第108話 銀薔薇の棘には毒がある ⑴

 それは誕生日を祝うお茶会を数日後に控えた、厳しい皇国の冬でも最も雪の降った翌日。現代日本でいう三月に当たる花冷月の初旬、体の芯まで凍てつくような冬の日であった。

「スタンレイ公子!」

 ぼくの行く手を遮り、立ちはだかった男をゆるりと仰ぐ。身長に反して細い肩が激しく上下するのを茫洋と眺める。ステッキに添えられた両手が、衝動をどうにか抑えている、と告げていた。

「ご説明願いたい。スタンレイ、公子」

 シュテールナ歌劇団のホール。新しく書き換えた脚本の確認に訪れたぼくを捕まえ、メスナー伯爵は酷く急いた様子だった。

「……こちらへどうぞ」

 支配人室のさらに奥、地味だが質の良い調度品でしつらえた部屋へ招く。扉が閉まったのを背中で確認し、メスナー伯爵は低く吐き出した。

「ご説明願いたい、スタンレイ公子。何故、弟の元へライムント様のご遺体を運んだのです!」

「何故、とおっしゃるのですか? メスナー伯爵」

「……っ」

 シェルケはライムントの遺体を切り刻み、野へ捨て獣に食い荒らされるままにしたと、報告を受けている。激情のまま怒りと恨みで死者を冒涜した後、兄であるメスナーへ意気揚々と母の仇を討ったとでも報告したのだろう。

 シェルケがミレッカーと劇場で喧嘩をしていたのは一月に当たる神渡り月の下旬。今は三月に当たる花冷月の初旬だ。シェルケ領までは三週間ほどかかるから、シェルケがこちらに来たとは考えにくい。となれば、手紙が来たのだと考えるのが妥当だ。

 貴族の中でも裕福な家では、手紙を転送できる魔法陣を刻んだ石板を持っている。風花の儀式で使った魔法陣のように、相手の持つ魔法陣の座標を入れれば手紙を一瞬でやり取りできるのだ。大変高価なものだが、メスナーとシェルケにもあるのだろう。

 当然、うちにもある。情報は金に換え難く、命をも救うからだ。実は開発者にコネがある、というのも大きい。

 この世界に流通している魔法器具の八割がルクレーシャスさんの開発したものであり、メンテナンスも一貫して請け負っている。ルクレーシャスさんは一生働かずに暮らせるだけの資産があるのだ。現代でいうところの、特許をいくつも持っているようなものである。羨ましい。ぼくも働かずにお賃金欲しい。

 脳内でふざけながら、目の前の男へ意識を戻す。

 立ったままのメスナー伯爵へ顎を上げ見つめ、ソファで足を組む。想定していなかった筋からの抗議ではあるが、予想が確信に変わった。

「メスナー伯爵、ぼくからもお尋ねしたい。何故、ライムント・ラウシェンバッハの遺体を運んではいけないのです? シェルケ伯爵はラウシェンバッハ家への復讐のために、ミレッカーと謀を企てたほどライムント・ラウシェンバッハを憎んでおられるのに」

「――っ、それは、誤解だ……!」

 体側で握り締められたメスナーの拳を目路に入れながら、膝の上で手を組む。

「その誤解とは、ぼくの? それとも、シェルケ伯爵の誤解ですか? 真実を知らぬのは、誤解とは呼ばないのですよ、メスナー伯爵」

「……君は、どこまで知っているんだ……」

 テーブルへ置かれたキャンディポットから、スミレの砂糖漬けを取り出して妖精たちへ振る舞う。ぼくは少し、顔を傾けて本棚に並んだ本の背表紙を眺めた。

 ――どこまで。

 今、ここで答えてもいい。だがせっかく小細工を施したというのに、下手に動かれても困る。だからぼくはメスナーから顔を背けたまま、大きく息を吐いた。

 己の顎を掴むように口を手で覆って、上唇へ指を添えた。ソファの前へ置かれた大理石マーブルのテーブルへ目を落とす。その模様に似て、ぼんやりと混ざり合った真実と嘘を注意深く解きほぐす。

