藍に堕ちて 〜哀しき妻は、裏切りの果てに愛される〜

国樹田 樹

第1話 藍空

 予感は、あったのだ。

 初めて会ったあの瞬間に、運命とはこういうものなのかと思った。


「―――最初にあんたを見た時、予感がした。手を出せば、取り返しがつかなくなると。俺は職人だから、一度手にすれば離せなくなる。いつまでも何度でも、顔を突き合わせていたくなるんだ」


 薄闇の中、すくもが鋭い視線で藍華らんかを射貫く。


 夜の作業場には染め液の独特な香りが充満していて、それを全身に纏う男は墨を溶かしたがごとき濃く深い瞳をしていた。

 まるで、あの時に見た藍がめの底のように。


 彼の瞳は藍華の身も心も染めてしまいそうなほど苛烈だ。腕を掴む手は力強く、抗えない。


「だから……惚れたら、諦めるって選択肢はない」


 ぐっと藍華の身体を引き寄せて、顔を突き合わせ蒅が告げる。

 目を見開いた藍華の顔が、蒅の瞳に映り込んでいた。

 近づいた距離のせいか、蒅の作務衣から彼の汗と藍のもつ独特な香りが鼻を掠めた。


「俺に堕ちろよ、藍華」


「っ……」


 言うが早いか、精悍な面が迫り唇を塞がれる。


 突っぱねようと腕に力を込めてもびくともせず、抗う間もなく分厚い舌が口腔にねじ込まれた。衝撃に動きを止めた瞬間、背筋を強く甘やかな刺激が走り抜けていく。


(どう、してーーーっ)


 信じられない思いで強行に出た男を見返せば、鋭い瞳孔に身を貫かれあまりの強さに息が止まる。


 腰はいつの間にかぐるりと太い腕に囲われ、隙間もないほど引き寄せられていた。

 荒い吐息に、衣擦れの音が混じり込んでいる。


「っ…は」


 駄目だ。

 これは、駄目だ。


 藍華の理性が声高に叫ぶ。


 しかし、引き締まった男の体躯をどうにか押し退けんと身じろぎすれば、離れるのは許さないとばかりにより一層抱き竦められる。


 逃げられない。

 この男からは。


 それは確信か。諦念か。

 腹の底からぞくりとした悪寒めいた震えが沸き立つのを、藍華はまざまざと感じた。

 取り返しのつかない恐怖は、どこか歓喜にも酷似している。


「あんたはいい女だ。綺麗で、可愛くて……腹立つくらい一途で。けど報われてない。だったら俺が貰う。奪ってでも、あんたを俺で染めてやる。旦那のところになんて、帰さない」


「待、って……!」


 藍華は嫌々と子供のように首を振り、激しすぎる愛撫へ抵抗した。


 けれどこうも荒々しく、純粋に求められるのは泣きたくなるほど久方ぶりで、且つ恐ろしいほどに惹かれている男の感触が藍華の理性を奪っていく。


「嫌だ。待ってたらあんたは俺の前から消えちまう。だから、離さない」


「蒅……!」


 ひと時唇が解放されたかと思えば、今度は顎を掴まれ被さるように口を塞がれた。かろうじて名を呼べば、より一層目の前の瞳が燃え上がる。


 息が止まりそうだ。


 まるで陸に打ち上げられた魚のように、酸欠で意識が混濁していく。上がった熱で頭がぐらぐらと煮える。腰をがちりと固定する腕も、顎を捕らえる指先も、彼が触れている部分すべてが熱過ぎる。


 性急に求められる感覚は、これほど身も心も震わせるものだったのかと、藍華は今、思い知った。


「あんたが欲しい。藍華」


(ああーーー……)


