第肆章
破綻されし日常、差し迫る影
第壱話
どうやって自室に戻ったのかが曖昧だ。
大した体力を消費したわけでもないのに、まるで三日連続徹夜したかのような脱力感が駿之介の躰を支配する。
かと言って妹に心配されないためにも吐露するわけにもいかず。だから彼は報告も兼ねて勇の部屋に足を運んだわけだが本人不在。仕方なく疲弊した身体を引きずるようにして部屋に戻ったわけだけど。
「これからどうしよう……」
畳の上に大の字になって天井を見上げていると、
「うえーい! 陣中見舞いだあああー!!」
「あれ、何しに来たの」
「だから、陣中見舞いって言ったっしょ? って、相当お疲れのようだね。そんなシュースケに~グッドニュース!」
いつになく気分が高揚していた夏目が侵入してきては「じゃじゃーん」とどこからともかくミルクココアを取り出し差し出してきた。疲労困憊の身体で徐に上半身を起こし、受け取る駿之介。
「こいつを飲むと~? 悩みとおさらばできるのだぁー!」
「……まだ洗脳される気はないんだが?」
「まっまっ、とりまグイッと行きなよ。落ち込んだらミルクココア、病気になったらミルクココア、迷ったらミルクココア、だよ」
三拍子の宣伝文句まで添えられ自身の失言に気付かず、一気に飲み干す。ホッと間抜けた息を漏らすところで、
「ど? ど? 悩み、忘れそ?」
「ああ……。て、洗脳されたようで危な。え、なんで夏目がここに? てか、これ急にどうした?」
束の間の糖分補給で覚醒した脳がようやく彼女の来訪に気が付いた。向けられた視線にはこりゃあ重症だね、とでも言いたげな苦笑が含まれている。
「いやだって家に帰ってからだったんしょ?
「……何故分かったんだ」
「ぬひひひ、なんとなくだよ。なんとなぁーく。上手く隠しそうとしたようだけど、アタシの目にゃあ誤魔化せないよーん」
いつぞやと同じように気の遣われ方に駿之介は目頭が熱くなるのを感じた。幾らループでなかったことにされたとしても、夏目は夏目のままだ。
消されたはずの過去が思わぬ形で再現される――それだけで感涙したくなる。
「別になんでもないよ。ただ、光風と他の二人――あー、確か武林と矢頭だったっけな。に街を案内されただけだ」
変に心配されたくなくて濁したつもりだが、彼女は何かを察したかのように口ごもる。どうやらこの程度の誤魔化しには通じないようだ。
「んまあ、あんま気にしないでいーよ。過ぎたことはもうどーしようもないしさ」
「そうか……。気持ちが少し楽になった。ありがと」
「どういたしまして。また落ち込んだら、いつでもこのお節介ばあさんに話せんしゃい」
「ああ、頼りにしてるよ」
「うーん、アタシ的にはお節介ばあさんにツッコんで欲しいところなんだけど」
「そ、そうなのか。悪い、次からはツッコむようにするわ」
にひひひ、と笑う夏目を出口まで見送った彼は、
「一家に夏目一人がいたら、世界も平和になるなぁ」
感慨深げに呟いてから襖を閉めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
一服しながらも思考を纏めたくベランダに向かおうとしたが、窓を開けると疲れたとでも叫んでいるかのような先客の後ろ姿を見て気後れした。
また今度でもいいや、と気付かれないようにそーっと閉めようとしたら、
「来たければ来れば?」
「いいのか?」
「いいも何も、ここはアンタの部屋でもあるんだし」
至極真っ当な理由が返され仕方なく出ることに。なるべく彼女の邪魔にならないよう、隅の方へ行こうとするも、
「なんでそんな遠くにいるのよ」
「いやだって……疲れたのに嫌な匂いを嗅いだら誰だって嫌がるだろう?」
「別に嫌いだなんて一言も言ってないし。この間のでいいから」
「はあ……お前がそれでいいなら別に構わないけど」
先日と同じ距離くらいまで縮めてタバコに火を付ける。メンソールの刺激がツンと鼻の奥に突き刺さり、溜息と共に煙を吐き出した。
凹んだ時のタバコ程マズいものはない。手摺りの上に組んだ腕を置き、その上に顎を沈ませる大蔵の顔をチラ見。淡白な表情が何かを思い詰めている様子にも見えた。
