3


 アンナはふ、と目を覚ました。横になっている寝台は、寝る前と同じ部屋のもの。やはり夢ではなく、これが現実なのだと思い知る。

 既に夜になっていたようで、丸窓からうっすらと青い光が差し込んでいた。体を起こそうとして、アンナはぎくりと動きを止める。

(……誰か、いる)

 この小さな部屋に、自分以外の人がいる。眠ったふりをしながら、アンナは体中の感覚を鋭く尖らせた。

 丸窓から差し込む光が床に人の影を描いていた。随分と大きい。男のように見える。

 さっとアンナの顔から血の気が引いていく。

 オウミだろうか?

 いや、ちがう。彼は男だが、巨漢とは言えない体躯をしていた。では一体誰だ?

「……これが、稀人……」

 喉に痰が絡んだようながらがらとした声が、アンナの耳に届いた。その響きにアンナは背筋がすっと冷えていく。

(や……やばい)

 十分に気を付けていたとはいえ、アンナは年頃の女である。生前では何度か危ない目にあってきた。この押し殺したような声。鼻息の荒さ。間違いない。

 この部屋にいる男は、アンナに欲情している。

(なんで……!?)

 いや、考えるのは後だ。この状況を何とかしなければ、アンナは間違いなく手籠めにされてしまうだろう。

 アンナの体に、男の手がかかった。ぐいっと着物を引っ張られ、肩から胸上までが空気にさらけ出される。

(ひっ……)

 迷っている暇はなかった。ぐっと覚悟を決めて、アンナはすっと息を吸い、ぱちりと目を開けた。


「無礼者!」


 叩きつけるように声を挙げると、肩を掴んでいた男の手を叩き落とす。そのまま悠然と寝台の上で身を起こすと、男の姿を真正面から捉えた。

 見たこともない男だ。衣の上からでも分かるくらい胸板は分厚く、腕が太い。無精髭は生えているものの、それなりに身なりの整った男である。

(こういう男なら、何とかなるかもしれない……!)

 震えそうになる心を叱咤して、アンナは目に力を籠める。

「誰だ、お前は! 私が誰だか知っていて、その手をかけるのか!?」

 声は低めに。目線はあくまでもしっかりと定め、男の顔をねめつける。決してこちらが怖がっていると思わせてはいけない。こういう男は弱みを見せたら負けだ。

 男は自分の身に何が起こったか分からないようであった。それでも、じわじわと手を叩かれたことに思い至ったようで、顔面が朱に染まっていく。

「どっちが無礼だ、稀人。なぜそんなに偉そうな口が利けるんだ? え!?」

「私にそんな口を利くと後悔するぞ」

 口調は、今日出会った一番偉そうな人、ヨミを真似る。

 この男は身なりも整っているし、体は大きく、相当鍛えている。口調は荒々しいが、捨て鉢の印象はない。こちらを下に見ているのが言葉の端々からよくわかる。 自分に当然の権利を邪魔されて憤慨しているのだ。つまり、それだけ自分に自信があるという証左である。

 あくまでも強気に。そして、ほんの少しの権力をちらつかせること。それがこの男の対処法になるはずだ。


 長年の芸能生活で、幾度となく危ない目にあってきたアンナが身につけた処世術。 それは人間観察である。


 身なりや態度、口調からその人の特徴を推測し、演技でその場を乗り切る。舞台でアドリブを言うときにも重宝するが、こういった緊急時の回避方法としても大いに役立つ術であった。

(まさか、こんなところで使うとは思わなかったけれど……)

 アンナの思惑どおり、男はたじろいでいた。今までこういう扱いを受けてこなかったのであろう。この男がどうしてこの部屋にいて、なぜ稀人を下に見ているかは分からない。しかし、対処法は間違いなさそうだ。

