by we by friend
はくちゃま
第1話 俺たち中学生
少年の時に見たあの風景は、いま思い出したとしても変わらず、あの世界でいてくれるのだろうか?いつでも、何度でも、思い出した時には夕食を作っていた母のように、そこに待っていてくれるのだろうか?
俺は時々考える。少年の背中は生のもっとも具現したものだと考える。過去の記憶を追うことは、少年の背を追うことに等しい。目が眩む程の若々しさには嫉妬してしまい、遠いてしまうことは恐ろしい。
その少年の背中が象る生を思い出しながら、俺はいつも現在の型落ちした生にしがみつく。
過去の記憶を追うことは、生へのルサンチマンに他ならなかった。
だから今日も、思い出す。思い出さずにはいられないのだ。あの少年の日の、生きた夏を、そこから擦り出た垢のような土埃の匂いを。
さぁ、沢山の潮を含んだ記憶の波が一旦は引いていったぞ、そろそろデカいのが押し寄せてくる。モラトリアムの蘇生を、自分だけの生の追体験をもう1回、俺に少年の背を見させてはくれないだろうか?
ああ…来た……来た……やって来た………。
手に握った塩を含んだ水滴が原始海洋のような澄明さを得て、透き通った鏡のように俺の記憶を映し出していった。ふと、記憶こそは海の役割であるかのようにも思えた。海も時代の映し鏡であり、海だけが誰よりも広大な記憶を持っているからだ。
水滴は海へと帰る。広大な記憶を持つ海に、俺は今から航海に行く。鏡像の記憶の大海原に漕ぎ出して行く。
真夏の夜空に
トパアズ、ルビー、エメラルド、 カシオペア、1等アンタレス、ベガ、デネブ、アルタイル、北斗七星。
星降る星降る
トパアズ、ルビー、エメラルド、 カシオペア、1等アンタレス、ベガ、デネブ、アルタイル、北斗七星。
宝石の海は、
もどかしいけどこれが決まり。
古びた穴だらけのガレオン船、躍り出る
*
「ブラジャーのホックを外すのは、知恵の輪よりムズイ」
「海老ちゃん、それ、都市伝説でしょ?」
「いやそれがだな金有、母ちゃんのブラで検証した。通説だ」
7月16日の月曜日、この週の終わりに終業式を控えた俺たちは今日も、ソフトテニス部の部室で駄弁っていた。海老原、金有、そして俺。夏休みが目前に迫っていても特段、高揚感なんてなかった。中学三年の最後の夏、俺たち三人、この頃は大人になるなんて知らなかった。
「先輩たち、藤T来たんでそろそろ練習もどんないとやばいっす」
2年の後輩が部室まで走ってきて顧問の藤岡が練習に来たのを知らせる、そのタイミングで俺たち三人もコートに戻る。ちなみに藤Tとは藤岡とTeacherの頭を取って藤Tだ、このわかりやすいあだ名は1年で入部してすぐに命名したものだが、三人とも受験期なのにTeacherの綴りも知らなかった。
「ありがとうね、ボールの空気入れてから行くって藤Tに伝えてね」
金有がそう促し、後輩は韋駄天走りで去っていく、巻き上げられる干からびた粉塵が残り香のように、ずっとそこに夏があり続けるように、焦げた地面の上に滞留していた。
そして裏を合わせるために、いくつかの適当なボールに空気を入れて、何食わぬ顔で練習に戻るのだ。これがスポーツマンのルーティンだった。
あの時期、部室の暗がりから脱した瞬間の光線みたいな日射に目がやられて、一瞬だが目の前が真っ白になるんだ、ようやっと落ち着いて見上げた空には欠かさず入道雲があった。時折だが入道雲から、飛行機雲が一線に伸びてゆく光景がある。この日はそれがあった。
「いやー暑いなしかし、俺たちを殺す気か藤Tは!」
海老原はサーブの練習中、逐一文句を垂れながらラケットを振っていた。その嫌らしい念をゴムボールに写し、フラストレーションを発散するように、ゴムボールの形が歪にへこむまでの力で打ち付けていた。それがネットに弾かれるたびに苦い顔をするのだった。
当のボールは、なんといってもゴムなので、へこんでも元の形に収まる。すべてが
