第9話 指輪の重さ
「もしかしたら先輩、あいつに気に入られちゃったかもしれませんねぇ」
「え?」
裕の実家に着いて早々、蒅は二人を降ろすなり「仕事に戻る」と言って帰ってしまった。
彼のブルーカラーのSUVを見送った後、振り返った裕の言葉に藍華は首を傾げる。
そうは思えなかったからだ。
あの後はずっと裕と蒅の二人が口喧嘩を繰り返していただけで、藍華は彼とさほど話してはいない。最初に会った時に少し会話した程度だ。
しかも蒅はあまり感情が顔に出ないのか、終始無表情に近かった。変化があったのは、最初に会った時以降では裕に怒る時くらいだったように思う。
「だって蒅があんな風に女の人と話すの、見たことないですもん」
困惑する藍華に裕がえっへんと胸を張って断言する。
彼女からすると、蒅の態度は普段と違うところがあったらしい。
けれどそれは藍華が「裕の職場の先輩」だからではなかろうか。
「裕ちゃんの為に頑張ってくれたんじゃない?」
「いーえ! あいつは相手関係なく気に入らなきゃ平気で無視しますからね! それに、本当なら藍染体験って午後からしか受け付けてないんです。なのに、明日の朝は先輩の為に空けとくって言ったんですよ……!? あいつ普段は絶対そんな事しないのに!」
「え、そうなの?」
「そ・う・な・ん・です!」
驚く藍華に裕がぶんぶんと首を縦に振って断言する。鼻息の荒さと勢いに藍華はやや引いてしまったが、それよりもイレギュラーらしい蒅の対応に驚いていた。
てっきり偶々空いていたのだろうと思っていたのだ。
客を特別扱いするタイプには見えなかったし、良くも悪くも職人気質な様子だったから。
だがその理由はやはり、裕のためだと思うのだが。幼馴染みが職場の先輩を連れて来たのだ。その位の親切はしてやろうと人間思うものだろう。
しかし裕は藍華の思考を読んだかのように、はあ~っと大げさな溜息を吐きながら「先輩、これがどんだけレアかわかってないです。ほんと、ありえないんです!」と息巻いている。
そうは言われても、まだ少ししか彼と過ごしていない藍華は普段の蒅のことなどわからず困惑してしまう。
すると裕も流石に説明が必要だと思ったのか、苦笑して肩を竦めた。
「あいつ、ああ見えて割と忙しいんですよ。藍染自体が元々手間のかかる作業ですし、大手のデパートとか物産展とか、依頼された商品の納期にいつも追われてるんです。最近はふるさと納税の商品にもなったらしくて、本当寝る暇も無いみたいで。他にも大学で講師やったりとか、展示とかもしてますし」
流石幼馴染みといったところか。裕はすらすらと説明をしてくれた。
伝統工芸の職人という大まかなイメージは藍華にもあったものの、具体的な生活の様子については知る由も無かった。
なるほど確かに忙しそうである。
「だったら悪い事したかしら。私は別に午後でもいつでもいいんだけど」
かなり気を遣わせてしまったのだろうか。名前のこともすぐに察してくれたし、藍華が藍染体験をやりたがっているのを見抜いて無理に時間を取ってくれたのかもしれない。そう考えると悪い気がした。
だが、裕はまたもや首を振る。
「全然気にしなくて良いと思いますよ。あいつが自分から午前にって言ったんですし」
「そう……かしら」
「大丈夫ですって。まあかなり驚きましたけど! でも……んふふふふ。あいつもあんな顔してやっぱり美人には弱いんだなぁ~。おかげでいいネタになりそう!」
「ネタって……」
戸惑う藍華を横目に、裕はくふくふと含み笑いをしてそんな事を言う。
まるで悪戯を思いついた女子中学生のようだ。
職場ではもう少し大人びている彼女だが、地元効果というのは強いのか、いつもより少し幼い雰囲気に見える気がする。
きっと彼女の「気」が良い意味で緩んでいるからだろう。
「あー、明日が楽しみです! いつも嫌味ばっか言われてる分、絶対からかってやるんだから!」
鼻息荒く言ってから、裕は家の玄関へと入っていく。
彼女の実家は今風のモダンな造りで、都心の住宅よりも遥かに大きかった。
