魔法使いと剣士の卵 ーうすら笑いと仏頂面のカイとディートの物語ー

花時雨

第一章 カイとディート

第1話 カイ

「魔法が使えたらいいのにな」


 カイはいつもの愚痴を言った。


 十七歳の若者である彼の名前はカイレム・フェルバーだが、『カイ』としか呼ばれない。彼が住む家の者だけでなく、町のほとんどの人間もそうだ。


「はぁ」とため息をついて見上げると、青い空に浮かぶ白い綿雲がなにも知らぬげに流れていく。

 あの雲にとっては、ちっぽけなカイのため息など、何の関わりもない他人事だろう。


 腰に手を当て、足元の桶を見ながらまた「はぁ」とため息をする。


「魔法が使えりゃ、こんなのあっという間なのに」


 カイは愚痴を重ねた。

 もう口癖になってしまっているのかもしれない。そして自分の体には大きすぎる野良仕事用のぼろぼろの服の袖で顔の汗を拭いて「はぁあ」とひときわ大きくため息をつき、庭の隅にある井戸に近づくと釣瓶つるべを中に落とした。

 さまざまな模様の布の端切れでのつぎはぎが目立つその服の袖もズボンの裾も、あちこちがほつれて何本も糸が出ているが、そんなことは気にしていられない。

 釣り縄を揺り動かして釣瓶に水を入れ、滑車の心棒の端についているハンドルを回して縄を巻いて汲み上げる。ハンドルを固定して釣瓶をつかみ、短い天秤棒の両端にぶら下げた二個の桶に水を移す。


 このくらいだろう。


 重さにそう算段をつけながら覗き込んだ桶の水には、濃い銀色をした自分の瞳がつやの無い黒髪の間から映って光っている。

 カイは自分の顔が嫌いだった。ぎょろりとした大きな濃銀色の眼、薄い唇。整っていると言えなくもないのだろうが、切る暇もなく後側は襟足まで伸び、前では眼に覆い被さっている癖の強い髪と、肉付きが薄く骨ばった若者らしくない頬とが台無しにしている。

 父親には似ていない。顔立ちも髪も瞳の色も。母親に似たのだろうか。だが、母親似と言われたこともない。この町にはカイの母親の顔を知っている人間はいないのだ。


 何より嫌いなのは、いつでもうすら笑っているように見える顔付きだ。自分ではそんなつもりはないのだが、周囲の機嫌をうかがっているうちに知らず知らずに身につき、固まってしまったのだろうか。

 だが、『顔の良し悪しで人生が決まる』など、戯言たわごとだ。顔なんて無益なものはどうでもよい。顔付きが影響するような上等な人生ならばともかくも、今の自分の暮らしでは顔がよかろうが悪かろうが、何の影響もないだろう。


 そんなことより、魔法でも使えて水を出せればこの苦行が楽になるのに、とカイは思った。

 これもいつものことだ。雨の少ない夏は井戸の水面が低く、短い春秋はるあきよりハンドルを多く回さないと水を汲み上げることができず、顔から余計に汗を流さなければならない。かといって、冬の凍える風の中で水に濡れた手と指をかじかませながら冷え切ったハンドルを握るのも、それ以上に辛い。結局、一年中、釣瓶の上げ下げを繰り返すたびに魔法で水が出せればとつぶやいているのだ。

 そして、そのつぶやきもまた無益なり言だ。この世の中に魔法使いなど、一握りしかいないのだ。カイのいるこの田舎町にはもちろん一人もいない。酒場での戯言ざれごとや子供相手の冗談の中で語られるぐらいが精々だ。

 それでもたびたび口にしてしまうほどに、水汲みはつらい仕事なのだ。


「はぁ」とまたため息をついた後に、天秤棒を肩に担ぎ、二個の桶をつるした両方の綱を持ってバランスを取りながら、肩と腰に力を入れて持ち上げる。肩が十分に硬くなるようにしっかり力を入れないと、痛いし、うまくバランスが取れない。水がこぼれないように慎重に母屋の台所まで歩を運び水瓶に移したら、また井戸に汲みに行く。