「出ていけ」

 悠然と。焦った様子を出してはいけない。破裂しそうになる心を抑え込んで、アンナは言葉を口に乗せた。

「稀人風情が……何を……」

「私は確かに稀人だが、ただの稀人ではないぞ」

 ここが勝負時だ。アンナはぐっと腹に力を入れる。

「私に手を出したと知ったら、ヨミさまがきっとご立腹だろうな」

 効果は覿面であった。男の朱に染まった顔が、すっと青ざめていく。

 この男の服装は、あの門にいた男たちと非常に似通っている。そして門の男たちはヨミと呼ばれた男のことを敬い、畏れているように見えた。

 だからこそ、アンナはここでその名を口にすれば、男が怯むと踏んだのである。

「何故お前のような者が……その御名を……!」

「出ていけ」

 腹の底から声を出す。

「どうした、何故出ていかない」

「ひ……」

「出ていけ!!」

 男は二、三歩後ずさると、そのまま踵を返した。大慌てで扉を開け、脱兎のごとく、という言葉通り逃げ出した背中を目で追う。その足音が聞こえなくなってからようやくアンナは息を吸い、大きく吐き出した。

(……よかった……)

 細かく手が震え始める。また涙がこみ上げてきそうになり、アンナはぐっと拳を握りしめた。

(早く、逃げないと……!)

 なぜあのような不埒者がこの部屋に入ってきたのか、その理由は分からない。しかし、アンナの勘がここにいては危ないと告げていた。

 急いで着物の前を合わせて整えると、棚から衣を一着、靴を一足失敬する。

 オウミはまだ帰ってきていないようで、御殿は無人のようであった。それでも十分に気をつけてアンナは外に躍り出た。

(やばい!)

 目抜き通りに通じる路地から、複数の足音が聞こえた。アンナは慌てて建物の裏手に回り、そっと覗き見る。

 オウミだ。そして連れているのは複数の男たち。みな先ほどの不埒者と同じような衣を纏い、目に見えてだらしない顔をしている。

「いや、しかし稀人が紛れ込んでくるのも久しぶりですな」

「ええ。本当に」

「随分具合がいいと聞いておりますが、本当なのですか」

「何分、あれほど若い娘は久しぶりですからね」

 嫌な予感がする。アンナはごくりと喉を鳴らした。

「お前もよくやる」

 男の一人が下卑た顔でオウミに話しかけていた。

「稀人の保護だがなんだか知らないが。そうやって数多の稀人を斡旋してきたのだろう。たんまり稼いでいるんじゃないか」

「人聞きの悪い」

 オウミは目を丸くした。

「稀人が冥界で生きるなら、面倒を見る者が必要ですから。僕たち平籍では良い待遇を与えることは難しいですが、神籍の方々なら間違いないでしょうし。これはあの娘のためでもあります」

「まあ、俺達には関係ない。稀人を手に入れると良いことがあるという言い伝えもあるしな。それが若い娘なら願ってもないことだ」

「気が早い。まずは各々娘の具合を確かめて、それから話し合いにしようと決めたではありませんか」

 アンナは手にした衣をぎゅっと握りしめた。

(……そういう、こと)

 この口調に、この内容。稀人である自分を囲うという話に違いない。同時に自分自身の認識の甘さに歯噛みした。


 アンナの勘では、オウミという人物は善人である。しかし、善の基準が違えば話は別だ。

 先ほどのオウミの口調。彼は真実、稀人のためを思って行動しているのだ。それが神籍の男に囲われることであっても、それが彼の言う『保護』であり、稀人が安全に暮らすための術なのであろう。


 ここにいては危ない。男たちが部屋まで入り、アンナがいないことに気づかれたらきっと大ごとになってしまう。

 逃げるにしても、袋小路のこの場所である。

(でも、逃げなきゃ……!)

 流石にあれほどの大人数。アンナの得意技でかわすのも無理がある。

 息を殺す。男たちは楽し気に笑いさざめきながら、御殿へと入っていった。

(今!)

アンナは駆け出した。衣を握りしめ、細い路地をまっすぐ走る。

「娘がいないぞ!」

「逃げたのか!?」

 背後で男たちの声がする。急がなければ。夜の目抜き通りを走って走って、路地を幾度となく曲がり、そこでようやくアンナは足を止めた。

 息を整え、耳を澄ます。足音はもう聞こえてこない。どうやら完全に巻いたようである。

 夜の冥界は、昼の明るさが嘘のようにひっそりとしていた。人通りもほとんどない。

(死んだ後にも、昼や夜があるとは思わなかったけど……)

