第22話 平家の哀話を秘めた橋


 そうして、車で走ること二時間弱。


 町並みを抜けて山の道へと上がった最初のうちは、舗装もされているせいか公道と変わらなかったものの、途中からは勾配が急だったりで少々恐怖すら感じたほどだった。


 しかし頭上を見れば紅葉に染まった木々が空を左右から覆いつくす様は目にも鮮やかで、藍華は存分に秋の風情を堪能することができた。


 何よりそうできたのは、ひとえに蒅の運転のおかげだろう。


 慣れているのか彼は急な坂道でも難なく車を走らせ、ハンドルさばきも安定しており無駄な振動を感じさせなかった。


 特に車に詳しいわけでもない藍華でも、蒅の運転は上級者の部類に入るだろうことはわかる。

 ブレーキ時の揺れの配慮など、細やかな所に注意を払うところは職人である彼らしい。


 また、ふとした時に盗み見た彼の横顔は、紅葉よりもなお藍華の視線を惹きつけたことは言うまでもない。


 そうして、山道を走り続けてたどり着いたのは、想像を絶する光景でーーー


(すごい……!)


「な」


 思わず言葉を失った藍華に、蒅が満足げに頷いた。


 お土産屋が併設されている駐車場から五分ほど歩いた先。


 むせ返るような緑の匂いが鼻腔いっぱいに広がる中、鬱蒼とした樹木の隙間を割いて流れる渓流の上に、苔むした大木を柱とした巨大な吊橋が悠然と佇んでいた。

 幾重にも連なる蔓の数は夥しく、その荘厳な姿に藍華はひと目で圧倒された。


(思っていたより何倍も大きい……! それに、この存在感ったらないわ……!)


 山奥にある橋だと観光サイトで読んだものだから、てっきり橋がぽつんと掛けられているのかと思っていた。

 けれど全く違う。


 薄っすらと緑の苔に覆われた橋には夥しい本数のかずらで編まれた縄が括り付けられている。

 足場となる枯れ木色の踏み板が連綿と続き緩やかな曲線を描くさまは、まさに人の手と自然が織りなす芸術品にすら思え、見事な調和に藍華の心の琴線が鈴の音のように震えた。


 どこか神秘的とすら思える光景は、古き日本の姿をありのまま見ているかのようだ。


 吊橋の入口とも言うべき麓の部分には、橋に使われているのと同じ大柱があり【国指定 重要有形民俗文化財 祖谷いや蔓橋かずらばし】と書かれた看板が打ち付けられている。


(なんて太い柱……この巻かれた蔓の量も……凄まじいわ)


 藍華は吊橋の入口に立ち、硬い樹皮に右手でそっと触れた。


 でこぼこした木肌には樹木独特の質感が感じられる。また頭上の木々がもたらす光と影により枯れ木色の蔓はまるで年老いた老人の皮膚のようだ。人が造ったとは思えぬほど重厚で威圧感さえ感じる橋には、太古の神すら宿っているように思える。


「見事だろう?」


 橋に釘付けになっている藍華の隣で、蒅は瞳を細めて言った。どこか眩しそうな表情はじっと藍華を見つめている。


「ええ。本当に……ねえこれ、本当に蔓だけで出来てるの?」


 藍華は視線をかずら橋に留めたまま蒅に聞いた。半ば諦めていた場所だったため、下調べが深くできていなかったことを悔やむ。確か長さは四十五メートル、幅は二メートルだったろうか。実際目にするとそれ以上に思えるが、これほど立派な吊橋が蔓と木材だけで造られているとしたら驚きだ。いや実際、かつてはそうだったのだろうけれど。


 藍華はかずら橋を前にした高揚と好奇心で心が浮き立つ気持ちだった。

 すると、質問を投げた蒅から、つまり隣からふ、と微笑する気配がする。


「昔はそうだったが、今は中にワイヤーが通してある。三年毎にかけ替えもされてるしな。だから安心して渡れるぞ。まあ、隙間がでかいからスマホは出さないほうが懸命だな。落としたら終わりだ」


「確かに……」 


「気に入ったか?」


「もちろん」


 安全性を考えるとまさか昔のままの造りではないだろうと思ったが、蒅から肯定の返事が返ってきてやはりと納得する。そして続いた言葉に藍華は大きく頷いた。気に入らないわけがない。ここまで立派なものを拝めるとは眼福以外のなにものでもなかった。

 そのうえ、今日は平日だからか観光客もまばらだ。橋を渡りきった向こう側に数人の姿が見えるだけで、藍華達の後ろにはまだ誰も並んではいない。


(でもこれ、渡るとなると流石に怖いかも……)