 水瓶が一杯になるまでこれの繰り返しだ。


 カイは水汲みが嫌いだった。こんな苦行を喜ぶような物好きはいないかもしれないが。

 本来、水汲みはこの家の息子であるギエリの役目のはずだった。カイを養っている叔父は染物師をしており、その家は町の南を流れる小川の近くに建てられている。染料の原料である草木の畑や染色済みの布の洗浄に水を大量に使うためだ。

 その一方で、台所で使う水は庭の井戸から取っている。叔父の妻は、自分と血の繋がりが無いカイを信用しておらず、彼が台所の水瓶に触るのを嫌がっていた。


 だが、一つ年上の従兄のギエリは水汲みを嫌がって、自分の方が体が大きく力が強いのを良いことに、カイに押しつけようとした。カイが叔父の家に引き取られてまだ間もない、八歳のときのことだ。

 カイが断ると胸倉を掴み、「家から放り出されてもいいのか」と脅してきた。カイがその手を振りほどこうとした拍子に手がギエリの鼻に強く当たってしまうとギエリは逆上し、顔を真っ赤にして「よくもやりやがったな」と殴りかかってきた。

 カイが殴られまいとして両腕を前に出して必死になってギエリと揉み合っていると、騒ぎに気がついた叔父が慌てて駆け寄ってきて「やめろ!」と割って入ったが、二人を力ずくで引き離した後にわけも聞かずにカイの頬を一発叩いた。そしてカイが倒れるのに見向きもせずに、ギエリの耳を引っ張って無理やりに連れて行ってしまった。


 平手であっても、毎日仕事をしている叔父の力は強い。カイは鼻血を流したまま、地面の上であお向けになってじっとしていた。くらくらする頭で拳を握り締めて目に当てていると、顔を流れる汗が涙と混ざって頬の上を流れるのを感じた。やがてそれが口に入っても、鼻血と異なり何の味もしなかった。ただ水のようだった。拳を握ったままの両腕で目を覆い、そして自分もこの水のように味気なく流れ去って消えてしまうようなものなのだと、立場の弱さと情けなさが心の隅々まで染み渡っていくのを味わったのだった。


 それ以来、カイは涙を流さなくなった。

 もうギエリに逆らうことはせず、言われるままにうすら笑いを顔に浮かべて水を汲んで運んだ。叔父の妻はカイが水瓶に桶の水を注いでいるのを見て嫌な顔をしたが、何も言わなかった。

 魔法で水が出せれば、と思うことも何度もあったが、そもそもこの町には魔法使いなど一人もおらず、カイも実際の魔法を見たことは一度もないのだ。



 カイが叔父の家で厄介になっているのにはわけがある。

 カイの父親であるクレイルは王都で国軍の尉官として働いていたらしい。しかし、カイがまだ小さいうちに母親が何かの出来事があって亡くなると酒に溺れるようになり、軍をクビになってしまったらしい。七歳のカイを連れて故郷のロズラムの町に帰ってきた後も、ろくに働きもせず、軍勤めで貯めた金を一年も経たずに使い果たすころには体を酒で壊して亡くなってしまった。


 残されたカイは、ただ一人の身寄りである叔父がやむなく引き取った。

 だが、もともとカイの父と叔父は兄弟仲が良くなかったらしく、叔父の家の中でのカイの立場は、親族どころか、良くて居候、悪くすれば住み込みのただ働きの下男も同然だった。

 実際、十歳を越えてからは庭の自家用の小さな野菜畑の仕事や家畜のヤギの世話もやらされた。叔父の妻や従兄妹いとこのギエリやミエリには、ただの労働力とみなされているようだった。


