第112話 銀薔薇の棘には毒がある ⑸

「決行の日取りは追ってお伝えします」

 イェレミーアスと見つめ合ったまま、宣言する。しばらくは忙しくなりそうだ。

「できればそれまでの間にフリュクレフ解放戦線の方と一度お会いできれば、と思っていますがこればかりは何とも言えません」

「毒草の判断はリトホルムにも頼めるからな。そういうことだろう? スヴェン」

「ええ。彼らを巻き込めれば良いに越したことはないのですが、彼らの協力がないならないでどうにでもなります」

 こちらに一切の非はない。ぼくは反乱軍に関わっていないし、むしろジークフリードや皇王に協力している忠臣である。

 と、いう体を示せるできるだけの手を打っておきたかったが、不発に終わるならそれはそれだ。青い顔のまま俯くヨゼフィーネを広角で視界に収めつつ、シーヴへ顔を向ける。

「クリストフェル・フリュクレフがイレーネおばあ様を殺した証拠を探すのは難しいでしょう。けれど、クリストフェル・フリュクレフが他の貴族令嬢を殺した証拠がある。ですので、ぼくはフェルテン・ミレッカーの罪を暴くためにクリストフェル・フリュクレフの罪も暴きます。クリストフェルが許されることはないでしょう。公爵位の剥奪も有り得ます」

 皇后の姉を殺したのだ。立場の弱いフリュクレフ家を庇う者もいない。貴族籍剥奪の上、平民落ちが相応だろう。

 というか、ぼくはそうするように皇王へ進言する。フリュクレフ王家の血を、できるだけ薄めるつもりだ。

「……分かったわ」

 シーヴが首を縦に振った。彼女にとっても、フリュクレフ公爵家とは存続に値しない程度のものなのだろう。その評価は真っ当だ。残ったとしても、フリュクレフ公爵家を取り巻く問題は厳しいことに変わりない。

「シェーファー公。悔しいでしょうが、まずはミレッカーを断罪の場へ引き摺り出す必要があります。協力して、いただけますでしょうか」

 シェーファーの息子は現時点では、身分的に平民だ。皇王を動かすには弱い。

 憂鬱だが、事実だ。だからこのままにしておけば、第二第三のミレッカーが生まれるだろう。

 この事件をきっかけに、この国の法を変える必要がある。ゆくゆくはこの国の皇族を祭主として象徴とし、民主主義国家にするようジークフリードを唆すつもりだ。

 ああそうだ。ぼくはこの世界が嫌いだ。特定の誰か、ではなく。理不尽が蔓延する、この世界自体が。弱ければ死ぬしかない、この世界が。綺麗事すら口にできない、この世界が。

 ぼくは本心を隠し、しおらしい表情を作って見せた。

「……よろしくお願いします、スタンレイ公子」

「ギーナ様。ぼくにこの件と証拠を、預からせていただけますでしょうか」

「……うん。家族の仇を、取れるなら。きみに任せるよ、スヴェン」

 初めて会った時より、幾分落ち着いた雰囲気のギーナへ微笑んで見せる。それでも彼は、長い潜伏生活で心も体も疲弊している。

「エリーザおばあ様。イレーネおばあ様殺害を、認めさせるのは難しいかも知れません。けれどクリストフェル・フリュクレフの罪を暴くための大切な証拠は、イレーネおばあ様がぼくらへ託してくださったのです。今しばらく、ぼくにお力をお貸しいただけますか」

「……スヴァンテちゃん……、あなたにばかり、背負わせてごめんなさい……」

 エリーザの震える声には真摯な謝罪が籠っている。それは幼子を守ることすら難しいこの国を、そのように形作って来た貴族であるという自覚なのだろう。

 綺麗事がいい。綺麗事でいい。幼子に美しいものを説き聞かせることすらバカバカしいだなんて、間違っている。理不尽を笠に己の欲望のままに振る舞う人間ばかりが目に付く、この世界がぼくは嫌いだ。

 けれど。

 ぼくは小心者で卑屈だから。関わってしまった人たちを、人となりを知ってしまった人間までも、嫌うことなどできない。

「いいえ、エリーザおばあ様。ここにお呼びした皆様は、ぼくがミレッカーを断罪するに当たって大なり小なり影響を受ける方々です。ですので、先にお詫びをさせてください。人によっては身内の恥も含みます。けれどこれ以上、ミレッカーを野放しにすれば、悲しむ人が増えるばかりです。どうか」