「あなたもぼくへ憤っておられるが、ぼくもあなたに憤りを感じているのです。……いいえ。憤りと呼ぶには酷薄なこの感情は、侮蔑ともいえるでしょう」

 ふう、と一つ吐き出して真正面からメスナーの深いグリーンの瞳を見やる。

「シェルケ伯爵のラウシェンバッハへの怒りが不当なものだと知っていながら、よくもイェレミーアスの前へ顔を出せたものですね」

「――っ、それは……っ」

 ステッキを掴んだ手が震えているのを視界に収め、言い訳を待つ。ステッキの先を見つめたまま、メスナーは俯いている。ぼくはわざと大きくため息を吐いた。

「……ぼくが全て言わなくてはなりませんか。そもそもライムント・ラウシェンバッハへ前メスナー伯爵夫人、つまりあなた方のお母様を宛てがったのは夫である前メスナー伯爵でしょう。だから本来ならばメスナー伯爵家はライムント・ラウシェンバッハの処遇について口を出せる立場ではない」

「っ、なぜ、それを……」

「……前ミレッカー宮中伯から、娼婦を買っていたんでしょうね。その代金が払えず借金を抱え、そしてミレッカーから入れ知恵された。ライムントはともかく、ディートハルト様は義理堅い方だ。ライムントが夫人へ手を出したのなら、謝罪として金を払うだろう、と」

 ぼくもリヒテンベルク子爵令嬢が託してくれたミレッカーの顧客の性癖録リストがなければ、気が付かなかっただろう。前メスナー伯爵、ディルク・メスナーの名前がそこにはあった。

「察したディートハルト様はミレッカーやあなたのお父上の思惑通りに多額の支援を申し出た。あなた方はディートハルト様に大恩があるというのにシェルケはディートハルト様を殺し、イェレミーアスをラウシェンバッハから追いやった。あなたはそれを、ただ黙殺している。まったく、この国の貴族は禄でもない大人ばかりでうんざりしますよ」

 メスナーは全てを知っていた。知っていて、弟に真実を話さずにいたのだ。そこには弟への配慮があったのかも知れないし、ディートハルトが話さずともよいと言ったのかも知れない。だが。

「一度も疑わなかったと言わせませんよ、ハルトヴィヒ・メスナー伯爵。あなたの弟が、ついに復讐を遂げたのだと。あなたはいつでも真実を伝えることができた」

 全てを理解した上で、手を差し伸べたばかりかミレッカーとは手を切れ、と助言したディートハルト。全てを知っていたのに、イェレミーアスを助ける素振りすら見せなかったメスナー。

 人は弱い。人の小さな手では、己の掴み取れる範囲のものしか守れない。ぼくだってそうだ。ぼくだってそうして今、まさに選んで行動している。だからぼくにメスナーを責める権利はない。けれど。

「夫人は言えなかったでしょうね。夫が娼婦を買った借金のカタに暴行されただなどと。思い悩んだ末、自死を選んだ。元より知れ渡っていたライムントの悪行がなければ、ディルク・メスナー伯爵も前ミレッカー宮中伯もそんな蛮行を思い付かなかったかも知れない。何よりライムントがご母堂を辱めたことは事実。しかし追い込んだのはディルク・メスナー伯爵であって、あなた方家族の問題だ」

 ソファから立ち上がって、扉へ歩み寄る。オーク材の扉へ施された彫刻を睨む。

「殺されなければならないほどの罪が、ディートハルト様にありましたか。家を追いやられ、身分を剥奪されるほどの罪が、イェレミーアスにありますか」

「……っ」

 メスナーは悪人ではないのかもしれない。しかしイェレミーアスに対する傍観の裏に、打算と保身がなかったとは思えない。それはまっとうな大人が子供に見せる態度とは言い難いだろう。

「ぼくは謝罪しません。だからあなたからの謝罪も必要ありませんよ。あなたも、シェルケ伯爵も、……誤解による行き違いだったとしても、己の罪を償わなければなりません」

 扉を開いて退室を促す。

「さようなら、ハルトヴィヒ・メスナー伯爵。見て見ぬふりは中立などではない。あなたは加害者だ。今度はあなたが、誤解などではなく恨まれる番でしょう」

 そうでなくてはならない。それを甘んじて受けなければならない。

「……バルドは悪くありません。悪いのは私です。ラウシェンバッハ公子にも……申し開きもありません……」

「一生、苛まれてください。一生、背負ってください。それでもディートハルト様はもう、生き返ることはないのですから」

 僅かに足を引き摺ったメスナーの背中を見送る。

 ディルク・メスナーの性癖録に書かれていたのは「暴力(加害)」。長男にすら暴力を加える男が、妻に暴行を働かなかったとは思えない。ライムントの件があろうとなかろうと、いずれ自死に至ったかも知れない。そんな兄弟をディートハルトは哀れに思ったのではないだろうか。

