとされるもの、存在するが隠されたものである。作者はそれらを〈秘めた思い〉あるいは〈隠された思い〉に重ねた。それによって思い煩わされることを病めると表現したと私は考える。……』
かつて丸田先生に提出した、現代文の宿題だ。
――同じ月なのに、昼ってだけでなんでこんなに分かりづらいんだろうな。
俺は部屋の隅にあった望遠鏡の、埃まみれのカバーを取った。あまりの放置っぷりに、舞った埃でくしゃみが出る。
鏡筒を窓の外に向け、接眼レンズを覗きながらピントを合わせる。澄んだ黒色の夜の中で、切って貼ったような月がくっきりと見えた。美しかった。クレーターをじっくり見たのは、大学ぶりだった。
机に戻り、あの作文を二回読み返す。それからペンを取って、〈秘めた思い〉の横に、小さく〈おまえをあいしてる〉と書き添えた。適当な封筒に入れて封をする。少し迷って裏に炉火の名前を記す。それを翌日、打ち合わせで渡してもらうように吹上に託した。吹上は嫌な顔ひとつせずに了承した。
手紙の返事はなかった。それでいいと思った。
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