第11話 自己嫌悪
いつもより濃く見える茜色が、スマホの黒い画面を照らしている。
反射した光はどこか刺々しく、ささくれた藍華の心を刺すようだった。
(……やっぱり)
ふう、と息を吐いて、窓の外を見る。
強い秋風に揺れる黄金の海原。
美しいが、やがて刈り取られる運命を思うと虚しく、妙な不穏ささえ感じる。
それは、今が逢魔時と呼ばれる時間帯だからだろうか。
階下からは、ほのかに味噌の香りが漂ってきている。のどかな筈なのに、自分の心には早くも木枯らしが吹いている気がした。
裕曰く、このあたりは夕暮れ時、特に風が強くなるらしい。
山を降りてきた空気が勢いを増して吹き付けるからだそうだ。
(連絡なんて、こないってわかってたのに。どうして……)
藍華は物言わぬスマホをそっとバッグの中に仕舞い込んだ。
さきほどまでの楽しい気持ちが嘘のように、ずしりと心が重くなっていく。
今日、藍華は午前中、裕の提案通り近所の散策をした。
彼女の案内で地元のスーパー「せぶん」に立ち寄り、徳島の特産品である鳴門金時という名のさつまいもを教えてもらったり、柑橘類である「すだち」のジュースを買って歩きながら飲んでみたりと、本当に学生旅行をしているようだった。
昼食は裕の母親が宣言通り腕によりをかけて徳島名物を使った料理を作ってくれ、阿波尾鶏のてりやきやハモのお吸い物、鳴門わかめのわかめご飯などに藍華は舌鼓を打った。
また女三人で食事しながら話に花を咲かせるのも、時間を忘れるほど楽しかった。
そう、楽しかったのだ。
なのに「夕飯まではゆっくりしていて欲しい」という裕の言葉に甘え、あてがわれた自室へと引っ込んだ藍華はふと、今日一度も綱昭と連絡を取っていないことに気がついてしまった。
藍華からは、朝飛行機が到着した際とっくに連絡を入れてある。
たとえ心が離れていても、形式上は夫婦という間柄なのだから義務だと考えたのだ。
しかし、綱昭からの返事はなかった。
メッセージは既読になっていたけれど。
恐らく無いだろうとは思っていたが、予想通りだったことに藍華はなぜか深く落胆していた。
(いつもの事よ。これまでも、ずっとそうだったじゃない……)
綱昭が既読のまま返事を寄越さないのはいつものこと。
そう、いつものことなのだ。
結婚後しばらく経ち、触れ合う回数が少なくなり始めた頃から彼は藍華の連絡に返事をすることがなくなった。
メッセージが既読になっても、返信がくることはまずない。
だというのに、自分は今更、何を期待していたのかと藍華は自嘲した。
(私、どうして返事を待っていたの? あの人には、とっくに裏切られているのに)
連絡が来ていたらどうだったというのだろうか。
自分は一体、何に縋っているのか。
綱昭はすでに藍華を踏み躙り尽くしている。
女ではなく家族だと言い放ち、レスへの口実としたことも。
子供のように彼女の世話を当たり前としている厚顔無恥さも。
義両親からの孫の催促を、藍華一人に押し付けていることだって。
なのに未だ彼にこだわる理由はなんなのだろう。
馬鹿馬鹿しい希望を持ってしまうのは、なぜなのだろう。
(私、わたしは……)
自分の感情がわからなくて、藍華は自問自答した。
積み重ねた信頼を断ち切られ、人として、女として、妻として、すべてを反故にされた今、綱昭を繋ぎ止める意味はあるのか、そもそも繋ぎ止めたいのか。
(ああ……)
そこまで考えた藍華は窓の向こうを見つめたまま、ふ、と自嘲の笑みを浮かべた。
都心よりも濃い茜色に晒された彼女の顔は泣き笑いしているようにも見え、涙は流れておらずともその面は悲嘆に暮れていた。
影になった首元が、藍華の内で渦巻く黒ずみを表しているかのようだ。
やがて、彼女は外を見るのをやめてだらりと頭を垂れた。
(なんだ……そういうこと)
視線の先はスカートを履いた膝。
仄かに赤いその上に、ぽつりぽつりと深い染みができていく。
そうして、藍華はなぜ自分が綱昭の連絡を気にしたのか、理解した。
(私、彼のした事が『心の浮気』かどうか、勝手に計っていたのね)
浮気には二種類あるのだと、そんな言葉をテレビか何かで聞いたことがある。