 藍華はささやかな力で蒅の厚い胸板を押しながら、内心では両手で顔を覆って泣き咽びそうだった。


 自分を愛して欲しい。

 求めて欲しい。


 藍華の奥底で隠れていた感情が叫びを上げる。


「俺の傍にいてくれ。頼むからーーー」


 唇を離した蒅が、両腕で藍華を抱き締め首元に顔を埋めた。熱い吐息が肌を掠める刺激に、藍華の身体がびくりと撥ねる。


「藍華、藍華……頼む」


 全てを奪い取らんばかりだった低い声が、強引さを削ぎ落とし切ない懇願へと変わっていく。


「あんたを蔑ろにするような男なんて、やめちまえ。俺にしろ。俺に……してくれよ」


 吐息混じりで縋るような声に、藍華の手から力が抜けた。

 抵抗すら忘れ、されるがままに立ち尽くす。


(どう、して……? どうして、こんなにも惹かれてしまうの。どうして、こんなにも、嬉しいの……っ)


 自分ですら自分を無価値だと思い始めていた藍華の心に、切望の声が突き刺さる。


 欲しいと言われ、己を選んで欲しいとこうも切なく訴えられては、ただでさえ壊れかけていた、否とうに壊れていた無防備な藍華の心が耐えられるはずもなかった。


 蒅の言葉がいちいち心に沁み込んで、嫌になるほど感情が揺さぶられる。

 奪われた唇以上に熱を帯びているのは目元だ。

 液体がしとどに頬を濡らす感覚に、ああ自分は泣いているのかと藍華はようやく気が付いた。


 求められたかった。

 愛されたかった。


 人は誰しも愛されたいのだ。


 それは藍華とて同じだった。


 けれど藍華が愛した男は、裏切りしか返してくれなくて。


「っ……っ、う」


「藍華」


 藍華は泣いていた。

 とめどない涙が彼女の頬を濡らしていく。


 その柔かな肌に、蒅の手が優しく触れる。流れる涙を拭う指先は、少し固く、かさついているのにこの世の何より藍華の心を慈しんでいた。


 頼むから、お願いだからこれ以上心に入り込まないで欲しい。

 戻れなくなってしまうから。


 藍華は啜り泣きながらゆるゆると首を振った。そんな女の身体を抱き締めて、蒅は流し込むように恋情を囁く。


「好きだ。あんたじゃないと、駄目なんだ」


 吐き出さねば生きてはおれぬとばかりに告げる男の瞳はどろりと甘く、煮え滾る渇望を隠しもしていない。


「俺に堕ちてくれ……藍華」


 平静さが奪われていく。

 何もかも捨てて、この腕の中に、彼が染める布地のように堕ちてしまえたら――


 だがそうなれば。


 堕ちて、染まって、二度と戻れなくなってしまうだろう。


 予感があったのだ。

 なのに。


 彼の藍に濃く染まった手を―――取りたいと、藍華は願ってしまっていた。


◇◇◇


 恋愛に関する話で、相手の色に染まる、という言葉がある。


 元は結婚式にある「お色直し」から由来し、白無垢の花嫁が色打掛に衣装替えすることで「相手の家に染まる」との意味が込められていたそうだ。


 ならば、と思う。

 もしも。


 嫁いだ先、伴侶と決めた夫以外の男に、花嫁が染められたならば。


 その花嫁は一体、どうなるのだろう―――と。



「後は私がやるから。帰って良いわよ」


 窓に夜空が切り取られる頃合いに、泉藍華いずみらんかはパソコンの画面を見たままそう告げた。


 すると隣のデスクから安堵の気配がして、ちらりと視線をやれば青い顔に少しの喜色を滲ませた後輩がいる。

 彼女の肩に流れる黒い素髪が、動きに合わせ僅かに揺れた。


「藍華先輩……いいんですか? 助かりますけど、でも」


 定時を過ぎたからか、後輩は藍華を下の名で呼んだ。聞き慣れた声音には申し訳ない、という謝罪と強い罪悪感が滲んでいる。


