第四章 冬籠もりの間に 2
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皇帝ヴィルヘルムが唯一強くものを言えない人間---------それが第十二個師団雪光隊将軍ヴィウェン・シェイだ。
彼は十二将軍のなかで唯一前皇帝の時代から宮廷に仕えている男で、勤続はかれこれ四十四年になろうとしている。皇帝ヴィルヘルムが誕生してからは警護役、以来彼の側役として長年仕えている。だから、さしもの皇帝も彼にはどこか頭が上がらない。他の将軍の提案では受け入れられなくても、彼に同じことを言われると気が向いてしまうのは、ひとえに歳月に育てられた親近感のようなものがあるからだといってもいい。
さて、皇帝若かりし頃、今から遡ってざっと二十一年前、ヴィウェン将軍は三十九歳、皇帝はこの頃皇太子で歳は十二歳、二人はお忍びでちょっとした旅に出た。皇太子ヴィルヘルムはまだ少年といっていい年齢なれど、その貫禄たるやそこらの大人顔負けのもので、早くから器の大きさを感じさせるものを全身に漂わせていた。歩くと空気もお供をする、そんな形容が昔も今もぴったりの男であった。
「殿下、まずいですよ」
「何がだ」
「こんな……遠くまで来てしまっては」
「ヴィウェン。何を言う。人を使う立場の人間は使われてみなくてはならない。これが我が国の方針だ」
「しかし」
「そうとはいかなくとも見聞を広めたほうがいいに決まっている」
「……」
ヴイウェンはそっとため息をついた。このお方は、小さい頃からなにを言ってもこれと決めたことは絶対に実行なさる方だ。ずんずん歩いていくヴィルヘルムを見ながら、彼は心中そんなことを呟いていた。この方が即位なさるのはいったいいつのことだろうか、その時が楽しみでならない。その時は、彼の配下のほんの隅っこでいいから、加えてもらいたいものだ。
ヴィウェンは辺りを見回して、滞在している街がかなり豊かで大きいということを再認識していた。
「殿下、ここは確かアデンという街でしたな」
ああ、と皇太子ヴィルヘルムは短くこたえた。鷹のような瞳をしている。目にとらえるものすべて、見逃すまいとしている天性の武人の瞳だ。この瞳にとらえられれば女は魅了され男はひざまづき敵は次の瞬間に息絶える。
ヴィウェンはこの皇太子は歴史の生み出した大物と見ている。恐らく将来の皇帝ヴィルヘルムの素質を見抜いた最初の人物であろう。
しかし豊かな街だ、ヴィウェンは歩きながら内心舌を巻いていた。広い公道、高い建物に、豊かな物資。生活が安定していれば人間の人相も善良なものになる。道ゆく人はみな穏やかな顔の者ばかりで、売っている品物のどれも質がよくしかも安い。
(ふむ……)
ヴィウェンが腕を組んだ時だ。近くの宝石店から、一組の男女がでてきた。まだ若い。 そして笑いながら肩を組んで歩き、男のほうがなにか取り出している。
「ほらイリーナ、手を出して」
すれ違いごしに彼が取り出したものは婚約指輪だったと、ヴィウェンは軍人特有の観察力でそれを見抜いていた。
「嬉しいリオン……」
そんなことを囁き合う恋人たちが過ぎ去っていくのをぼうっと見ていたヴィウェンは、いつしか自分が皇太子とかなり距離を置いてしまっていることに気付いて、慌てて彼を追い掛けていった。離れて見るとよくわかるものなのだが、皇太子はあの風格で自身を二、三歳年上に見せる。今は御歳十二歳だが、軽く十五歳に見える。背が高いしがっしりしているからだろうが、彼が成長したとき、女たちの騒ぎぶりが目に見えるような気がして、なにやらヴィウェンは複雑だった。そして帝国でひとり自分を待つ妻を想った。無事でいるだろうか。一応自分の実家にいてもらうことになったから安心だが、愛妻家の彼としては不安だ。いつなにが起こるとも限らない。宿をとるというのに放心しているヴィウェンを見て、皇太子は声をかけようとしてしかし、寸前でなにを思ったのかなにも言わなかった。
「ヴィウェン」
「は、はい」
食事のとき皇太子は尋ねた。
「細君のことを想っているのか」
「は……」
「隠さんでもいい」