心か、身体だけなのか。その二つ。
若い頃はどちらにせよ浮気は浮気だと断言することができたのに、三十二歳という臆病になった心は無意識に防衛本能を働かせていたらしい。
もし今日、綱昭が連絡をくれていたら。
藍華はまだ彼の中には自分への気持ちがあるのかもしれないと、都合よく考えていたのだろう。
それはただの逃げで、問題を考えないようにしているだけのことなのに。
そんなもの恋でも、愛でもなければ、情でもない。
ただの執着だ。
その執着の中には、今の生活を壊したくないという卑怯な気持ちも混じっている。
なにしろ離婚ともなれば、今までとは大きく環境が変わってしまう。
独身時代に戻るなどという単純な話ではない。
周囲への説明からあらゆる手続き、転居などもしなければならないだろう。
友人や同僚からも憐れまれ、捨てられた女として藍華は見られる。
時代がどれだけ移り変わっても、そういった目は避けられない。
それは嫌だった。
自分がセックスレスの末に夫から捨てられた女であるなど、認めたくなかった。
藍華にだってプライドはある。
(身体の浮気ならかまわない、だなんて……思ってもいないくせに)
藍華は自分で自分を嘲笑った。
最低な男に未だ追い縋ろうとしていた己の心を詰り、追い込んでいく。
きっと今夜、綱昭はまたあの家に藍華の知らない女性を連れ込んでいるのだろう。
既読になっていたメッセージは、もしかしたら藍華がこの間のように突然帰ってこないかどうかを確認しただけなのかもしれない。
思いながら、藍華は裕の母親が部屋に用意してくれていた布団を横目でぼんやり眺めた。
白くて柔らかそうな、太陽の匂いがするであろう綿布団は燃えるような真っ赤な色に染まっている。
まるで愚かな藍華の心を焼き尽くすかのようだ。
けれど藍華は、今夜はようやくまともに眠れるのだと思った。
なにしろずっと吐気を我慢しながら『あの』ベッドで過ごしていたのだ。
裕とここに来るまでの二週間と少し、およそ半月近くの間、藍華はまともに眠れていなかった。
あの日。
綱昭が誰かと過ごしていた名残は、ゴミ箱だけにあったわけではない。
「っ……」
思い出しそうになった藍華は咄嗟に口元を手で強く抑え、ぐっと小さく背中を丸めた。
蹲ったまま、酷い嘔気に耐える。
身体は小刻みに震え、額やこめかみにはぶわりと冷や汗が浮かんだ。
ひどく気持ちが悪い。
喉から胸、腹の奥までもを乱暴にかき混ぜられているようだ。
一瞬でも気を抜けば、これまで口にしたものすべてを吐き出してしまいそうで、藍華は身を震わせながらじっと唇を噛み嘔気に堪えた。
そんな彼女の脳裏に、家の、寝室の光景が浮かんだ。
白いシーツの端、ともすれば見逃してしまいそうなベッドカバーの縫い目に引っかかるように着いていた自分よりも短い、そして明るい茶色の髪の毛一筋を思い出す。
同時に、換気してあってもなおこびり付いていた生々しい情事の残り香が鼻腔に鮮明に蘇ってくる。
「う……っ」
込み上げた吐き気に口を抑えた手に力を込める。
頬に指先が食い込んでいる。けれど、痛みは感じない。
あの時あの瞬間、藍華の心は完全に麻痺したからだ。
破壊された、が正しいのかもしれない。許容量を越えた心は、藍華から感覚を奪い、無気力にした。
怒りは通り越せば無になる。それは悲しみも同じくだ。
けれど記憶というのは厄介で、何度も何度も藍華に拷問のように光景を、声を、思い出させる。
嫌だと脳内で叫びを上げても、勝手に反芻を繰り返し僅かに残った心さえこれ以上無いほど切り刻んでいく。
そして頭は吐き気がするほど鮮明に、些末なことさえ思い起こさせる。
消し切れていない証拠のせいで当日の夜はソファで寝てしまったふりをしなければならなかったことも、翌日無心でシーツも何もかも取り替え床を拭き狂ったように除菌剤を振りまいたことも。
それに綱昭が気づいていないことも。
あの瞬間から藍華は日常が薄膜一枚隔てた先にあるような感覚でいた。
そうしなければ正気を保てなかったのだ。
勝手に働いた自己防衛の本能が、自分に起こったことをまるで他人事のように感じさせ、さも平然かのように身体を動かした。人形にでもなった心地だった。
