第捌話

 気を失った彼の腕を解け上体を起こす大蔵の眼前に信じられない光景が広がった。

 コンビニ方面の通路は瓦礫に覆われて行き止まりになり、彼女がいるべきはずの職場が猛火に包まれていた。

 彼が彼女を抱えて逃げた距離は凡そ参丈。にも関わらず、彼らの周囲にまで石やら混凝土コンクリート片やら硝子の破片が飛び散った。迂闊に動いたら怪我をしてしまう。


「嘘……」


 大きく見開いている双眸に映る、鮮血が流れている頭。

 それが彼女の服に流れ落ちて地面に小さな血溜まりを作っていた。折角の新衣装が彼の血で汚れたがそんなことよりも彼の安否の方が心配だ。


「ねえ、萱野。萱野ってば」


 しかし既に意識を失った身体を揺すっても無駄。それに彼の足に幾つもののガラスの破片が刺されており、見るに堪えない程痛々しい。


「本当に爆発が起きたなんて……」


 もし彼女はあのままコンビニで働いていたらと思うとゾッとする。何より、彼の夢物語が正しいのだと、思い知らされた。

 暫く放心状態が続いていると――、


華凛かりん大丈夫? 怪我とかはない?! 平気!? 喋れる?!?!』


 ――直接脳内で一気に畳み掛ける幼い声色にハッとなった。


「う、うん。って、今は外だからまた後にして。ゴホゴホッ」


 『よ、よかったあああーー』と心底安堵したソレが気配を消してから、大蔵は徐に立ち上がる。もう一つ悲惨な声に応じるために。


『駿兄! お願いだから、返事してよ! 駿兄っ!!』


 遠くないところに落ちていた液晶画面が割れたスマホを、恐る恐る拾い上げそのまま話し掛ける。


「そこにいるのは、もしかして柚?」


『えっ、大蔵さん!? 駿兄は、うちの兄は、大丈夫でした? なんか凄い音がしましたけど……』


「うん。なんとか爆発に巻き込まれなくて済んだよ」


『ば、爆発?!』


「え、ええと、落ち着いて。アナタの兄さんも、私も無事だわ」


『そ、そうですか……』


「それよりも、電話、大石に代わってくれない?」


『う、うん、分かった!』


 時間惜しまないとばかりに、ダダダダダッという階段を駆け下りる足音が続く。

 スピーカーモードをずっとオンしていたから、無論、向こうの会話とやらは、全部タダ漏れ。


『おや柚じゃないか。そんなに慌てて、どうしたのじゃ?』


『大石さん……しゅ゛、し゛ゅ゛ん゛に゛い゛が゛ば゛く゛は゛つ゛に゛……』


 他の女性陣の息を呑む音が聞こえ、


『え、嘘。だってシュースケは、おぐりんに財布を届けに行っただけなんじゃ……』


 彼女達が本気でこちらを心配していることを電話越しでも伝わってきた。そんないい人達に恵まれて、大蔵は引け目を感じずにいられなかった。








※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※









「こ゛れ゛、大゛蔵゛さ゛ん゛が゛。大゛石゛さ゛ん゛に゛っ゛て゛」


「うむ、相分かった。柚、ご苦労であったのぅ~。おぬしは部屋に戻ってゆっくりと休むが良い。後のことは、わしらに任せよ」


 大石が滂沱の涙を流している柚の手から優しくスマホを受け取り力強く頷いてみせると、彼女が涙を拭いながらもこくこくと頷き返された。


「小夜、おぬしは柚の付き添いを頼んだのじゃぞ。一人で突っ走らないように見張っておくれ」


「は、はい。分かりました」


 長年の付き合いの小夜でさえ事態の急展開に戸惑い気味だ。けれど幼いなりにも柚を慰めることが彼女にしかできないことだと理解したからこそ、何も口を挟まずその丸めた背中を押すようにして居間を出て行った。

