第14話 淡藍薄布


「あんた、酷ぇ顔だな」


 そんな無礼な言葉を、他人から投げつけられたことなど、今までなかった。

 だが藍華はいま目の前にいる男から実際に言われたのだ。


(急に、なに?)


 唐突すぎて反応の遅れた思考がたちまちめぐり始める。怒りのせいだ。


 しかし何か言う前に、顔を青くしていた裕がすごい剣幕で怒り始めた。


「ちょっと! アンタってば先輩に何てこと言うのよ! 一体どういうつもり!?」


「どういうつもりも何も、俺は思ったことを口にしただけだ」


「それが悪いって言ってんのよ!!」


 売り言葉に買い言葉のごとく、蒅の言い分に裕が怒りの形相で返している。


「酷ぇ顔だからそう言ったまでだ。昨日はまだマシな顔してたがな」


 ふん、と不機嫌そうな顔の蒅に、そうしたいのはこっちの方だ、と藍華は内心呆れていた。


「女性に対して失礼でしょ!!」


「やかましい。叫ぶな」


「っアンタねえ……!!」


 蒅は裕を迷惑げに睨んでから、次に藍華に視線を移した。じろりと鋭い視線は不躾で、まるで藍華の顔色を診察しているかのようだ。濃い藍色の作務衣が、白衣にすら見える。


 彼のそんな態度に藍華も思わず眉を顰めた。


 昨日は確かにややぶっきらぼうだと感じた。でも今はそんな可愛らしい言い方では収まらない。


 普段ならこの程度のことは笑って流せる藍華だが、流石にむっとした。

 綱昭からの返信メールで朝から心がささくれたからだろうか。


「蒅! 先輩に謝って!」


「何でだよ」


「はあ!? ほんっとアンタありえないんだけど! って、ああもう、こんな時にっ!」


 急に着信音が鳴りはじめ、裕はデニムのポケットからスマホを取り出した。画面を見るなり、ため息を吐き、藍華にすまなそうに軽く頭を下げる。


「先輩ほんっとすみません蒅の馬鹿が……ちょっとお母さんから電話なんで、あっちで出てきます。蒅! アンタこれ以上先輩に失礼なこと言わないでよね!」


「五月蝿い、さっさと出てこい」


 蒅は鬱陶しいとばかりに裕へ向けて手で払いのける仕草をした。そのせいで、裕の表情がさらに険しくなる。

 裕は人差し指をびっと立てて、蒅に突きつけると大きく息を吸い込み口を開く。


「いい加減にしないと、おばさんに言いつけてやるから!」


 ふんっと鼻息荒く言った裕はもう一度藍華に会釈してから、二人のそばを少し離れ通話を初めた。

 やや口調が荒いのは言わずもがなである。


「言いつけるってガキか」


 蒅は母親と話し始めた裕を見て呆れ声でそう告げると、すいと視線を動かし藍華を見た。


「で、藍華」


 声をかけられた藍華は目だけで返事をした。怒りは裕のおかげでだいぶ収まっている。

 人が怒っていると逆に冷静になれるタイプなのだ。


「……何ですか」


「そのまま染めるつもりか? あんた」


 淡々と蒅が尋ねてくる。じっと真正面からこちらを見据える彼の目は言外に「やめとけ」と続けていた。 だがなぜそんな風に言われないといけないのか、藍華にはわからない。


 酷い顔と言われても、昨夜はむしろ今までで一番良く眠れたくらいだ。


 ここに来る前に見たメールに関しては、別だが。


「どういう意味ですか」


 一体何が気に入らないのだと、さながら挑むように藍華は問い返した。


 職人である彼には藍華の何かが気に障るのだろう。しかしそんなのは藍華の知ったことではない。


 そもそも、女に対して酷い顔とはなんて言い草だ。おべっかを使えとまでは言わないから、せめて当たり障りなく接すればいいのに。


 こういう職人気質をあからさまに出すから、若い子達が伝統工芸から離れていくのだと藍華は内心で蒅を責めた。


「あのな。んな顔で染められちゃ、蒅が泣くっての」


 はあ、とため息を吐いた蒅が言う。


 彼は身体の前で組んでいた両腕を解くと、右手でがりがりと頭を掻いて視線を別の方向に向けた。


「どんな顔してようが私の勝手―――って、ちょっと」


 言い返そうとした藍華だったが、蒅がおもむろに天井から吊るしていた布地に触れたため口を噤んだ。 彼は淡い藍色の薄布をするりと引き下げると、両手で持ち直して藍華を見た。


 蒅の藍色に染まった指先が、薄い布地に透けている。

 藍華が訝しんでいると、彼は唐突に足を踏み出し近づいてくる。


 予想外の行動に藍華はぎょっとした。


 次の瞬間、彼女の肩にふわりとした感触が触れる。


「え……」


 突然の蒅の行動に藍華は目を白黒させた。

 けれど、肩を覆い頬に触れた感触にふと気付く。


(これ……ストール?)