 どうか、ぼくにお力を貸してください。

 頭を下げて、本音を隠す。どうか。どうかぼくが非道を行うことへの許可を。

 ぼくに大義名分をください。

「けれどぼくを許さなくてもよろしいのです。皆様はぼくを恨んでも憎んでもいい。その自由を、お約束いたします」

 言い終わるか終わらないかのうちに、抱き竦められた。

「誰が君を憎むものか」

 君は全てを知ったとしても、そう言ってくれるだろうか。ぼくは卑怯者だから、何度でも予防線を張る。何度でも、ぼくを許すなと先に宣う。

 そうすれば、ぼくの行いを知った時、勝手に葛藤してくれるからだ。己の狡猾さに嫌気が差す。

 軽く瞼を閉じ、微かに吐息を吐く。迷うな。覚悟はとうに決めたはず。

 上体を捻り、イェレミーアスの胸へ頬を寄せる。強い鼓動と、仄かな熱を聞く。

「ありがとう、イェレ兄さま」

 ぼくはただ、早く平穏を取り戻したいだけだ。フレートと、ベッテと、ラルクと、ほんの少しのぼくにとって大切な人たちとの誰にも邪魔されない生活。ジークフリードとローデリヒが時々、遊びに来てくれればいい。

 君はいつかここを出て行くだろう。ぼくを恨んで憎むかも知れない。ぼくの傍に居るよりも、離れた方が安全だろう。聡明な君なら、然るべき地位に戻せば時を待たずして己で己の身を守れるようになる。

 そうしたらぼくは、のらりくらりと余生を過ごすのだ。ルクレーシャスさんと、のんびりと。

「君はそうやってすぐに、私を手放そうとする」

 流し込まれた囁きを、ぼくは聞こえなかったふりをした。小さな手をぱちん、と合わせる。

「さ、それまでは皆様、各々自由にお過ごしください。もし、危険を感じたら即座にこのタウンハウスへ逃げ込むこと。ここより安全な場所はありませんので」

 一応、全員守るように妖精たちへお願いしてある。心配はないだろう。

「ジーク様、ギーナ様と遊んでさしあげてください。ぼくは少し、書類を片付けてから合流しますので」

「うむ。では行こうか、ギーナ」

「はいっ、殿下……っ」

 きらきらと瞳を輝かせて顔を上げたギーナは、ジークフリードと目が合うと頬を染めて俯いた。

 ほう? ほほう? ほほほほおおおう?

「……ご滞在中は、ジーク様にできるだけギーナ様のお相手をしていただくとしましょうか……」

「爵位を取り戻すと約束してくれたのが嬉しかったようだね。ギーナは殿下に恩義を感じているようだよ」

 それでもぼくが幾度もギーナの様子を見てくれと頼んだからか、そんな話を聞く程度には仲良くしていたようだ。知らなかった。

 抱え上げられ、高くなった視界の先で銘々に散らばってコモンルームを後にする背中を眺める。ヨゼフィーネがベアトリクスに気遣われながら心ここにあらず、という素振りで階段を上がって行く。

 ハンスとラルクがぼくらの後ろへ付き従う。廊下をゆったりと歩みながら、ピンクブロンドの長い睫毛が陽光を弾いて煌めくのをぼんやりと視野へ収める。

「――ヴァン。君はいつ、知った?」

 降って来た言葉に美しい横顔へ目を落とす。

 ジークフリードとローデリヒが互いに肩をつつきながら、ギーナを挟んで歩いて行く。離れへ行くのだろう。均整の取れた、しかしまだ生馴れの体がくるりと踵を翻した。角を曲がったジークフリード、ローデリヒ、ギーナの姿をイェレミーアスの肩越しに見る。床へ下ろされ、跪かれ、視線を合わせられる。真っ直ぐにぼくを見た、大好きな勿忘草色の瞳はどこまでも澄んでいて。

 ああ。

 ああ、イェレミーアス。ぼくは君に、正しくあってほしいと願ったのに。

「去年の、初霜月の中頃には。冬木立の月の初めには、――ぼくはあの人を、死んだ方がいいと」

 ――あなたのため、ではなく。ぼくが、あの人を生かしておきたくなかった。

 そう、思ってしまったので。

「そうか」

 あなたは。

 あなたはいつ、知りましたか。

 どこまで、何を。

 鍵を隠したのは誰なのか。

 鍵の紛失に気付きながら、追及せずにいたのは何故なのか。鍵を紛失した直後にライムントの世話をしていたメイドを解雇したのは何故か。ビルギットの言葉にあれほど反応したのは何故か。どうして自分の容姿が嫌いなのか。