 ぼくはもう一度、メスナーのステッキとその僅かに引き摺って歩く踵を目路に入れ、扉を閉じた。

 支配人室で少し時間を潰してから、ホールへ出る。待ち構えていたハンスがこちらへ向かって来るのが見えた。

「イェレ兄さまをタウンハウスに置いて来てよかった……」

 イェレミーアスならば、状況から予想を付けるだろう。そこから真実へ辿り着いてしまう。聡い彼ならばいずれ自ら辿り着き知ることになるだろうが、事実を知るのは今でなくともよい。

「まさか、イェレ兄さまとレンくんが出がけにいつも通りケンカしたことを有り難いと思う日が来るとは……」

 そう。あまりに二人が頑固に言い合うので仕事に支障が出そうで、置いて来たのだ。当然イェレミーアスはぼくに付いて来ようとしていたけれど、今回ばかりは甘やかすのを止めた。

「まぁ。イェレミア様はレンナルト様と仲がよろしくございませんの?」

「ええ。何故か二人してぼくに膝枕をしてほしいと駄々を捏ねまして……」

「ン゛ン゛ッ。ひざ、まくら……あら……あら……」

「そうなんです。四歳と十一歳ですよ? イェレ兄さま、普段は過ぎるくらいに聞き訳がいいのにレンくんには絶対に譲らないんですよね……」

 答えてはた、と立ち止まる。声のした方へ顔を向ける。先日顔を合わせたばかりの少女を認めたが、驚きは隠せず横へ飛び退る。

「っ、エリノア様……っ!」

 びっっっくりしたぁ!

 胸を押さえて飛び出して行きそうな心臓の鼓動が治まるのを待つぼくの目の前を、見覚えのある妖精が横切る。少し考えて、ぼくは妖精たちへ頼みごとをした。

「スミレの砂糖漬けを持って来て」

 妖精たちは胸を打つと、くるくるぼくの周囲を飛んでから支配人室へ消えて行く。

「いらしていたのですね」

 どうにか気を取り直して、作り笑いを貼り付けることに成功した。エリノアも完璧な仮面で答える。その向こうへ影のように佇む侍女の元へ、妖精が戻って行くのを目路に入れた。

「ええ。シーヴ様と絵画を鑑賞して来ましたの」

「……、『母上』と……ですか。交流がおありになるのですね」

「ええ。うちの領地の中に、フリュクレフ公爵家があることはご存知でしょう? ですので昔から、何かと交流がございますのよ」

「チェルハ侯爵家は代々、フォーセル家から侍従や侍女を採用しているそうですね」

 ぼくの元へ辿り着き、背後へ静かに寄り添ったハンスへ両手を伸ばす。ハンスは無言でぼくを抱え上げ、背筋を伸ばした。

「ぼくの執事も二人とも、フォーセル家の出身なんですよ。ね、ハンス」

「はい。ハンス・フォーセルと申します」

 ハンスは腕に座るような格好になったぼくの足へ余った手も当て、きっちりと腰を折った。ハンスの首へ両手を回す。

「ゲルトルート、お身内の方かしら?」

「はい、再従弟はとこに当たります。久しぶりですね、ハンス。お父さまはお元気ですか」

 影のように控えていた侍女が口を開いた。相変わらず大きなメイドキャップで顔を隠すように俯いてはいるが、エリノアの後ろへ一歩、近づいたのが分かる。

「ヤットルッド、お元気そうで何よりです」

 フリュクレフ王国は皇国に近く、長年交易していたので同じ語源の言葉が多いが、同じスペルで発音が違うことがある。エリノアは皇国語読みでゲルトルートと呼び、ハンスはフリュクレフ語読みでヤットルッドと呼んだ。つまり、どちらとも長い付き合い、もしくは親密であるということではないだろうか。

「なんだかぼくらは、ご縁がありますね。エリノア様」

 にっこり笑って妖精たちが持って来たスミレの砂糖漬けを載せた手のひらを、侍女へ差し出す。妖精が嬉しそうにくるくると回ってぼくの手のひらからスミレの砂糖漬けを受け取る。お礼とばかりにスミレの砂糖漬けと引き換えに、ぼくの手にはエーデルワイスが載せられた。