「いいわよ。悪阻つわり、辛いんでしょ」


 そう苦笑しつつ藍華が言えば、後輩は落ち着かない様子で申し訳無さそうに「すみません」と告げて、残った仕事のデータを藍華の社内アカウントに送信してきた。


 一緒に役立ちそうなファイルも添付してくるあたり、本来は仕事の出来る彼女らしいと藍華は思う。


 そして以前の彼女なら、定時迄に仕事が終わらないなんて事は無かったとも考えた。

 だが今はどうしても時間が足りないのだ。


 八時間かかる仕事が五時間で終わるわけが無い。単純に物理的な話である。だからこれは仕方がないのだ。藍華が後輩の残りの仕事を請け負うのにも、もう慣れた。


「気をつけて帰ってね」


「ありがとうございます。お疲れ様でした」


 藍華はパソコンから顔を離して後輩を見上げた。


 彼女は綺麗な角度で頭を下げて、やや気落ちした声で感謝を伝えてくれる。

 いいよ、と藍華が手を振ると、後輩は眉尻を下げたままもう一度頭を下げてフロアを出て行く。


 後輩が出口に向く一瞬、藍華は彼女の少し膨らんだ腹部に視線を向けた。

 身体は以前とさほど変わらず細いのに、そこだけが僅かにふっくらしている。


 ゆったりしたワンピースの裾がふわりと揺れて、暗くなったフロアに曲線の影を描いていた。

 ヒールの無いぺたんこ靴は可愛らしく、藍華は後輩の後ろ姿を見ながらまるで少女のようだな、と思った。


 以前は八センチヒールでフロアを闊歩していた彼女は現在、妊娠四ヶ月だ。

 仕事もそれに合わせ時短勤務になった。

 午前が弱い彼女の場合は昼一時から夕方六時迄が勤務時間。

 だというのに、今日は一時間以上も残業していたのだ。

 悪阻で辛い身体を押してまで頑張ったのは、時間内に仕事が終わらなかった罪悪感ゆえだろう。


 青褪めた顔で頻繁に手洗いへと向かう彼女は傍目から見ても辛そうだった。

 無理せずともいいと言っても、真面目な性格ゆえ頑として自分でやると言って聞かなかった。


 流石に残業一時間過ぎてからは観念してくれたようだったが。


 どちらかと言えば出来る女なコンサバ系だった彼女は、今やふんわりしたガーリー系お嬢さんに変身している。

 かつてはカラーもパーマもしっかり施されていた髪は今や自然な黒色で、髪型もナチュラルなストレートだ。


「なんかもう、そういうのいいや……って感じなんです」


 そう告げた彼女の顔は、男性社員をやり込めていた負けん気よりも、母となる喜びに溢れていた。


 妊娠で女性は変化すると言うけれど、見た目だけではなく性格までこうも変わるのかと藍華は驚いたものだ。


「子供、かぁ……」


 暗くなったフロアで誰にともなく一人呟く。


 残っているのは藍華一人だけ。


 照明が彼女のいる場所だけをスポットライトの如く照らしている。

 ずらりと並んだ物言わぬパソコン達の黒い画面が虚しい。

 人気の無い社内はどこか、学生時代に見た放課後の校舎を思わせる。


 顔振りや年齢が変わるだけで、結局人は建物の中に引きこもり机に座っているのだと思い知らされている気がした。


「連絡したほうがいいのかな……」


 ふと窓を見れば、夜空はいつの間にか鼠色の雲に覆われ星々の姿は消えていた。


 月すらも顔を隠し、いびつな形の暗い雲はさながら埃の塊のよう。

 柔らかそうに見えても、綺麗ではない。


 曇り空は藍華の気持ちを暗鬱とさせた。そこには疲労感以外も含まれている。

 仕事はまだ終わりそうにない。


 一人きりのフロアで壁にある時計へ目を向けると案の定、針は夜七時半を過ぎている。


 パソコンの画面上でも確認は出来るのに、わざわざそうしたのは短針と長針の位置を見たかったからだ。