 ぼくの嘘に気付いたのなら。ぼくが、あなたの隠し事に気付いたことも分かっているだろう。

 あなたは。

 尊敬する父の子ではないと、疑念を抱いたあなたの絶望はどれほどだったろうか。鍵の紛失で確信してしまったあなたは、どれほど苦しんだろうか。

 ただでさえ、父を喪ったばかりだったというのに。たった十一歳の子供が、それら全てを飲み込んだ懊悩おうのうはいかばかりだったろう。

 助けたい気持ちは本当だ。けれど、そのために知ってはいけないことを知り過ぎてしまった。だからぼくらは、離れている方がいい。ぼくは君を助けるが、君にとってぼくはきっと、忘れたい事柄を思い出させる棘になる。いつまでも治らない、瘡蓋のように。治る手前に痒くなって、何度も掻き毟って、再び血を流し傷跡はさらに深くなる。

 あなたを、自由にしてあげたかったのに。

 今、声にしたらきっと掠れてしまうだろう。だからぼくは、黙って手を動かした。

 のろのろと腕を上げる。指先が彼を求めて彷徨う。イェレミーアスの小指へ触れた途端、何もかもがはらりと崩れて解ける気がした。ぼくからその手を取ったのは久しぶりだ。老木が森の奥でひっそりと倒れるように静かで厳かな動きをし両膝を地面へ付け、ぼくを仰いだイェレミーアスの指を、誘うように引いた。

 静かに立ち上がった勿忘草色が吐き出す。

「ヴァン」

「はい」

「ありがとう」

 お礼なんて言わないで。ぼくはただ、あなたの傷ついた顔を見るのも、何でもないフリをする顔を見るのも、嫌だっただけだ。

 手を繋いで、彼を先導するように歩き出す。

 あのね、イェレ兄さま。ぼくの父も、世間に公表されている人物では、ないのですよ。

「……そうか。けれどヴァン。君が君であることに、変わりはない」

 すぐそこにある傷一つ、染み一つない完璧な造形の横顔を思い描く。長い指、マメのできた手のひら。

 ひとつも瑕瑾かきんのない彼の、唯一人らしい感触を確かめる。彼の真実は、彼の思いは、見えない場所にぎゅっと押し込められている。初めて言葉を交わした時より少し大きくなったその手を、ぎゅっと握った。

 ぼくは君が、ここを巣立つことを願っていたのに。聡い君はいつだってぼくの思う通りにはなってくれない。

 冬の陽射しはどこまでも澄んで白く、肺の奥まで冷たく晒す。隠し事が多いぼくらの、罪悪感まで暴いて照らす。

 ああ。ぼくらは。

 ぼくらは今、本当に。

「これでぼくらは、共犯ですね」

 彼の勿忘草色の虹彩は縁が微かにピンクがかっている。ぼくの大好きなその虹彩が、今まで見たどの笑みよりも美しく撓った。

「ああ。そうだな」

 どこまでも美しい、その横顔をぼくはただ、静かに見ていた。

「あなたは手放す準備ばかりをなさる」

 突然、ハンスの言葉がぼくの背中を打った。驚いて振り返ると、ハンスは唇を噛んでぼくを見つめている。その横でラルクが渋い顔をしていた。

「だってね、手放したくないからってなんでもかんでも抱え込んでも結局抱えきれなくなって共倒れになってしまうのは、本末転倒でしょう?」

 ぼくの答えに、ハンスとイェレミーアスが同時に反応した。

「離れるくらいなら、共倒れになりたい、と言ったら君は困った顔をするんだろうね。ヴァン」

「共に倒れ伏したとしても、本望です」

「……」

 異口同音。どうしてぼくの周りには、ぼくのために死にたがる人間ばかりなのか。

 横を向き、ため息を吐く。ぼくが口を開く前に、ラルクが二人を叱りつけた。

「アスさんとハンスはそれで満足だろうけど、スヴェンはそんなこと望んでないっていい加減分かれよ」

「……ラルク」

「おう」

 その答えは、「乳兄弟」の答えだ。イェレミーアスの手を放し、ラルクへ抱きつく。

「ラルクが一番、ぼくのことを分かってくれてる。ね?」

「当たり前だろ。オレはお兄ちゃんだぞ」

 離宮で過ごしていた頃のように、ラルクの手がぼくの頭を撫でた。大らかなお日様の匂いだ。

「ラルク大好き。ずうっと傍にいてね」

「……うん」

 女王には、ぼくにとってのラルクのような人は傍に居ただろうか。望まぬ忠誠はまるで棘のようだ。

 いや。

 彼らにとって、ぼくが棘なのだろう。毒を持った、棘のある花だと初めから分かっているから。踏み込んだ時点で、彼らは死を覚悟しているのかも知れない。

 周囲を死へ招く血なのだとしたら、やはりそんなものは絶えた方がいい。

「こんなのは、ぼくの代で終わらせなくちゃね」

 呟くと、ラルクは僅かに眉を顰めた。

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