君と出会ったのが運の尽き

真珠4999

1.

『給・料・泥・棒!』


 居酒屋の喧騒の中で、俺は上司の平田を真似て怒鳴った。隣で飲んでいる勝川は、頬杖をつきながら真顔でそれを見ている。二人とも、いい具合に酒が回っていた。

「……なぁんて言ってさ。何回目だっつーの。もう慣れたけど、」

 ため息混じりに言ったあと、俺はジョッキにほんの少し残っていたビールをすすった。後ろの座敷では学生の集団が飲んでいるらしく、ときおりビックリするほど大きな笑い声が聞こえてくる。

「慣れるとこじゃないだろ、そこぉ」

 勝川が、憐れむような目で俺を見た。目の下のほくろのところまで、真っ赤になっていた。


 新卒で入社した会社をパワハラで辞めた。その時さんざん勝川に泣きついて、ようやく再就職した次の会社もパワハラで辞職。今の会社は三つ目だった。三度目の正直さ、そう言っていた勝川も、さすがに三度目のパワハラには閉口している。


「もう駄目だ……俺きっと、パワハラ体質なんだよ……」

「ほらまたそういう……体質とかなんとか。植田のせいじゃないだろぉ。悪いのは相手なんだからさ、」

 勝川が優しく背中を叩いた。それからメニューをとって、俺の目の前に広げる。たくさんの飲み物が書かれているが、いつも何を頼めばいいのかわからない。結局、一番無難なビールを頼んでしまう。


 勝川もまた、ぐっとジョッキをあげて、ハイボールを飲み干した。それから、

「すいませーん!」

 後ろの団体にかき消されぬように声を張り上げる。狭い通路をぬって、小柄な女性店員がやってきた。ビールひとつと梅サワーひとつ、彼女は笑顔で注文をとると、足早に去っていった。


 この日の居酒屋は大にぎわいだった。四月の金曜、ということもあるのだろう。どこも新入生や新入社員の歓迎会をやっているようで、皆一様に大声を出して笑っている。店員はそこらじゅうを忙しく歩きまわり、大量の皿やジョッキを曲芸師みたいに持って、俺たちの後ろをいったり来たりしていく。そんな彼らもまた、若い学生のようだった。


 俺は勝川に話しかけようとして、ふと、その向こうで別の客の注文をとっている男の店員に目がいった。思わずハッとした。

 その店員が去ったのを見て、勝川に囁く。

「……なぁ、今の店員、見た?あれ…。芸能人の……あれに似てる」

「えぇ?」

勝川が体を後ろにひねって、さっきの店員を目で追いかける。

「あぁ~あれでしょ。確かに、うちの奥さんが好きな俳優のあれに雰囲気は似てる。なんだっけ、名前……」

「あれだろ……えぇと、」

 酒のせいか歳のせいか、俺たちはとうとうその名前が思い出せなかった。そうしている間に、そのあれに似た彼のすらりとした背が角に消えていった。長い手足に、小さい顔。こういうのをモデル体型というのだろう。

「俺もあんな風に生まれてたら、苦労なんてしないんだろうなぁ」

 勝川はそれを聞いて吹き出し、なんだそれ、と言った。彼のグラスに残った氷が、カランと音をたてた。


 しばらくして酒を運んできたのは、さっきのあれに似た綺麗な店員だった。

「お待たせしましたぁ、ビールの方……」

 あぁこっちです、そういって右手をあげる俺の前に、彼の白い腕が延びる。俺は理由もなく緊張しながら、彼の腕や節っぽい指を眺めた。彼はそのまま続けて隣の勝川の梅サワーを置こうと、身を乗り出した。彼の胸元が、目の前にくる。名札には、手書きで『笑顔がじまん! まこと』と書いてあった。

 そうして半ば見とれるようにしていた次の瞬間、


 ゴトン、という鈍い音。と同時に、黒くなっていく、テーブル。一面、醤油の海。

 三人揃って、「あ、」と言った。


 手前にあった醤油ビンを、彼が倒したのだ。机からこぼれ落ちていく醤油は、俺のシャツとスラックスに芸術的なシミを作っていた。

「……たっ………大変申し訳ありませんっ!」

 ひきつった声。こっちが心配になるくらいの狼狽ぶりだ。すぐにタオルをお持ちします、と言うと、彼はキッチンにかけ戻っていった。その途中で他の店員にぶつかり、皿の割れる音が店じゅうに響いた。

 俺と勝川の座るカウンターの向こうで、男性店員が舌打ちをして「何回目だよ」と言っているのを俺は聞いた。俺はさっき、美人に生まれたら苦労しないと言ったことを心の中で詫びた。


 しばらくして、彼は舌打ちした男とともにあらわれ、俺に何度も頭を下げた。舌打ち男は店長だったようで、クリーニング代の名目でいくらか俺に渡すと、彼の背に手を当ててまたペコペコとお辞儀をした。


 帰り道、桜混じりの夜風を受けながら、俺は彼のことを考えていた。この一件で、彼はきっと店長に叱られているだろう。店長の口ぶりからすると、一度や二度ではなさそうだ。店内での立場も危ういかもしれない。

 俺は初対面の彼に、自分の職場での経験を重ねた。会社で上司に怒られているときの、周りの冷たい目。そんな時、誰かが、ほんの一言でもかけてくれたなら。せめて一人になったときに、きみ大変だったね、の一言でもあったなら。

 勝川は、そんなに気になるならもう一度行ってみたら、と言った。それから、あれの名前を奥さんに聞いておくよ、と。


 俺は翌週、一人で同じ居酒屋に出かけた。相変わらず騒がしい店内で、せわしなく動く彼の姿があった。彼は俺と目が合うと、遠慮がちに微笑んだあと、また忙しく動き始めた。

 あのあと勝川からは、彼に似た俳優の名前を思い出したと連絡があった。その名前を見てあぁ、と思ったものの、今目の前で働く彼は、もう違う人物に見えた。そそっかしくて危なっかしい、まこと、という名前の青年。


 ビールを二杯飲んだあと、思いきって彼を呼び止めた。

「あの……この間は、クリーニング代ありがとう」

 そう言うと、彼は困ったような笑顔を浮かべたが、なにも言わなかった。俺は慌てて続けた。

「あのあと、大丈夫だった?」

 彼が一瞬、目を丸くする。

「あと、って」

「店長にしかられたりとか……」

「はは、そりゃ、まぁ……」

 苦笑いすら美しい。ただ、俺も彼の反応を見ながら、これは早めに切り上げた方がいいなと感じた。正直あまり、歓迎されていないようだ。

「俺もさ、よく職場で、怒鳴られるんだよね。だからその……俺は気にしてないから。仕事、頑張ってね」

 呼び止めてごめんね、と付け加えて、俺は彼を帰した。


――彼は困惑していた。失敗だったろうか。言わない方がよかったんじゃないか。――いや、これでよかったのだ。言わなかった方が、後々嫌な思いをすることになるに違いない。自分で自分を納得させながら、残っていただし巻き玉子をつついた。


 会計をしようと手を挙げると、やってきた眼鏡の店員を途中で遮って、彼が俺のテーブルに向かってきた。

「あの……さっきはありがとうございました」

「あ、うん……また来るよ」

「僕、ここ辞めるんです」

「……、」

 その時彼が浮かべた、悲しげな笑顔を見た瞬間、俺はなぜか、「じゃあ」と言って彼の連絡先を聞いていた。

 今振り返っても本当に説明がつかない。それでも確かにその時、彼にまた会いたいと思ったのだ。

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