ヴィカンデルタハティエーデルワイス……。ありがとう、一人で寂しくなったら遊びにおいで。ぼくのところには君の仲間がたくさん居るから」

 エリノアへ微笑みかけ、胸へ手を当てる。

「エリノア様、どうか『母上』と仲良くしてさしあげてください。皇都には知人がおらず、心細いようですから」

「こちらこそ、シーヴ様ともスタンレイ公子とも懇意にさせていただけましたら幸いですわ」

「そうですね、今はエリーザおばあさまもタウンハウスへ滞在しておられるのですよ。よろしければまた、遊びにいらしてください」

 エリノアの背後に控えた侍女は、彼女の周囲でふわふわと浮いているスミレの砂糖漬けを目で追っている。その口元は、確かに驚愕と笑みで縁取られていた。

「ではまたぜひ、妖精の館へお邪魔させていただきたいわ。よろしいかしら、スタンレイ公子様」

「ええ、ぜひ」

 嘘くさい笑みを貼り付け、互いに会釈を交わす。これで大体、確定だろう。チェルハ侯爵家は反乱軍を支援している。そしてそれは、代々フォーセル家から侍従や侍女を採用していることと密接に関連しているのだろう。だが疑問は残る。

 フォーセル家全体が反乱軍に関わっているのか。ならば何故、フォーセル家はぼくを見捨てたのか。フォーセル家は無関係であり、ヤットルッド「が」反乱軍の一員というだけで、中心人物は他に居るのか。優美なカーテシーを見送って、ぼくはハンスの肩を叩いた。

「帰りましょう。とりあえず、どこからどこまでが関わっているのかはまたの機会で」

「……彼女、でしょうか」

 ハンスの問いへ、ぼくは軽く首を振った。

「まだ、何とも言えませんね。フレートはハンスの叔父、なのですよね?」

「ええ。フレート叔父は、母の弟に当たります。ヤットルッドは母方の祖父の弟の娘です」

 ということは、フレートにとっては叔父の子供。

「フレートにとっては、従妹なのですね」

「はい」

 年代的に考えてフレートの父とヤットルッドの父は、ライラの息子たち、なのだろう。どちらも王族の血を濃く引いていることになる。

 ハンスの体から、少しだけ力が抜けて行くのが分かった。ハンスとフレートの生家である、フォーセル家。関わっていても、関わっていなくても複雑な心境なのだろう。しかしぼくは、予感していた。クリストフェル・フリュクレフからぼくを遠ざけるためとはいえ、何の縁もない皇王を頼ったフレートの選択はあまりに不自然だ。妙に皇后と親密そうなベッテの態度も、以前から不思議に思っていた。つまり、ベッテとフレートは確信していたのだ。

 皇后が、ぼくを害することはない、と。

 チェルハ侯爵家は反乱軍の大きな後ろ盾として動いているのだろう。チェルハ侯爵家は古くから続く皇国貴族の家柄である。フリュクレフの血が混じっていないのは、ランダル人特有の象牙色アイボリーの肌であるエリノアを見れば明らかだ。

 チェルハ侯爵家に、反乱軍を率いる理由はない。そこにどんな縁があるのかは分からないが、チェルハ侯爵家は反乱軍の首魁に恩義がある、と考えるのが妥当だろう。

 詮ずるに反乱軍を指揮していると考えられるのは、もう一つの女王の系譜。となれば、必ずしも反乱軍がぼくの味方をするとは限らない。

 だから静かに、ハンスの期待へ石を投じた。

「エーデルワイスは皇国語で『高貴な白』という意味なんですよ」

「……フリュクレフ語では、ヴィカンデル山の星、という意味です」

 知ってる、と目で答えると、ハンスは僅かに頬を緩めた。だからぼくは、ハンスの頬へ頭を寄せた。ハンスの反応で、ぼくは確信する。

 デュードアンデを、フリュクレフでは「タハティ」と呼ぶのだろう。おそらくだが、フリュクレフ人にだけ通じる隠語のような呼ばわれ方なのだ。

 支配人に見送られながら、馬車へ乗り込む。馬車の中で待っていたルクレーシャスさんが、シュークリームから溢れるカスタードクリームと格闘しているのを視界へ納め、キャビンの扉を閉じようとしているハンスへ投げかけた。

「エーデルワイスの花言葉を知っていますか、ハンス」

「……いいえ。存じ上げません」

 大切な想い出。忍耐。

 それから。

 高潔な勇気、大胆不敵。

 「彼らが好みそうな花ですね」と、ぼくは口の中で転がした。

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