祝福のフィナーレ
華江
第1話 完治
窓際の椅子に座って本に目を通していたら、いつの間にか眠っていたらしい。
手もとに、うっすらと青や緑の光が差している。書庫の窓はステンドグラスになっていて、朝日がガラスの色を影に落としていた。
壁掛け時計を見ると、起床時間から三十分ばかり過ぎていた。
いつもなら朝日が昇る頃には身支度を整える。そしてヴィルの調子を伺うために彼の部屋を訪ねることが日課だった。
けれど、ヴィルの病は完治したので、その必要はなくなった。
彼の専属医である老爺のイーサン先生と、患者のヴィルを交えて診察のあとに雑談をするのが習慣になっていたから、書庫にひとりで朝を迎えるのは新鮮だった。
寝ぼけながらも、開いていたページの資料を拾い読みしたけれど求めていた情報はありそうにない。本を棚に戻そうとして立ち上がったとき、出入り口の扉が開いた。
「先生、ここにいたのか」
「おはよう。私に用事?」
ヴィルはいや、と言葉を区切って私のところまで寄った。
「部屋にいないから、どこへ行ったのかと思って」
「昨日から書庫にいたよ」
「また夜なべして調べていたのか」
私が手にしている本の表紙を見て、ヴィルは眉を寄せた。
これは医術書だった。彼のかかった病は新種らしく、原因が解明されていない。
病名もないので、私たちは奇病と呼んでいる。
その奇病の治療法を偶然知った私は、半年かけてヴィルを完治させることができたけれど、原因までは見つけることができなかった。
ヴィルを介抱する傍ら、薬師のノアと一緒に手分けして書庫に置いてある沢山の医術書に目を通したが、手がかりを得ることはついにできなかった。
今日で私は王宮に戻る。
昨日のうちで荷造りを終えていたので、余った時間は書庫にこもって、こうして奇病について僅かでも情報がないか探していた。
「先生は研究者ではないんだから、そこまで頑張る必要はない。先生が体調を崩したらどうする」
「そうだね、気をつけるよ」
適当にあしらいながら、棚にかかっている梯子に上って本を元の位置に戻した。
下りようとしたとき、寝起きのせいで一瞬だけ血の気が引いた。足を踏み外した拍子に身体が傾いた。私が反応するより早く、ヴィルは揺らいだ梯子を掴み、私の腰を支えた。
「ほら、寝不足のせいだ」
「ただの低血圧だよ」
梯子から下りるとき、ヴィルが手を差し出してくれた。
私は手を取りながら、彼の手首から節くれだった指先まで観察した。
大きくて厚みのある、剣を握ってきた人の手だ。
国境防衛を担う辺境伯の子息として生まれたヴィルは、幼い頃から騎士としての教育を受けていた。
顔立ちは青年らしい幼さを残したまま、身体つきはしっかりとしていた。
裾から覗く腕は出会った頃から変わらず逞しいけれど、手に込められる力は増していた。力が強くなったのではなく、病のせいで弱っていただけで、これが本来の力なのだろう。
「全快したみたいだね。出会った頃は、手足が不自由だったのに」
「どうして今それを言うんだ?」
「君の握力が強くて、私の手が痛いから」
「ああ、すまない」
ぱっと手を放してヴィルは申し訳なさそうにする。
「安心したよ。本当に治ったようで」
私が笑って見せると、彼は「先生のおかげだ」と言って寂しそうに微笑んだ。
ヴィルの腕は、半年前まで動かなかった。
彼の症状は深刻なものだった。筋肉が引きつったように手足が硬直し、思うように動かすことができない上に、心臓発作を起こす。心臓を握り締められるような苦しさがあるらしいが、身体に傷や異常はなかった。
辺境伯の跡継ぎ、それもひとり息子なので陛下はローレンス家の存続を危うんで、国中の名医を療養先の屋敷へ遣わせたが、誰が診ても「身体に異常が見られないので治しようがない」と答えた。
そんな折、私はお仕えしているオフィーリア王妃の推薦によって、ヴィルが療養している屋敷へ遣わされた。
私は専門的な医療の知識を持たない、素人だ。
けれど、孤児である私を拾ってくれた養父は貧しい村で医院を開いていた。
読み書きができ、少しばかり医療に関与していたから、ひょっとしたら治せる可能性があるかもしれない、とオフィーリア様は自分が持っているおもちゃの素晴らしさを誇張する子どものように陛下を説得された。
陛下は当然ながら気が進まない様子だったそうだが、雑用係を送るという心づもりであれば、と渋々了承した。
王妃の傍仕えとなるまで一介の使用人に過ぎなかった私は、期待なんて微塵もされていなかった。
私だって奇病を治す自信は全くなかったけれど、屋敷へ行こうと決心したのはオフィーリア様のためだった。
彼女は隣国のコンジュアから和平の証として嫁いできた王女だった。
十四という、成人していない年齢で嫁いできたオフィーリア様はお披露目の式に出た以降、陛下から与えられた王宮の離れにある宮殿にこもりきりだった。
政治や貴族たちの交流に積極性を見せず、また前王妃のモーガン夫人との対立もあってオフィーリア様は孤立されてしまった。
そこで、傍仕えである私が功績を立てたら、少しはオフィーリア様も立場を得ることができるのでは、と考えた。
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