 二人が立ち去ったのを確認した後、大石が電話に応じる。


「待たせてすまなかったのう~、華凛。無事か?」


『う、うん。あいつのおかげで無事だけど……』


 よかった、と密かに安堵の溜息を吐く大石。


『それよりもあいつ、気を失ってて凄い血も出ててさ。そっちから人を回せない? コホッ』


「うむ、相分かった。そっちに久遠と光風を向かわせるから、その場で待機するのじゃぞ」


「あっ、でももしアタシ達が駆け付けるまでに、追手が来たりでもしたら……」


「そうじゃのお~。華凛よ、おぬしは物陰にでも隠れて久遠達の援護を待――」


『いや、こいつの傍で待つよ。万が一、意識を取り戻して私が傍にいなかったら、多分また暴走するだろうし。コホコホッ』


 大石が「うーむぅ」と納得しかねない様子を浮かべている間に、夏目は即座に居間を飛び出していった。


「仕方ない、それで妥協するしかなかろう。じゃがおぬし、大丈夫なのか?」


『ケホケホッ。な、何か?』


「いや、先から咳き込んでおったではないか。まことに大丈夫なのか?」


『いや、ちょっと煙を吸ってしまって……。こっちは本当に大丈夫なんだから気にしないで』


 電話越しでも大蔵が強がっていることぐらい、手を取るように分かる。


「じゃがのぅ華凛、もし追手が迫ってきたら――」


『大丈夫。その時は全力で逃げるから』


「……うむ、それで良かろう」


 大石が渋々と了承して通話を切ると、程なくしてドタドタドタと激しい足音が鳴り響く。


「会長殿、光風を叩き起こしましたよ!」


「らあんだよぐおん! ひくっ、ひどがれでるどきぐらい、おごすらんて…。ひくっ、ろのぉろりづかぁー! ひくっ、みづらぜをおー! ひくっ、しられえのらあ~! ひくっ」


 叩き起こすとは言えど、光風の足元がふらついている上にまともに呂律が回っていない。これから仲間を救出できるような状態だとは思えないが、それでも彼の力は必要不可欠だ。


「ほら、みっちゃん! シャキッとしてっ!」


 彼の背中に赤々とした手の跡が残ってしまうくらい、夏目が容赦のない一撃をかましても、


「いっでえらあ! らにすんだよお! げんがうっれんのか、ごらあ! おらはなあー! ひぐっ、ぎけんのぉ~――」


 酔いを醒まさせるにはまだ程遠い。痛覚で無理矢理醒まさせるのは他の酔っ払いにとって有効な手段であっても、どうやら彼にはこれっぽちも効かないようだ。

 光風や、という大石の声に彼が振り向く。


「おっ? おお、がいりょうろのりゃあらいっすが! ひくっ、ろうしらんっすかぁ~。よっとと……」


 何もないところで轢きそうになった彼を支える苦労人は「ああもう、暴れないでよ~」と苦情まで言い始める始末。


「もう、ただでさえ図体がデカいなんだから、あんまり動かないでよねー。めんどぉちいだから」


「ぬぁによお!? ろのろれえをぉ、ひくっ、だれだどお――」


 光風が彼女を怒鳴ろうとしたその時、


「任務の時じゃ」


「ハッ、何なりと申し付けてくださいませっ!」


「ええー、アタシの努力は一体……」


 先程の失態とは思えない、満面の笑みでハキハキと答える彼に呆れた視線を投げる夏目。

 とは言え、このような芸当は今まで大石の言葉だけを忠実に従ってきた彼だからこそ初めて成せる業である。一般人が真似しても絶対我が物にすることはできぬ、超人離れの芸当だ。


「光風よ、おぬしは駿之介を医者のところに運んできてくれ。説明は、久遠が現場に向かいながらするから、しかと聞くんじゃぞ~」


 あい分かりやした、と力強く首肯する光風に大石も頷き返し、少々焦り気味になった夏目に目を向ける。

 無理もない。一刻も早く助けに行きたい彼女にとって些細な沈黙すら生き地獄だ。今か今かと己の指示を待ち望んでいた部下に、求められているものを与えるのも上司の務め。


「久遠や」


「う、うん」


「二人のことを頼んだぞ」


「任せて! ほら行くよ、みっちゃん!」


「だから、みっちゃんと呼ぶんじゃねえ!」


 嵐のような二人が飛び出していってから暫く経った頃、


「やれやれ、結局おぬしの目論通りになってしまったようじゃのう~」


 大石は障子戸に向かって話し掛けるとずっと聞き耳を立っていた者が姿を現す。


「ようやく、ワタシの話を信じてくれましたのでしょうか」


「うーむぅ……信じるのかはまあ、さておき。認めざる得なくなったのは、事実じゃからのう〜」


「では、手筈通りにお願いしますね」


 彼女は微笑を含む目礼をして、紫黒の長髪を翻そうとすると、


「やれやれ。おぬしも、中々食えないやつよのう~」


 再び幼稚な声音に振り返った。皮肉の笑みを携えている理知的な群青色の双眸で。


「そんなことは。けれどワタシなんかよりも、もっと凄い人がいますから。多分一生、その人から頭が上げられそうにありませんからね。これぐらいは、まだ愛嬌のある方だと思いますよ」


「はて。それは一体、誰のことを申しておるのかのう〜?」


「自分でも分かっていたではありませんか」


「さて、それはどうかのう〜?」


 とぼける大石にでは、と足早に立ち去った彼女。やがて辺りに人の気配が居なくなった頃、幼い容姿の彼女とは似つかぬ、深い嘆息が響く。


「やれやれ……どうしてこうなってしまったのがのう……」

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