今日バイトでやらかしたことに反省しているだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、向こうが振り向いてくる前に、視線を海へと逃がす。
「あ、そうだ。どして職場に来たの? 嫌がらせ?」
「別にただ客として入っただけだって。ほら、ちゃんと買い物もしたんだろう? 何なら領収書を見せようか?」
「私が渡したんだからそういうのはいい」
「そうか……」
いつになく張り合いのない会話。よっぽど疲れたんだろう、と即座に辿り着いた結論に納得し、大蔵のいない方へ紫煙を吐く。
「あ、アンタの方こそ……何があったの?」
「……どうしてそう思うんだ」
「だってそんな顔してたから」
「さいですか」
当初は
「あのさ、愚痴でも何でもいいから話してよ。ちゃんと聞くから」
「おっ、なんだ今日はやけに優しいな……。さてはこの後、俺、死ぬのか。ハハハ、そりゃあ怖いな」
「いいから」
強情らしい真面目くさった顔に迫られ、適当に発した冗談と共に息を呑んだ。
こうして真正面からぶつかって来てくれる人間は、果たしてどれぐらいいるだろうか。
(いや、ゲームの世界だからこそ、だな)
後ろ向きな結論に苦笑を零し、誤魔化すように何口を吸う。けれど彼のささやかな逃避行を許さぬように、大蔵は一瞬たりとも目を逸らさず。じーっと見つめられていたら沈黙勝負に根負けするのも時間の問題。やがて彼は、重そうな口を開いた。
眼前の暗い海だからなのか、はたまた相手は聞き上手所以なのか。それとも行く当てのないモヤモヤ気持ちをどこか解消したいだけなのか。彼は三人との街案内のことを話した。
一通り聞き終わった頃、彼女はただ「そう」とだけ呟き、これ以上のことを聞き出そうともしなかった。暫しの沈黙の後、静かな声音が問い掛ける。
「ねえ。ここに来たこと、後悔した?」
「少しは……。だが今更後悔したってどうしようもないだろう? 他に行く当てがないんじゃここに馴染むしかない。そう考えることにするよ」
「……そう」
いつの間にかフィルターから一センチまで燃えていたので手摺りの上で潰し、吸い殻を携帯灰皿に入れる。もう一本吸おうと箱に手を伸ばしたがすぐに取り止め、行く当てのない手が力なく手摺りの上に落ちた。
もしこの場にいるのは本物の主人公であって彼ではなかったら、どうなっていたんだろう。そんな益体もない思考に沈み込む前に彼は大蔵に質問する。
「そうだ。まさかお前も共和国人が大嫌い、という口なんじゃ……」
「そうね……別に何とも思ってないかな私は。ただ私を一般の人と比べてはいけないと思うよ。その、自分で言うのもあれだけどさ。割と特殊の方だと自分でも思ってるわけだから」
確かに、と駿之介は会心の納得を得た。
過酷な家出生活を体験した彼女のことだ。きっと共和国人がこうのどうのと考える前に常に衣食住の心配したはず。むしろ敗戦後で一般皇国人の思考に染まらなかったのはそのおかげかもしれない。
「肝に銘じておく」と伝えるとぎこちなく頷き返され。口裏合わせはしていないのに、二人は同時に海へと向け暫し夜景を眺める。
「ねえ」
「ん? なんだ?」
「あ、ありがと」
「急に礼なんか言ってどうしたんだ? 気持ち悪いなー」
「なっ。気持ち悪いとかないでしょ! 何よ、私がお礼したらおかしいわけ」
「いやだってお前、口開けば悪口ばかりじゃないか」
「あ、あれは、アンタが……!」
彼女が声を張り上げた途端、すぐに取り止めて代わりに溜息一つ。
「ただ異邦人のアンタがそう思ってくれただけで感謝したくなるもんなんだよ。こっち側の人間としては、ね」
「そういうものなのか……」
「あ、あと、まだ助けてくれたお礼もまだ言ってないみたいだし。その、借りを作っておいて何も返せないのはあれだし……」
珍しく素直になった大蔵に微笑を添えて「そうか」と返すと、
「そうなのっ。……私、寝るから」
「そうか、おやすみ」
「お、おやすみ」
部屋の中に戻って行った後ろ姿を見送った後、暫く凪いだ黒い海面を眺めた。
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