6.5


「……なんで、」

 聞いた途端、疲れ果てたように、炉火は俺の胸に額をのせた。

「ここなら、誰も俺のことを知らない。学校もない。予備校もない。家族も……瑞希もいない。」

「……、」

 俺はどうするべきか迷って、炉火の髪に触れた。そのまま、すっと撫でてやる。彼は素直にそれを受け入れた。


「白川とはどうなんだ、」

「うまくいってないよ。」

 それを聞いて、一瞬安堵した。その安堵した俺を、正気の俺で殴りつけてやりたいくらいには、卑怯な感情だと思った。それを誤魔化すように、彼をなで続ける。

「ふとしたときに……本当に何でもない、待ち合わせでお互いの顔を見た瞬間とか、ふたりきりで部屋にいるときに、瑞希が好きなのは俺じゃない、って思ったりする。」


 俺は教室で瑞希と話したことを思い出していた。彼女は炉火とどこに行こうか、何を贈ろうか、楽しそうに話していた。少なくとも俺にはそう見えた。

「あいつに、他に好きなやつがいるとは思えない、」

「わかってるよ。でも……他のやつを好きじゃないことが、俺を好きだってことにはならないだろう。そんな、」

 体全体で、俺にしなだれかかる。

「そんな消去法みたいなのじゃ、好きだ、って言わない」

 炉火の声はほんの少し震えていた。震えるたび、俺の胸元に熱い息がかかる。その息が、俺の心臓から全身に送られていく。


「なんでだろうな。なんでこんなに、何もかもがうまくいかないんだろうな。何か一つうまくいかなくても、別の何かがあれば、救われると思ったのに。」

「俺は、」

 彼の背に腕を回しながら、恐る恐る聞く。

「役に立っているか。少しは、お前の……」

 救いになっているか、とは聞けなかった。そうでないことは、明らかだったから。

「どうだかな、」

 炉火は少し笑った。寂しそうな笑いだった。だがそれは、少なくとも瑞希や美術の話をするときよりも、穏やかだった。


「なんで、お前を連れてきたんだろうな」


 名前のない関係。

 大治の声が、出口を失って頭の中をめぐり続ける。


 しばらく沈黙したあと、炉火は俺の胸元から離れ、電気を消した。部屋には一瞬、深海のような闇が訪れた。闇の中で、彼が急に俺の手を引く。俺はそのまま、布団の上に押し倒された。


「お前が、聞くから、」

「え?」

「お前が何でも、言うことを聞くから、連れてきたのかな」


 炉火の唇が触れる。冷たい言葉に反して、甘い口づけだった。それはいつもの服従の確認と、どこかが違った。体中が痺れていく。いつもより少しだけ長く口づけたあと、炉火は唇を離した。

 目を開ける。俺に覆いかぶさる炉火の、苦しみで濡れた瞳が目の前にあった。俺の頬に、彼の涙がぽたりと落ちる。


「なぁ、拓海はなんでついてきたんだよ。俺の言うことなんて聞くなよ。どうせついてきたって、俺に傷つけられるだけだろ、」


 炉火は突き放すようにそういった。涙で声を震わせながら。

 彼は虚勢を張っている。本当は、ついてきてくれて嬉しいと言おうとしたはずだ。そう思った瞬間、体の芯が引っ掻かれた心地がした。それは切り傷のような熱い痛みだった。


 俺は炉火を強く抱き寄せた。それが許されるのは今晩だけのような気がした。強がりの彼が弱みを見せた、今夜だけが。

 髪をなで、額にキスをし、その背筋を指先で優しくなぞる。

 体中に彼の温もりを感じる。触れた部分から、痛みが溶けて消えていく。

 その晩、それ以上のことはしなかった。

 ただ、幼子のように俺に体を預ける彼の姿は、ほかの何よりも――おそらく裸を見せ合うことよりも、俺にとって意味があることだったと思った。


「……今夜のことは忘れろよ、」

 眠りに落ちる直前、彼が小さく囁いた。


 明日になったら、彼は本当に全て忘れてしまうつもりなのかもしれない。

 閉じた瞼の奥で、俺は家でも学校でもあの店でもなく、炉火の隣が本当の居場所なのだと思った。この感覚を、忘れたくはなかった。

 大学生たちの笑い声に混じって、潮騒が聞こえる。

 やがて深い眠りの闇へと落ちていく。その日は覚醒と眠りの境が曖昧だった。いつから夢を見ていたのか、よくわからない。

 夢の中でもずっと、横たわる彼の背中を撫で続けていた。潮騒の音は、やがて花々が風に倒れるサラサラという音に変わっていく。俺たちは、一面の菜の花の、金色の海の中で横たわり、抱き合っていた。制服の白い襟がそよ風に揺れる。彼の顔に、苦しみはなかった。すべてを忘れ、眠っているようだった。



 翌朝、炉火はやはり何事もなかったかのように身繕いをすませ、帰路についた。あの魔法の切符は、往路のような胸騒ぎを、もう連れては来なかった。


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