にやにやとからかうような笑いを浮かべながら皇太子は言った。運ばれてきた食事を食べながら二人はしばし無言だったが、皇太子は突然、
「帰ってもいいのだぞ」
と言った。ヴィウェンは驚いて顔を上げ、
「そ……それは厄介払いで?」
皇太子はふふと笑う。
「違う。今回は俺のわがままだ。なにも、お前を無理矢理連れてくることはなかったのだ。 帰りたいのなら帰ってもいいぞ」
「殿下」
しかしヴィウェンは今回ばかりは吃となり皇太子を見据えた。
「なにをおっしゃいます。私は殿下がご生誕してよりこのかた、殿下にお仕えしているのです。これは軍人の務めです。妻もそれを承知で私と結ばれたはず。もし留守中になにかあっても、それは仕方のないことです」
「……」
皇太子はしばらくヴィウェンの顔を見ていたが、やがてまた食事に専念し始めると、
「しかしヴィウェン、顔はそうは言っておらんぞ」
「は……」
「そうだろうな。どちらも大切なのだ。妻も軍人としての誇りも。お前は凄い、どちらも両立している」
ヴィウェンは食事を続ける皇太子の姿をじっと見つめた。
(殿下……)
なぜ彼がこんなことを言うのかは皆目検討も及ばなかったが、とにかく意外だった。普段の彼からは、ちょっと想像しにくい。そしてヴィウェンはまた食事を続け、沈黙しながら心のなかで皇太子の言ったことを反芻した。そして、言われたことが確かに真実だということを自身で確認していた。
そう、いくら口ではこう言っていても、実際帰って妻が亡くなっていたりしたら、それが自分の留守がもしかして原因だとしたら、そんなに無念なことはない。
しかしだからといって皇太子を恨むのは筋違いだ。自分で選んでついていった以上は、自分が招いた結果、責任は己れにある。そして妻もそれを承知しているはず。互いの了承の上で何かが起こったとして、いったい誰に何を求めろというのだ。彼は思った。
妻が恋しいのは確かだ。しかし殿下のお側役の任務を放ってまで、会いにいきたいと思うほどあさはかでもない。自分は骨の髄まで軍人なのだ。彼は先程の若い恋人たちを思い出した。幸せそうな顔をしていた。
「……」
ヴィウェンは酒場のカウンターを凝視しながら食事を続ける皇太子を見てつくづく思った、
この方に一生ついていこう。
それからアデンに二日滞在し、二人はさらに西へ赴いた。しばらく草原を馬で駆ると、かなたに山脈が聳えている。その山の内のひとつに、まるで絵画のように風景と一致した庵が立っている。
「有名な槍師のディドーン殿のお住まいです」
ヴィウェンは山を凝視する皇太子に説明した。皇太子は口のなかでそうか、と呟いたきり、興味がなかったのかすぐにそこから目を離した。一週間くらい各地の街を点々とし続け、いつしか帝国領でない場所にも足を踏み入れる。その街で滞在中二人はこんな光景に何度か出くわした。
「おい小僧! どこを見て歩いてる。軍人様にぶつかるなんていい度胸だ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝りゃいいって問題じゃねえ! 見ろ汚れた。弁償してもらおうか」
だとか、或いは、
「もうちょっと待ってください。母が病気で……」
「もう何度も聞いたよ。気の毒だとは思うけどねえ、もう二年も期限を伸ばしているんだよ、あんたのお父さんがいなくなって。これはもう身体を売ってもらうしかないね」
「えっ……」
「ほら、連れていきな」
と、嫌がる娘の髪を引っ張って連れていく商人など。
「……」
皇太子は何度か立ち止まってそんな光景を凝視していた。真剣な眼差しに、ヴィウェン自身もいたたまれなくなったせいもあって、
「殿下、」
囁きかけた。
「助けましょうか?」
「いや……他国のことだ。俺がなにかやって問題を起こしたらまずい」
皇太子は足早に去るのみ。
しかしその皇太子の握った拳が微かに震えているのをヴィウェンは見逃さなかった。
ぐっと何かを睨むように前を見据える皇太子の瞳には強い光が生まれていた。後から思えば、皇帝ヴィルヘルムの帝国統一思想はここから来ているのかもしれない。