 幸い、食事はそれなりに与えられた。それも労働にこき使うためと、町の人の目を気にしただけのことかもしれないが。

 叔父の妻の機嫌が良いときには従兄妹たちと同じような食事が与えられたが、機嫌が悪いときには減らされた。そこにうかつなことを言ってさらに機嫌を損ねると食べた後も空腹を忘れられないぐらいに減らされてしまい、飼料にするはずの野菜くずをヤギと一緒にかじることもある。カイはいつの間にが、叔父の妻の表情から機嫌を窺うのが得意になってしまった。カイの顔にうすら笑いが張り付いてしまったのは、そのころからだろうか。


 そんなことを知らない従兄妹は、母親の機嫌が悪いときにもまつわりつき、いらないことを言っていらつかせる。そんなときにとばっちりを受けないように、カイは家の者たちからできるだけ離れて一人で過ごすようにした。母屋から離れた納屋で寝起きし、食事も自分で台所から運び、一人で無言で食べる。

 時々は従妹のミエリが、母親に叱られたとか兄のギエリと喧嘩をしたとか言って、納屋にやってきてカイと一緒に食事をしようとした。カイが黙々と食べるその横で、あれこれと毒や棘のある言葉を投げつけてくる。カイは何を言われても気にせず、うすら笑いのままでミエリが気に入るような返事をした。いかられれば謝り、なじられればごまかし、威張られればへつらって、ミエリが言いたいように言わせておいた。そうすればミエリの機嫌はすぐに直った。

 ただ、カイの母親の根も葉もない悪い噂を口にしたときにカイが眼に力を込めてこちらを見ているのに気づいてからは、ミエリはカイの母親のことは何も言わなくなった。

 それでも嫌味なことを言うだけ言って、気が済んだら皿もコップもほったらかしにして母屋に帰っていく。時には「嫌いだから捨てておいて」と言って杏子の実を手もつけずに残していく。カイはため息をつきながらそれを食べて食器を片づけなければならなかった。


 服にも困ったことはない。ギエリが乱暴に着古してボロボロになった服がすべてお下がりとして恩着せがましく与えられたからだ。齢の割に体の小さいカイには大きすぎるその服は、叔父の妻の機嫌が悪いときには破れたまま、良くても大雑把おおざっぱに繕った程度だった。

 自然と、カイは自分で縫い繕いができるようになった。見た目などどうでもよい、どうせ野良仕事で汚れる服なのだから、着られればそれで十分だった。

 町の人間も最初こそカイの見た目を笑っていたが、しばらくすると見慣れたのか、カイが不細工なつぎはぎだらけの服を着て畑で働いていても何も言わなくなった。


 カイは叔父の一家に何も文句を言わずに働いた。

 何かを言ってこの家を追い出されたら、子供の自分一人では生きていけないことはわかっていた。大人になり、なにかの方法で自分の身を立てられるようになるまでは、今の暮らしに甘んじなければならない。


 そんなカイの心中を知ってか知らずか、叔父は稼業である染物の技術は実の息子であるギエリにしか教えようとせず、カイはもっぱら畑仕事や家畜のヤギの世話ばかりをやらされた。

 それでも、カイは重労働を苦にせず、うすら笑いを顔に張りつけて黙々と働いた。そんなカイを叔父の一家は侮蔑の目でしか見ていないのだろうが、カイは気にしなかった。


 ただ、いつまでもこのままでいたくはなかった。この家にいつまでもいて、下男同然で一生を終わりたくはなかった。


 畑仕事が辛くなったときには、空を見上げた。流れていく雲、その雲の行く末を、そしてその先にある、町の低い家々の向こうの山並みを、グリンティル峠を見上げた。

 父親に連れられて王都からこの町に来たときに越えた峠だ。

 あのころはまだ幼く、峠も、周囲の景色も何も憶えてはいない。おそらくきつい山道に疲れ果てて、まわりを見るどころではなかったのだろう。あるいは、歩けなくなり、父親に背負われて半ば眠っていたのかもしれない。


 それでも今は、あの峠からの景色はどんなだろうかと憧れる。そしてその先にある世界に。

 いつかはきっとあの向こうへ、ここではない、まだ見たことのないどこかへ行くのだと、カイはいつも強く念じ続けていた。

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