 藍華は恐る恐る足元を覗き込んだ。 

 かずら橋は踏み板の感覚がかなり広い。そのため十数メートル下にある渓谷が丸見えで、高所恐怖症ではなくとも十分に恐怖を煽ってくる。

 緑がかった巨大な大岩や、激しく流れる渓流の時折深くなった川底の碧さも目に美しいが、落ちれば即死間違いなしという高さに背筋が少々ぞっとした。


「じゃ、行くか」


「えっ」


「橋なんだから渡るのが当然だろう。それに、言っただろ」


 橋下を見て足を止める藍華に一歩近づいた蒅がにやりと笑う。それを見た藍華は車内での会話を思い出した。


「一緒に渡るってな」


 予想通り蒅に指摘されて、う、と言葉に詰まる。同意はしていないが、高いところは平気かと聞かれて大丈夫と返したのは自分だ。確かに高所恐怖症ではない。ないのだが、それを凌駕するシチュエーションだとも思う。

 けれども、すでに橋の通行料は払っているので渡らないのも勿体ない。

 靴だって今日は観光予定だったのでスニーカーを履いてきている。何も問題は無いはずだ。


(ちょっと怖い……けど、手摺を持ってれば大丈夫よね……?)


「い、いいわ。渡るわよ。それで文句ないでしょう」


 藍華はぐっと前を向いて意を決した。強がりと言われればそうかもしれないが、せっかく来たのだから渡りたいし、橋の上からの景色だって見たいのだ。それに何より、蒅に怖がっていると思われるのは癪だった。


「なあ、怖いなら俺が手を引いてやろうか?」


「だ、大丈夫。自分で行くわ」


 蒅が片手を差し出してきたが首を振って断った。彼に頼るのは悔しい気がしたからだ。

 それに、藍華はすぐに誰かに頼るのが好きではない。

 藍華が先陣を切る形で橋の上を歩く。しかし数歩進んだところで、決意はすぐに後悔に変わった。


(揺れる……! 思ったよりすごく怖いわこれ! 足を踏み外しそう……!)


 想像以上のスリルに藍華は手摺を掴んだまま固まった。後ろにいるのは蒅だけなので問題はないが、正直言ってジェットコースターよりも断然こちらの方が恐怖を感じる。何より隙間が大きくて怖さがひとしおなのだ。そのうえぐらぐらと吊橋が揺れるものだからたまったものではない。


「腰が引けてるぞ。ほら、俺に掴まれ」


「う……」


「怖いんだろ?」


 びくびくしている藍華とは正反対に、平然と立っている蒅が苦笑して腕を差し出してくる。

 藍華は吊橋の手摺をほとんど両腕で抱えたような状態で、それが余計に二人の違いを際立たせていることに悔しさを感じた。だから、もう意地になっていたのかもしれない。 


「だ、大丈夫だってば」


 どう見ても大丈夫ではないのに、それでもムキになってぶんぶんと首を振って蒅の申し出を拒否した。

 彼に対してどうしてここまで強く反応してしまうのか自分でもわからない。普段の藍華はどちらかといえば裕といる時のように落ち着いている方なのに、蒅が相手となるとなぜかそうできないのだ。

 

「……ったくこれだから、人に頼れない奴ってのは」


 意固地になっている自分のことが情けなくて、怖いくせに顔を俯かせていた藍華の頭上ではあ、とため息の音がした。呆れられているのだと胸が傷んだ瞬間、視界にさっと影がかかった。


「っきゃあっ!?」


 何だと上を向いた藍華の腰を蒅がぐっと片腕で抱いた。

 そのため引き寄せられた反動で藍華の身体が蒅の胸元にぶつかる。蒅は反対側の手で手摺を掴み、二人分の体重を支えている。


「ななな、何してっ」


「頼れよ。ここに支えがいるだろ」


 狼狽える藍華に、蒅は仕方ないなと言わんばかりに嘆息して応えた。藍華の顔はちょうど蒅の鎖骨あたりで、見上げる彼女の視界に鋭い双眼と逞しい喉仏が見えている。

 その間も彼の手は藍華の腰にあるわけだが、片腕だけだというのにしっかりと藍華の身体を支えてくれていた。


「支えって」


 そんなまるで杖みたいに、と思ったが、蒅が意図しているのはつまりそういうことなのだろう。

 確かに蒅の腕は藍華をしっかりと固定してくれていて、彼のおかげで橋の揺れもさほど感じない。

 なにより、誰かが支えてくれているという安心感からか、恐怖も大分薄れていた。

 かわりに違う意味で心臓が五月蝿いけれど。

 流石にこの密着はまずいと思い、腕を持つだけにしてもらおうと藍華が口を開こうとした時、自分を見下ろしている蒅の顔に微笑が浮かんでいることに気付く。


「……何で貴方が嬉しそうなのよ」


「良い女に抱きつかれて、嬉しくない男がいるかよ」


 あっけらかんとそう言われて、藍華は息を詰めた。


「い、良い女って……」


「俺から見て、あんたはすげぇ綺麗だ」


「っ」


 飾り気のない言葉に密着している部分が一気に燃え上がったような気がした。

 至近距離で目と目を合わせ、そんなことを言われて慌てない女がいるだろうか。

 それに、蒅が作務衣ではなく普通のシャツを着ているせいか、布地の下にある張りのある筋肉の感触までが感じられる気がして一気に藍華の胸に羞恥が湧き上がる。抱きしめられるような格好で、そんなことを言ってくるなんて、まるで口説かれているみたいだ。


