9.4
その男の髪や顔、アクセサリーの一つ一つを認識するよりも前に、
炉火だ、
そう思った。
六年前とは服装も髪型も何もかも違う。だが、紛うことなく〈炉火〉という存在そのものだった。俺の視線に気づいた炉火が、こっちを見て、足を止めた。
いなさの声も、吹上も、同期の彼女の声も消え失せた。ただそこには炉火とそれ以外の二つの世界があった。動かしがたい何かが俺たちをその場に留まらせている。互いの目を見つめ合う。炉火は薄く口を開いて何かを言おうとしていた。俺にはそれが、誰にも聞こえない声で俺の名を呼んでいるように見えた。
「炉火」
俺は六年ぶりにその名前を口にした。初めて口にしたときと同じように、どこかで引っかかる感じがあった。
ふたりきりの時間を、いなさの素っ頓狂な声が引き裂く。
「あーれー?!ひょっとして炉火、その子と知り合い?!」
いなさはうきうきと目を輝かせ、炉火の方を見た。炉火はバツの悪そうな顔をしていた。
「……高校の同級生、」
その声は六年前とまるで変わっていなかった。
「まーじかー!そんなことあるんだなぁ。お前の友達って見たことないから新鮮。あっ、じゃあ会議の後ちょっと出てく?向こうのカフェで話でもしたら?」
「お!春岡、そういうことなら遠慮せずに旧交温めてこいよ。会議終わったらちょうど昼休みぐらいだろうし!」
戸惑う俺をよそに、彼らは満面の笑みで〈俺たちもこの後どっかいくんで!〉と無言で語りかけている。同期の彼女は笑顔の下に、早く会議を始めてくれ、と言う文句をうっすらと滲ませていた。混沌とした空気だった。
結局、打ち合わせが終わったあと、吹上たちに半ば強制される形で炉火と近くの店に行くことになった。
最近できたらしいカフェは落ち着いた印象で、高い天井にシーリングファンがゆらゆらと回転していた。そこかしこに飾ってあるグリーンが、秋の爽やかな光を反射して鮮やかに輝いている。
運ばれてきたコーヒーを一口飲むまで、俺たちは無言だった。
「……久しぶり。」
先に口を開いたのは炉火の方だ。
「……六年ぶりか。炉火、元気だったか、」
「そこそこ。拓海は、」
「まぁ、俺も見ての通り。」
それだけいうとまた、二人でコーヒーカップの取手をつまんで黙った。カップを持つ炉火の左手には、歪な模様が描かれている。火傷の痕だろう。あのときは左腕を焼いたという記憶しかなかったが、その痕は首筋や左顎にかけても僅かに残っていた。
話したいことは山ほどあった。だがそのいずれも、六年ぶりの会話の出だしには不向きだった。俺は考えあぐねいた末、漠然と訪ねた。
「……炉火は今までどうしてたんだ。」
「つい最近まで金沢にいた。」
「金沢、」
また遠いところにいたものだ。
「……丸田先生の勧めで、金沢にある大学の文学部に行ったんだ。先生の恩師がそこに務めてるからって。……美大はやめたよ。」
「そうか、」
「いいところだった。街も人も文化もいい。大きな美術館もある。丸田先生の好きな詩人の記念館もあった。俺は結構、現代詩が好きみたいだ。」
「丸田先生は、」
「元気にしてるよ。今もたまに手紙をやりとりしてる。まだあの学校で教鞭をとってるってさ。拓海、他の奴らとはまだ会ってるか、」
「いや、卒業してからはあまり会ってない。まぁおおかた、元気なんじゃないか」
実を言うと一度だけ、成人式の日に瑞希に会っていた。他の女子よりも化粧っ気はなかったが、化学を学びながら、今もまだ陸上を続けていると言っていた。成人式のあとは陸上部の同期同士で飲みに行き、そこで瑞希から合コンにも誘われた。俺は断った。彼女はすっかり炉火のことを忘れているように見えた。それがあまりにも非情に思えて、それ以降は会っていない。
大治に至っては、その半年後にブルーフィルムで鉢合わせてしまったので余計に言えない。ただ、彼とはそれ以降、年に数回の頻度で定期的に連絡を取っていた。一度だけだが寝たこともあった。今は随分年上の男と一緒に暮らしているらしい。
だが、それは炉火には関係のないことだ。
話が途切れるとふたり、目を合わさないようにしながらまたコーヒーに口をつける。頼んだホットサンドがやってくるまで、俺たちは再び沈黙した。
やがて食事が運ばれ、それを食べ終える間、俺は次に何を聞くべきか迷っていた。当たり障りのないことがいいと思った。踏み込んだ話を聞けば、過去に追いやった感情が溢れ出るだろう。洒落たBGMが虚しく耳を通り過ぎていく。
「……お兄さんの会社を手伝ってるのか」
「ああ。事務屋としてな。就活にも失敗して、泣く泣く、さ。」
彼は自嘲的な笑みをたたえながらカップを取り、ソファに身を預けた。
「笑えるだろ。あんなに兄貴のこと嫌いだったのに、俺にはそれ以外できることが何にもなかった。何かになりたくって色々遠いところに行ってみたのに、結局どこにもいけない気がしてるよ。拓海はすごいよな。広告代理店だって?兄貴のイベントを手伝うんだろ、」
「大きな会社じゃない。……それに俺だって、何かになったわけじゃない。器用な分、何者にもなれなかった。ただのそのへんにいる会社員だ、」
それは炉火への慰めのつもりで言ったことだったが、俺自身の本当の姿だとも思った。俺は何者でもなかった。ただ目的もなく、実感もなく、漂うように生きているだけだった。
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