貢ぎ物は甘やかな海に愛されて
きぬもめん
第1話 海の神への貢ぎ物
入っているだけで皆の役に立てる。そういう話だった。
なら平気だと、自分がやろうとフキは手を上げる。
皆がそれを待っていたという態度で頷いた。
※※※
たったそれだけで食い物にはしばらく困らない、という話であった。
白い靄の中をふたりの男が歩いている。
ふたりは互いの両手でひとつの巨大なつづらをしっかりと抱え、朝露に濡れた草を蹴散らしながら迷わずに、しかし慎重な足取りで目的地へと進んでいく。
ひとりが弱音を吐いた。使い古した箒のような頭に無精ひげの、いかにもだらしがない男である。
「なあ、これで本当におさまるのか?」
「考えるな。これを持ってきゃ食い物が貰えるんだ」
もうひとりの男がまたその話かと言いたげに肩をすくめる。こちらは箒頭より身なりを整える余裕がありそうだったが、その頭は河童も逃げ出すような見事なてっぺん禿げであった。
「波がおさまるとかそんなこと、俺らが考えても仕方がねえさ」
「でもよう、可哀そうじゃねえか。これでおさまらないなんてことになったら」
「可哀そうも何も、村の上が決めたことに口なんてだせねえよ」
「け、けどよう」
「六郎、もう口を開くな。大事な大事な貢ぎ物が手を滑らせて落っこちちまったら、俺らの取り分はなかったことになっちまう」
村の長達から言われた通り、生贄という言葉を使わないようにてっぺん禿げは言葉を選ぶ。それは男たちの心労を少しでも軽くするための、呪文のようなものだった。
それを聞いて箒頭の方は渋々口を閉じる。何も見えない靄の向こうから、かすかに波の音が近づいてきた。足元の草は徐々に数を減らし、潮の匂いが漂い始め、緊張からてっぺん禿げのつづらを持つ手に力がこもる。
「それに俺が聞いた話だと、こいつは自らこうなることを望んだって話だぜ」
だから、俺たちは何も悪くない。
そう何度も言い聞かせながら、男は目の前に見えてきた黒い岩場へと一歩踏み出した。
「よし、ここでいいだろう。つづらを置いちまおう」
「えっ、でもこんな波打ち際に置いちゃ水をかぶっちまうよ」
「馬鹿、そのために来たんだろうが」
まだおよび腰の箒頭を叱り飛ばし、てっぺん禿げはつづらを海と岩場の境目ギリギリのところに置く。途端、岩に波が激しく衝突し、白く泡立った海水がつづらにかかるのを見て、男たちは即座に後ずさる。
きれいな晴天であった。雲ひとつなく、朝靄からのぞく太陽は濡れた草木を輝かせ、吹く風は暖かく春の訪れを祝っている。
だというのに、海だけが荒れ狂っていた。
波は高く泡を立てながら海面を揺らし、その振動が地面を通して足に伝わってくるほどであった。
のどかな晴天の下、舟を出すどころか近づけないほどに荒れた海。
違う天気の光景を切り取って張り付けたような異様な光景に、男たちは不気味なものを見るような視線を投げる。
「……何度見ても信じられねえな。海だけが嵐みてえだ」
「なっ、なあ平吉! ちょっとだけだ。つづらの蓋をちょっと開けるだけだ!」
「何度言ってもわかんねえみたいだな六郎。そのせいで俺らにまで何かあったら」
てっぺん禿げが箒頭の上に拳を握って振り上げた、そのときであった。
ざぶん、と海から何かが顔を出した。
てっぺん禿げの勢いは瞬く間に霧散し、やり場のない拳が宙で張り付けられたように固まる。
「っひ、ひぃ、ひぃぃぃ!」
箒頭が腰を抜かす音を聞きながら、てっぺん禿げは呆然と目の前に現れたそれに目をやった。男たちと決して背丈が低いわけではない。しかし海から出てきたそれの頭らしき部分はふたりの頭のはるか上にある。
「わたっ、わたひゅ、ワタツミ様っ!」
情けなく舌をもつれさせ海の神の名を口にしながら、てっぺん禿げは固まっていた拳を動かして足元のつづらを指す。
どう見ても、海坊主の類であった。
全身は青緑色で、どこが顔なのか身体なのかもわからない。その境目もはっきりとしない。わかるのは全身を海水に濡らしたそれが、自分を見下ろしているということだけ。
しかしそれはよくよく見れば、青緑の正体が身体じゅうに濡れて張り付いた髪の毛だとわかるのだが、突然のことに慌てたてっぺん禿げの目には入ってこない。
「おれらはただっ、みひゅぎっ、ものを、持ってき」
びちゃりと水気を含んだものが岩場を叩き、男たちは飛び上がった。そして、それがつづらを海へと引きずり込むのも見届けずに、ばたばたとぼろきれ同然の野良着を風に膨らませながら、転がるように近くの漁村へと走っていく。
――人間を持ってこい。さもなければこの海は永遠にお前たちを拒むであろう。
そんな脅迫めいた夢を村の人間全員がみた、翌日のことである。
※※※
「やった、やったぞ! ついにだ!」
巨漢がはしゃいでいる。目を疑うような光景であった。
男の背は平屋建ての家よりも高く、しかしその背丈よりも長い髪が目を引いた。女でもなかなかお目にかかれないような、足首まである青緑の長髪。宙を漂うそれは見事に染め上げた絹糸のような美しさ。
男の裸足の足元では紅色や杏色に染まるサンゴが彩り鮮やかに海底を飾り付け、銀や金の鱗をもつ魚たちが蠱惑的な輝きを放ちながら男の元へと懐くようにすり寄ってくる。
しかし、息をのむような美しい光景のどれもが男にとってはどうでもいいことらしかった。
男はサンゴに見向きもせず、薄青色の着物の袖で寄ってくる魚たちを振り払いながらずんずんと歩いていく。爛々と光る金の両目は片手で抱えた、泡で包まれたつづらにだけ落とされていた。
やがて男の背よりも高い、真珠やサンゴで装飾された立派な御殿へとたどり着くと男は乱暴に足で扉を開け、どたどたと中に入っていく。そして、何十畳もあるような広間につづらを置くと鋭く尖った歯を見せて、にいっと笑った。
「さてさて、どんなやつが入っているだろうか!」
そう言いながら、男はつづらの蓋に手をかける。しかし、そこから出てきたのは怯えたような眼差しの美女でも、従順そうな美男でもなく――
「去れっ、このあやかしめっ!」
びたん、と。男の顔に「妖封印」と書かれた札を叩きつけた、小柄で短い髪の少女であった。
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