 どくどくと脈打つ音がまるで耳の真横でしているように聞こえる。絡み合う視線を外したくても、あまりの強さに逸らせない。

 渓流のせせらぎの音が、葉擦れの音が、すべて止まってしまったかのように思えた。

 

「今日は手は出さないって言ったからな。真ん中のところまで歩くぞ。あそこから景色を見てみるといい」


「あ……」


 止まった時間を動かしたのは蒅だ。彼は惜しむように苦笑すると、藍華の身体に寄り添いながらそっと歩みを進めた。それに倣い、藍華もゆっくり踏み板の上を歩いていく。後ろに人の姿はまだ無い。


 橋の上で二人きり。

 吊り橋効果という言葉があるが、まさかそれでどきどきしているのだろうか、と言い訳めいたことを考えた藍華は内心で自分を恥じた。


 これはそういったものではなく、きっと蒅だからこうなっているのだ。相手が、彼だから。

 もう認めるしかなかった。なにしろ蒅の前では、藍華の『余所行き』の面はあっけなく崩れてしまうからだ。しかし、それだけだ。ただそれだけの……はずだ。


「ここでいい。向こうを見てみろよ」


(わ……!)


 暫く進んでから蒅に促され視線をやれば、白い飛沫を上げて流れる渓流と、むき出しの岩肌や巨石達、それらを覆うように伸びた秋の色を帯びた樹木の群生が、これでもかと視界になだれ込んできた。

 これこそがまさに絶景というのだろう。

 天から降りた陽光に煌めく水面のひとつひとつの輝きすら、まるで奇跡のように神々しく見える。


「綺麗……本当に綺麗だわ……!」


「ああ。そうだな」


 感極まったまま思いを述べる藍華を見つめる蒅の顔は柔らかに破顔している。

 その瞳には慈しむような優しさも滲んでいるが、腕の中に囲った眩しくて美しい宝石に目を奪われているようにも見えた。


「このかずら橋には伝説があってな……落ち延びてきた平家の人間が、追手が来てもすぐに切り落とせるように蔓の橋を架けたのだとか、空海が困っている村人のために作っただとかのいわれがある」


 水の音や葉擦れの音色に混じり蒅の声が心地よく藍華の耳に届く。

 彼の語る言葉が映像となって意識に浮かんだ。


 それは歴史の教科書に必ず載っている弘法大師、空海の風ではためく着物の裾であったり、矢と刀傷を受けた逞しくも勇ましい落人の姿であったりした。


 その中でふと、藍華は思った。


 傷を負い、命からがら逃げてきた落人達の中には、想い人を郷里に残してきた者もいたのだろうか。

 敵がくれば落とさねばならないこの橋を渡り、残した女性ひとの下へ帰りたいと願った者もいたかもしれない。もしくは、生き延びて村の娘と恋に落ちた者もいただろう。 

 藍華は遠く過ぎ去りしこの地の記憶に思いを馳せた。


「ここに立つと、かつてこの橋を渡った奴は、どんなことを考えて渡ったのかとか……この橋にどんな願いをかけたのかとか……そういうことを考える。俺はこの橋が好きなんだ。で、きっとあんたも好きだろうなと思った。古いもの、好きだって言ってたしな。こういう類もきっとそうだろうって」


 思いがけない蒅の言葉に、藍華はぱっと彼に顔を向けた。

 すると鋭い、けれど優しい焦げ茶の瞳が見返してくる。

 惹き込まれるような視線に、唇が勝手に動き始めた。


「ええ……そうね。……好きだわ」


「それはなによりだ」


 藍華の答えに、蒅の顔が嬉しそうに和らいだ。それにぐっと胸をつまされる。


 彼が笑うとまるで影に月光りが一筋差し込んだような気分になる。

 それは彼自身の気配が濃い藍色を纏っているからだろうか。どこか夜の闇にも近く、それでいて時折ふときらきらと煌めく瞬間がある。まるで、濃い藍夜に月が顔を覗かせたように。


 藍華はどうしようもなく惹きつけられてしまう蒅の表情から無理やり視線を引き剥がし、延々と流れていく渓流の遥か向こうを見つめた。

 そして、自分の予感が当たっていたことを少しだけ悔やむ。


 蒅は、恐ろしいほど藍華の心を引き寄せる。まるで濃い藍甕の底に、引き摺り込むかのように。


 やはり彼と二人で過ごすのは、失敗だったのだ。

 だが後悔というのは、いつも後からやってくるものだと知っていた。


 平家の哀話を秘めた橋の上、藍華は自分がもう戻れない吊橋を進み始めているように、感じた。

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