けれどこうして。
自我を取り戻せば全てが吐き出したいほど嫌な記憶だった。
気を抜けば汚い汚いと叫び口汚く罵ってしまいそうだった。
けれど本当に吐き出したいのは、ただの胃の内容物ではないと知っている。
心の深底にある沸々とした怒りと悲しみと、胸を掻きむしりたくなるような怨嗟にも似た汚濁を、口から掻き出しぶちまけてしまいたかった。
実際、会社で何度吐いたかしれない。
もし見られていれば、同僚には妊娠かと思われた事だろう。
まさか、不貞の生々しい証拠のせいで吐いているなどとは露ほども思わずに。
皮肉なものだ。
同じ吐き気でも、こんなにも種類が違う。
笑ってしまうほどに。
裕のおかげで今日はその全てを忘れていられた。
けれど文字通り忘れていただけだ。
この陰惨な記憶は、決して消えることはない。恐らく一生涯。
(―――身体の浮気が何? 気持ちが悪いのよっ!! あんな風に他人の部屋で、平気でそういうことができる人間なんて……汚い! 汚い汚い汚い!!)
けれどそれが藍華の夫だ。
好いて愛して、人生を共にしようと誓った相手なのだ。
こんな風に裏切られるために結婚したわけではなかった。
こんな仕打ちを受けるために、彼を愛したわけではなかった。
藍華の胸に、綱昭と出会い、付き合い、プロポーズされ式を挙げ、彼のためにと毎日疲れていても家事をこなしていた、それでも良かったかつての自分が思い起こされる。
あの時間は一体、なんだったのだろう?
なんの意味があったのだろう?
綱昭と別れてしまえば、あの時間はすべて無駄だったことになるのだろうか?
そうしたら、彼は不倫相手の女のものになってしまうのだろうか。
それは、藍華が女として負けるということではないのか。
人生の時間を奪われたうえ、都合よく利用され、捨てられ、負けて。
自分は一体、何?
藍華の目から、とめどない涙が溢れた。
夫にすら思われない自分が何の価値もない女に思えて、もう枯れたはずの心から再び諾々と血が滲み出す。
藍華は、ただでさえさほど高くなかった自己肯定感をこれでもかというほど叩き潰されてしまった。
浮気とは、不倫とは、どうしてこうも残酷な仕打ちなのだろうか。
ありありと残る証拠に心を斬り殺され、血を流し続ける傷すら記憶によってえぐられる。
終わりがない苦痛は絶望だ。
心の殺人。まさにその通りだ。
テレビドラマの主役のように、そんな男はいらないと切り捨てられたらどれほど楽だろう。
復讐してやると目的を持てたらどんなに楽だろう。
だが現実はそうはいかない。
人は、そんなに単純ではない。
動くには気力がいる。生きるための力がいる。
だが今の藍華は無気力だ。
心を殺されたのだ。心が死ねば、人は生きているとは言えない。
それにどうするかも決められていない。
ただ別れるのか。別れ方も離婚届を置いて出るだけの方法もあれば、会話を伴う方法もある。復讐という選択肢だってある。金銭で解決するのか、それとも自滅覚悟で彼も相手の女性もすべて巻き込んでしまうのか。
いずれもまだ、藍華には決める気力がない。
そのせいか、一度は愛した相手だというのに、藍華は今や綱昭の死すら望む瞬間がある。
会社帰りに事故にでも遭ってくれれば。
そうすればもう、何も決めなくていい。動かなくていい。
それがたとえ逃げだとしても。泥沼の底のように濁った感情が自分の根底にあることを、まざまざと見せつけられなくて済む。
(……嫌だ……嫌……こんな、私)
手に負えない汚い感情が、藍華の奥底で渦巻いている。
こんな気持ち、知らないでいたかったと藍華は口元の手を白くなるほど硬く握りしめた。
―――その後、深夜一時を過ぎた頃。
泥のように眠る藍華の横で、彼女のバッグから淡い光が漏れ出ていた。
それはスマホの通知画面によるもの。
『返事できなくて悪い。旅行、楽しんでこいよ』
夫からの連絡が入っていることを知らずに、藍華はただ静かな眠りに沈んでいた。
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