 残っている仕事の量からして、帰宅は十時を越えるだろう。

 なら連絡をしなければ。

 そう思いスマホを手に取ろうとして―――藍華は動きを止めた。


「……必要、ないか」


 フロアの暗がりにぽつりと溢れた声が溶けて消える。連絡をしようと頭に描いた人物は、本来なら藍華にとってこの世で一番大切な人である筈だった。

 しかしそれが既に過去の事になっている気がして、藍華はスマホに近付けた手をそっとキーボードの上に戻した。


 連絡を取ろうとした相手は夫だ。

 そう夫。


 今はただ紙切れ一枚だけの関係のように思える藍華の伴侶。


 夫の事を考えると、頭の端に痺れたような鈍痛が走るのを藍華は顔を歪めて受け流した。


 パソコンの画面が放つ電子の明かりが虚ろな瞳を照らしている。


 今を生きる働く女達の多くが、夫よりもこの四角い機械と触れ合う時間の方が多いのだろう。


 けれど藍華の場合は比べる余地も無い。


 つい先日のある出来事をきっかけに、夫である泉綱昭いずみつなあきと近頃は口付けすらしていないからだ。


 それが今の藍華達『夫婦』の形だった。


 今夜とて帰宅しているのかどうかも知らない。


 藍華は後輩の膨らんだお腹を思い出した。

 あの中には愛情とか幸せとかが詰まっているように思えて、その羨ましさに無意識に眉間に強く力が入る。


 藍華の瞳に、白い電子の明かりが滲む。

 ややあって、藍華は深く嘆息し頭を振った。


 馬鹿馬鹿しい。


 後輩の腹にいるのは胎児であって、藍華が考えているような「愛された証」などというものではない。


 確かに赤子の誕生は妻が夫に愛された証であり、幸せそのものだ。

 しかし、藍華が考えているのはそういった事ではない。


 なぜ自分はああなれないのか、なんて思うのはお門違いだ。


「藍華先輩、か」


 今年三十二を迎えた藍華は社内でそう呼ばれることが増えた。


 それは当たり前の事な筈なのに、生憎彼女が所属する課でそう呼ばれるのは藍華だけだった。


 一緒に入った同期達は転職だったりあるいは結婚だったり、産休だったりで皆いなくなっていた。


 残った同僚も子供ができるとみな時短勤務やパートなどの勤務形態の切り替えを選択した。


 そのため夜遅くまで残業するのは藍華のような独身者くらいだ。

 金銭的に苦しくないなら、藍華だって子供ができればそうしただろう。

 何しろ彼女自身、いつかはそうしようと考えていた。


 だが今の藍華に子供はいない。


 そういった夫婦も昨今は特に珍しくはないのだろう。

 だが藍華の場合は少し違う。それに関係する『接触自体』がここ数年無いからだ。

 いや、正しくは接触を試みたものの拒否された、というのが正解である。


 藍華達夫婦はいわゆる「セックスレス」という状態だった。


 しかも夫から拒否されているかたちでの。


「家族……」


 その時夫に言われた言葉の一つを口にして、藍華はふと帳の降りた窓を見つめた。


 曇り空の隙間から濃く深い、空の様々なものが混じり合った青ーーー藍色が見えている。


 複雑な色彩は、まるで今の藍華の心情を映し込んだようだ。


 藍華はふと思う。

 確か藍色とは、紺とは違っているのだと。


 よく空を紺青とたとえるけれど、藍色は紺ではなく単純な青でもないのだ。

 深く、暗い緑がかった青が【藍色】と呼ばれる色らしい。


 あの日もこれと同じような夜空だった、と藍華は辛い記憶を思い返した。


 その夜。


 藍華は女としてのプライドも、愛情も、両方とも夫に傷つけられた。

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