 天を見上げても、漆黒の闇である。星も見えなければ月も見えない。ただ建物から漏れ出る明かりだけが、石畳の道をうっすらと照らし出している。

 そう言えば、太陽はこの世界にも昇るのであろうか。意識して空を見上げる習慣がないものだから、昼のときには見逃してしまった。そんなことが妙に気にかかって、自分自身に笑いがこみ上げてくる。

(とりあえず、これを何とかしないと)

 白の装束はそれだけで稀人の象徴となるようである。これを着ている限り看板を下げて歩くようなものだ。

 おあつらえ向きに置いてあった木箱の影で着替えを済ませ、アンナは一息吐いた。衣は薄紅色で、柔らかく、温かく身に沿ってくれる。そのまま木箱にもたれかかるように座りこむと、どっと疲れが襲ってきた。

 注意深く周りを見渡しても、追手の姿は見当たらない。

(少しだけ……ちょっと目を閉じるだけだから……)

 抗えない睡魔に、アンナは目を閉じる。

 冥界の片隅で、アンナは限りなくひとりだった。


***



「起きろ! おい! 起きろって言ってんだよこのすっとこどっこい!」

 がつん、と尻を蹴られて、アンナは目を瞬かせた。いつの間にか夜は明け、明るい光が燦燦と降り注いでいる。

 目の前にはまなじりを釣り上げた小太りの女がいた。見るからにご立腹で、アンナの顔をねめつけている。

「酔っ払いか家なしか、どっちか分からないけどね! そこでおねんねされてちゃ困るんだよ! どいとくれ!」

「あ……ごめんなさい」

 そそくさと起き上がると、女はぶつくさ文句を言いながら木箱を台車に積み始めた。

「まったく、若い女がこんなところでふしだらな。神籍の者に見つかってごらんよ。危ないんだからね」

 その言葉に、アンナは思わず声をかける。

「あの、あなたは平籍……の人ですか」

「見たらわかるだろ!? 神籍だったらこんなあくせく働かなくてもいいおまんまが食べれるんだろうけどね、残念ながら私らはそうはいかないんだよ」

「神籍は、働かなくても食べていける……?」

「そうさ。あいつらは現世で善い行いをしたとかしないとか、そんなのは知ったこっちゃないけどね。生まれながらにして恵まれた連中だよ。腹が立つったら」

 そう言いながら、女は訝し気に首を傾げた。

「あんた、なんでそんなこと聞くんだい? そんなの冥界の生まれなら知っているだろうに」

 しまった。

 アンナは咄嗟に身を翻し、その場から逃げ出した。後ろで女が何やら叫んでいたが、聞こえないふりをする。

 目抜き通りまで戻り息を整えると、アンナは道の端で立ち止まった。昨日のオウミたちのこともある。稀人ということをあまり周囲に気取られると面倒なことになるだろう。で、あれば、質問の仕方を考えるべきであった。

 道行く人々をぼんやり眺めながら、アンナは思案に暮れる。

(これから、どうしよう)

 どうしたいかははっきりしている。

 生き返るのだ。自分はこんなところで死にたくはない。諦めない、という気持ちはまだ心の中にごうごうと炎のように燃えている。

 では、どうやって生き返ればいいのか。

 記憶を反芻していたアンナの脳裏に、昨日の偉そうな男の声が蘇った。


 ――王でもない限り、お前を生き返らせることはできないだろう。


「……そっか」

 ぱあ、と光明が開けた気がする。

 王でもない限り、生き返らせることができないと彼は言った。それはつまり、王であればアンナを生き返らせることができるということである。

「それだ!」

 ならば、王に会おう。なんとしてでも、どんな手を使ってでも王に会い、そこで生き返らせてもらうように頼めばいい。

 勿論、そう巧くはいかないかもしれない。しかし、こんなところでうだうだと逃げ回っているよりも、そちらの方が余程勝算がありそうであった。

(王に会う)

 アンナは目抜き通りに躍り出る。

(絶対に会ってみせる!)

 目抜き通りの奥、冥界の入り口からまっすぐに伸びた先に、もう一つの門が見えた。巨大な門扉の先端から、絢爛豪華な色彩の屋根が見えている。

「王は、大抵ああいうところにいるのが定石だよね」

 そうと決まれば行動あるのみ。どうやって王のところへ行きつくか、思案しながらアンナは歩を進めていった。




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