さて、テニスコートは6面あり、3面ずつを男子と女子で分けていた。それがまた思春期における男女の隔たりを如実に投影しており、そのエデンのような禁足地に我らは得もいえぬ欲望を覚えるばかりであった。
金有はというと、三面のコートのうち一番端っこの、俺と海老原のコートから一番遠い、いわば新入部生用のコートにいる。三年間で健康的に背が伸びてしまったがために、ある意味では悪目立ちをしてしまっていた。
もっとも彼は体力をつけるために入ったのだから、入部当初から野心のようなものは感じなかった。それゆえに金有は思い出だけをどんどん肥していった。あえて口にはしないけど、そういうことだ。夏の大会、出られるといいな金有。
海老原と世間話をしながらサーブの練習を続けていると、ふいに足元へピンク色のゴムボールが転がってきたのに気が付いた。隣の女子テニス部のボールだった。拾い上げ真隣のコートを見ると華奢な子と目が合った。隣の1組の天野さんだった。思わず目を逸らしてしまった。
ラケットが有名ブランドの最新の型だったので、しっかり練習に取り組んでる子なのだろう。ただ、目線を交えることがなんだか酷く「やってはいけないこと」な気がしてしまって、この気を悪戯に想起させた原因の、憧れていたはずの異世界からきたピンク色のゴムボールを早く手放してしまいたかった。しかし、憧れがゆえに手放せなかった。
「よこせ一ノ瀬!いいから貸せ!」
海老原が強引に俺の手からボールを引っぺがした。小銭でも落ちていたのだろうか。そして、これまで見たことがないほど綺麗なフォアハンドでボールを送り返した。そのあとすぐに藤Tから集合がかけられた。海老原は一言俺に詫びをいれ、満足そうな顔で駆けていった。それは彼女も同じなようだった、俺たちに構う理由もなくなったのだから。軽く会釈をされ彼女は元居た世界へ戻っていくのだった。また、あの禁足地へ。
「ねぇ、そのラケット重くない?」
ふいに声がでてしまって、俺は慌てた。ピンポンダッシュだとかスカートめくりだとか、ああいうのは背徳感とエクスタシーの絶妙な天秤のおかげで成り立っている。そのどちらか一方が肥大し、つり合いが取れなくなった瞬間に犯罪的な加速度を持つものだが、俺はこの時、一辺の光悦もなかった。あったのは昇りの羞恥心と下りの自尊心であった。俺はたまらなく恥ずかしくなり、海老原の後に続き、逃げるように走り出した。
「重くないですよ」
背後からしたのは俺たち男の野太いそれではなく、1音1音が決して女性的な音域から外れることがなく、完璧なまでのメゾソプラノであった。小学生の時は欠片も見なかった男性ホルモン、それが思春期になったとたん内側から“変声風”に乗って上がってきて、喉に吹き溜まりを作るのだ。その野太いながらも臆病な小動物のように震えていた俺とは非なる声であった。
たちまち俺は振り返ったが、見ることができたのは奥のコートへ走っていく彼女の後姿だけだった。
"この姿は今でも鮮明に思い出すことができる"。
唇のような薄桃色のウェア、下のハーフパンツは墨のように黒く女性らしい丸みを帯びた曲線をなぞっていた。その絵画のように色塗りに余念がない配色、まるでモダンサブカルチャーな彫刻のようであった。
袖からでた腕の純粋無垢な白さ、細くも肉付きは健康そのものであり、その素肌が外界に面していること自体が贅沢に思えるほどだ。
結ばれたポニーテール、それが身体の躍動に反応して不規則に乱れて揺れるさまは、なんてみだらな妖艶さを際立たせていただろうか!
いつまでもそれを眺めていたいと思う気持ちに封をして、俺は集合に向かった。そのとき彼女の姿と一緒に吞み込んだ生唾の、あの喉の窮屈さは今でも覚えている。この劇的な一部始終を目撃していたのは、花壇に咲くガザニア達だけだった。
彼らはまた興味がなさそうに、風に揺られていた。
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