---------陛下はあの時、ご自分がアルヴェンゼ帝国の皇太子でなかったら、何度もそう思われたことだろう。
ヴィウェンは時々思う。
あの方は、ああは言っていてもご自分の立場をよくわかっていなさる。皇太子がお忍びとはいえ他国で騒ぎを起こしては、無事だった場合はいいが多くはかなり厄介な問題ばかりゆえ、必ず弊害が起きる。その時皇太子として彼は最低限自分の身の安全をはからなければならない。そして他国なら尚更、彼は自分が皇太子であるということを知られてはならない。
彼の両肩には未来の帝国国民十数億の生活がかかっているのだ。
しかしもし、皇太子でなかったら---------。
問題を起こしても、生命に関わるようなことに首を突っ込んでも、まったく平気な立場
の人間だったら---------その正義感に任せてどんなことにだって首を突っ込んでいただろう。実力もあって正義感も持ち合わせているのに、自分ではどうにもならない「身分」という名の、自分を繋ぐ鎖、努力してもこれだけはどうにもならない見えない鎖に縛られて行動を起こすことができないというのは、相当辛いことに違いない。
だからこそ、皇帝が世界を統一するために戦に乗り出した時、ヴィウェンは身に染みてその理由がわかった。 私腹を肥やすためでも、名を上げたいからでもなく、ただ力ない弱い人々、彼らを救えなかったことをその日まで悔やんで、直接的にだめならせめて間接的にと、彼らを救うための彼なりの救世策。
そのためどれだけ苛烈な生活が待っているかは彼自身が承知のはずであった。しかし彼は選んだのだ。
歴史にただその名が羅列するだけの皇帝よりも、短くとも皇帝の名に恥じぬ一生事業を。
即位二十五歳、若い皇帝が即位同時に成婚した年、若い娘の自殺が相次いだ。それを報告したヴィウェンに、まさか自分が原因とは思っていないのだろう、顔を上げ、
「今年はやけに若い娘の自殺が多いな」
と言った皇帝、その顔は正に皇帝そのものの顔だった。娘たちはそんな彼に惹かれて彼にかなわぬと知っていながらも恋をし、そして彼だけのためにその一生を終えたのだ。先代までの軍隊を解体し再編成するのには五年かかった。
その中から十一人、優秀な人間を選んでほしいとヴィウェンは初期から言われていた。 身分家柄年齢性別にいっさい関わらず実力のある人間を。人を引き付け引っ張っていくのにたやすい人間を。ヴィウェンは五年間辛抱強く軍部を観察した。成長の著しい人物、最初からこれはと思う者、五年間よくよく吟味して彼は最終判断を下し皇帝に提出した。 下は庶民の生まれから上は上級貴族まで、文字どおり身分その他にいっさい頓着せずに選んだ。優秀な人間ばかりだ。
「新しく軍隊を編成する」
彼は開口一番言った。
「一個師団五千人程度の隊をつくり統率を将軍に任せたいと思う」
「ではこの十一人を将軍に」
その中には今年二十歳の娘もいた。驚異の三段階昇格は皇帝の耳にも入っている。
ヴィウェンは自分の仕事は終わったと思った。求められないのに自分を使ってほしいと懇願するほど、彼は自分では愚かではないつもりだった。陛下もご立派になったものだ、そう思うのと同時に、一抹の寂しさを禁じえないヴィウェンだった。
「そして最初の任命を今行なう」
「---------は」
気の抜けた返事をしたヴィウェンはそんな自分の心中を見抜いたような笑い、からかうような笑いを浮かべた皇帝を見た。
「ヴィウェン。第十二個師団の将軍に任命する。この中では最年長だ。うまく将軍たちをまとめ彼らの長役となってほしい」
「---------」
驚きより。
嬉しさより。
まず何が起こったのかよくわからず、その場に硬直する彼に---------皇帝は肘をつきながら相変わらずからかうような笑みを浮かべ言う、
「返事は? ヴィウェン」
感無量とはこういうことなのだな、彼は思いながら、その旨確かに承るとこたえた。
そう、皇帝が皇太子の頃、側役を承った時も、感無量と思ったものだが。
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