第7話 怪し気に笑う美女

「ずいぶんと初心うぶな子が来たもんだね。可愛いじゃないか」

「あの、あなたは?」

「あたしはシオメ。それよりあんた、災難だったね」


 シオメはフキに泳いで近づくと、その頭を壊れ物にでも触れるかのような手つきでそっと撫でた。


「あいつのそばにいるのは疲れるだろう。ずいぶんと気分屋だからね」

「ワタツミ様を知っているのですか?」

「知っているも何も、海の中であいつの名前を知らないやつはいないさ」


 それもそうか、とフキは思う。ワタツミは海の神で、人魚はそこに住む者なのだから知らないわけがない。

 シオメは白い額に皺を寄せて、ため息をつきながら言う。


「気分屋でわがまま。相手のことは考えないし、好き勝手ばっかしてる神だってね。こっちもいい迷惑さ。あいつの気分で海の流れが変わっちまうんだから」


 そんなことはない、とは言えなかった。事実、フキはワタツミの気分で荒れた海を鎮めるためにここに来たのだから。

 確かに、気分で住処の環境が変わってしまう方からすれば、ワタツミという存在は迷惑極まりないのだろう。


 何だか申し訳なくなって、フキはシオメに頭を下げる。


「あの、ワタツミ様が、申し訳ありません」

「いやいや、なんであんたが謝るのさ」


 それにからからと笑ってシオメは手を振った。笑うとワタツミと同じような鋭く尖った白い歯がよく見える。


「むしろ、あんたには感謝してるんだよ」

「私?」

「あんたが来てから海の荒れがぱたっとおさまっちまったからね。ありがたいことさ」


 よほど、あんたといるのが居心地いいんだろうと言われ、フキは赤面する。海の穏やかさにはフキも気づいていたが、面と向かって言われると恥ずかしいものがあった。


「だから、そのあんたが浮かない顔で歩いているのが気になってね。何かあったのかい」

「……ワタツミ様は悪くないんです。私が勝手に、癇癪を起しただけで」

「癇癪を起こしたってことは、あんただってそれなりに理由があるんだろう?」


 シオメに優しく促され、フキは思わずこくりと頷いてわけを話す。すると紫髪の人魚は「やっぱりね」と顔をしかめた。


「あいつは人間の気持ちなんてわかっちゃいないからね。可哀そうに」

「そんな、ワタツミ様は優しい方で」

「優しい方があんたが大事にしてたものを馬鹿にするようなこと言うもんかい」


 ワタツミの印象を上げようとするフキの鼻を、シオメの白く細い指がつんと突く。


「なるほどね。だから戻りにくくてこんなところにいたってわけかい」

「……はい」

「まあまあ、そんなにしょぼくれなさんな。あいつだって今ごろは――」


 そのときだった。シオメが急に海面の方を見上げながら言う。


「おっと、坊やがようやく自分のやった馬鹿に気づき始めたか」


 ぐらり、と足場が揺らぐような感覚があったかと思うと、あっという間に立っていられなくなった。視界が左右に引っ張られ、フキは慌てて地面に手をつく。

 海全体が揺れていた。


「わあっ!」

「おっと、気を付けなよ。坊やはずいぶん不機嫌らしい」


 前に転がりそうになったフキを受け止めながらシオメが言う。

 海面を見上げると、波がかなり高くなっているのがわかった。海が荒れている、ということに気づき、フキの顔がさっと青くなる。


「ワタツミ様っ!」

「おっと待ちなお嬢ちゃん。あんた、嫌な目にあったばっかだっていうのに」

「っ、構いません。それに、わかってるんです。あの方は、意地悪でそんなこと言ったんじゃないって」

「……そーかい」

「だから私、謝らなきゃ」


 シオメに頭を下げて、ワタツミの元へと急ごうとするフキ。しかし走り出そうとしたその瞬間、腕を掴まれて、フキは前につんのめった。


「な、何を」

「いーや、手ぶらでも何だろうと思って土産をね」


 何かを持たされて、手はすぐに離される。広げて見れば、真珠色に輝く不思議なサンゴが一本、握らされていた。


「ま、うまくやんな。おっと、間違ってもあたしの名前なんて言わないでおくれよ。妙なことに巻き込まれるのはごめんだからね」

「あっ、ありがとうございます!」


 ひらりと手を振るシオメを後ろに、フキは今度こそ走っていく。まっすぐに、御殿の方を目指して。

 だからフキは気がつかない。後ろにいる女が怪しげな笑みを浮かべていることに。

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