 急過ぎる蒅の行動に驚いたが、彼女の肩にかかっているのは薄く繊細な藍染のストールだった。


 生地はオーガンジーだろうか。

 軽やかなのに、ふんわりと温かい。


 なにより、優しい色合いをしていた。


「……綺麗」


「だろ?」


 つい感想を述べたら、目の前の男がふわりと笑う。


 先程の不機嫌さなど嘘のように、嫌味のない綺麗な笑顔だった。彼の顔右側にある傷跡が、まるで花のように見えるほどに。


「こんな風に染まるのは、染め手の心が穏やかだからだ」


 藍華にかけたストールの端を持ち上げて、蒅が語る。


「……こころ」


「染めにはその時の気持ちが嫌になるほど出るもんなんだ。荒れてる時は荒れた色になるし、沈んでたら暗く濁る」


 言いながらふっと、蒅が視線を和らげる。どこか労るような目に、藍華の心の内でようやく合点がいった。


(ああ、そういう事―――)


 藍華は蒅が言わんとしている意味をはっきりと理解した。


 彼には気付かれていたのだ。

 今の藍華の心が荒れて、沈んでいることに。


「何があったか知らんが、それ、せっかく染めるなら状態の良い時にしろ」


 ストールから手を離し、そう言って移した蒅の視線の先は藍華の手元だ。

 バッグと一緒に持ってきた紙袋の中には、木綿の私服が入っている。


 持ち込みでも染められるというのを裕に教えてもらって、持参した服だった。

 蒅が言いたかったのは、つまりはそういうことだ。


 彼は藍華の心が穏やかでないことに気付き、今日は染めるべきではないと言いたかったのだ。


「昨日のあんたは今よりもっと良い顔をしてた。なのに今日は違う。俺は昨日のあんたに染めて欲しかった。普段ならこんなこと、思わないんだがな」


「え……」


 まるで自嘲するように苦笑して言われて、藍華は思考を止めた。


 確かに、蒅の雰囲気からしてあまり客に対しておせっかいはしないタイプに思える。

 裕の言いぶりからしても、気に入らない客なら追い返してもおかしくない。


 けれど今の彼はかなり失礼ではあったが、藍華のために今日はやめておくように助言してくれているようにみえる。


「このストールはあんたにやるよ。で、その服はまた次回だ。今日はまあ、無難にハンカチでも染めてみるか」


「いいんですか? あの、ストールもですけど、染めるのも……」


 あれだけ不機嫌だったのに、打って変わって染めて良いと言われるとは思わず、藍華は意外に思った。


 先程までは染液に触れることすら嫌そうな様子だったというのに。


 それにこのストールだって、土産物店では結構な値段するはずだ。流石にただ貰うわけにいかないだろう。この一枚にはそれだけのものが込められている。


 そう考える藍華に、蒅はにやりと笑って肩を竦める。


「いいんだよ。さっきよりはマシな顔になったからな。良い品は人を良い顔にするもんだ」


「これ、貴方が染めたんでしょう?」


「だからだ」


 はっきりと言い切る蒅に藍華は少々呆気に取られた。


 普段なら高慢だと感じたかもしれない。けれど、蒅に対してはそうは思わなかった。

 確かにこのストールは良い色をしているのだ。

 藍華のささくれた心をたちまち穏やかにしてしまうほどに。


 だから藍華は素直に彼の言葉に頷いた。


「ふふ。わかりました」


「……ん。じゃあこっちに来てくれ」


 藍華が笑うと、蒅も口端を少しだけ上げた。


 その表情がやけに優しくて、一瞬だけどきりと胸が跳ねてしまう。


 蒅はまるで野生の動物のようだ。警戒心が強く、人を寄せ付けないくせに時折ふと許したような面を見せる。


 彼の鋭い瞳やしなやかな体躯は濃灰色の狼を彷彿とさせる。


 見た目は怖いし大柄で仏頂面なのに、つい触れてみたくなるような神秘的で強烈な魅力があるのだ。


(……不思議な人)


 手招きする彼の背について行きながら、藍華の心はまるで工房に干してある淡い藍色の薄布のように、優しい色に包まれていた。


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