庭には畑があり、その向こうには澄んだ空と一面の黄金色が広がっている。ふくよかに穂を実らせた稲はまるで金色の絨毯のようだ。
「お母さーん! ただいまー! 先輩連れて来たよー!」
「まあまあ、貴女が藍華さんね。うちの裕がいつもお世話になっております」
裕の声に家の奥から女性が顔を出した。優しげな人だ。
女性は裕を見るなり笑みを浮かべ、ゆっくりした足取りで歩いてくる。
裕の母親らしい。
藍華は姿勢を正してから軽く会釈した。
「初めまして。泉藍華です。こちらこそ、裕さんにはお世話になってます。今日はお招きいただきましてありがとうございます」
藍華は少しだけ仕事モードの顔を張り付け丁寧に挨拶をしながら、蒅のあの鋭い瞳を思い出していた。
彼と出会った時、不思議な感覚した。
一瞬時が止まったような、彼以外の存在が全て薄く消えて他は見えなくなってしまったような、どこか危険な感覚は生まれて初めて感じるものだった。
夫である綱昭と出会った時ですら、あんな風になったことはない。
まるで全身の血がさざ波のようにざわめくような……そこまで考えて、藍華は先を掘り下げるのをやめた。
本能が言うのだ。それはしてはいけないと。
藍華は頭から蒅の瞳を追い払った。
「いえいえ。こちらこそお越しいただいて嬉しいわ。どうぞゆっくりなさってね」
「ありがとうございます。暫くお世話になります。あのこれ、つまらないものですが、よろしければどうぞ召し上がってください」
礼を告げ、藍華は持参していた手土産を渡した。
裕にはいらないと言われたが、こういうのは礼儀なのできちんとしておきたかった。
「あら、そんなに気を遣わなくてもいいんですよ。きっと裕がご迷惑をおかけしてるんでしょうし……」
言いながら裕の母親は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
裕の母親は溌溂とした彼女とは違い、おっとりとした少しふくよかな女性だった。
身長は藍華より頭半分ほど低く、淡いグリーンの七分袖と茶色いひざ丈スカートが上品に似合っている。 お団子頭に垂れ目がちな優しい顔立ちはまさに「お母さん」という言葉がぴったりだ。
「もーお母さん! 先輩の厚意なんだから貰っとこうよ。てゆーか押し問答してる時間がもったいなーい。あたし喉乾いた!」
「ちょっと裕、あんたって子は。……じゃあ、せっかくだからいただきますね。その代わり、お昼ご飯は楽しみにしていてくださいな。さ、どうぞ中にお入りになって」
「はい。お邪魔します」
鶴の一声ならぬ裕の一声で場が収まり、藍華は履いていたローパンプスを脱いで揃えると用意してくれていたスリッパに足を入れた。
「あら。藍華さんってご結婚なさってるのね。ね、裕はどうかしら? 会社でいい感じになってる方とか、います?」
「ちょっとお母さん!?」
「え、ええと」
靴を揃える藍華の左手を見て、裕の母親はにこにことそう訊ねてくる。大慌てな裕の隣で、藍華はどう応えたものかと苦笑した。
流石母親と言うべきか。実はつい先日、彼女は他部署の男性社員からLINEのアドレス交換を求められていたのだ。
「そーいうのは個人情報なので! はいはい! 先輩だって疲れてるんだから、さっさと休ませてあげてねー!」
「もう裕ったら。お母さんが貴女の歳にはもう結婚してたのよ」
「今はそんな時代じゃありませーん!」
母娘二人の微笑ましいやり取りを見ながら、藍華はこの旅行は楽しいものになると確信していた。
一つだけ気になることはあるが、そっと知らない振りをする。
「……そういや、蒅のやつも先輩の指輪、気付いてるかなぁ」
裕が藍華の左手を目で示す。その薬指には銀色の指輪がはまっていた。
綱昭の妻である証だ。
藍華は、普段は気にならない指輪が今は少しだけ、重くなった気がした。
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