欲張り
ようやく離してもらえた千早は、一度部屋を出ていろはの飲み物を用意していた。リクエストは濃いめの緑茶。いろは専用の湯飲みに緑茶を注ぎ、それを盆の上に乗せて部屋へと戻る。
襖を開けて部屋に入ると、いろはは布団の上に座ったまま、窓から見える外の景色を眺めていた。
隣に座り、濃いめの緑茶が入った湯飲みを手渡す。
「ありがとう」
渡す際に、お互いの指がこつんと当たる。たったそれだけのことでも、千早の胸は高鳴った。盆を膝の上に置き、顔を俯ける。
好きだと自覚してから、何かがおかしい。
今し方のキスも、嬉しいと思っていた。こうして少しでも触れると、嬉しくなってしまう。
そして、何より──もっと触れたいと、思ってしまう。
いろはを見ると、彼は受け取った湯飲みに唇を当て、ふう、と息を当てている。緑茶を飲むために冷ましているようだ。
面と向かって告白をしたわけではないが、好きだと言ったことは聞かれていた。少女漫画が好きないろはだ、どんな意味を持っているか知らないわけがない。
けれど、と千早は再び顔を俯ける。
忘れていたわけではない。頭の中ではわかっていた。こうしていろはが人の姿をしていても、本来は刀剣。そもそもの在り方が違う。
だと言うのに、気が付けばその存在は千早の中で大きくなり、かけがえのないものとなった。好きという感情を抱くようになった。到底、叶わぬ恋だというのに。
馬鹿だ。何故あのとき口に出してしまったのか。胸の内に秘めておけばよかったものを。いや、そもそも好きだと気付くべきではなかった。
こんなにも、苦しい。
だが、好きだと口に出す前には、好きだと気付く前には、戻れない。
「千早」
いろはに名を呼ばれ、現実に引き戻される。顔を上げると、いろはは空になった湯飲みを両手に持ち、心配そうな表情でこちらを見ていた。
「私に力を与えて疲れているのではないか。休んだほうが」
「い、いえ、大丈夫ですよ」
湯飲みを受け取り、盆と共に畳の上に置く。早朝の鍛錬の成果だろうか、疲れていないことはないが、今すぐ休まなければならないほどでもない。今日、早めに眠れば何とかなるだろう。
それよりも心配すべきはいろはだ。目を覚まし、身体を起こすことまではできたが、まだ完全に回復しているとは言えない。
「あの、いろはさん、その……刀身は?」
「元に戻ったぞ。ただ、それは外見の話。今のままでは簡単に折られてしまうだろう」
もう少し休めば、身体も動かせるようにはなる。ただ、強度を取り戻すには時間がかかるようだ。いろはは小さく笑みを浮かべた。
「同じ神剣であれど、些か分が悪かったようだ。闇にも入り込まれた」
「え……!?」
「普段、私は夢というものを見ない。ただ、今回は暗い闇の中を歩いていた。きっと、あれが夢なのだろう」
眠っていたときの話だろうか。そして、その内容は以前に千早が見た夢そのもの。天羽々斬のいろはですらも、八岐大蛇は闇に取り込もうとしていたのか。
「歩けば歩くほど闇は濃くなり、私は少しずつ呑み込まれていく。わかっているのに、足を止められなかった。そのとき、後ろから手を引っ張られたのだ。後ろにいたのは、千早だった」
「わたし……?」
「そうだ。私が向かうべき場所はこちらではないと、手を繋いで前を歩いてくれた」
いろはの夢の中に現れた千早は、そのあと一言も発さなかったそうだ。話しかけても振り向いて微笑むだけ。だが、不思議なことに不安は一つもなかったと、いろはは笑った。
手を繋ぐぬくもりが、本物だと思ったからだと。
確かに、いろはが眠っていた間、手を繋いでいた。特に力も込めず、ただただ握っていただけなのだが、それが功を成したのだろうか。
「歩いていくうちに光が見えた。そこに向かってずっと案内してくれていたのだろう。そうしてその光に飛び込めば……目の前に千早がいた」
そこから先は、いろはの記憶と同じ。千早が、いろはに好きだと話しかけていた。視線が合い、何故か目を逸らしてしまう。
きっと、返事が来る。そう思ったのだ。
指先から冷えていくのがわかる。告白した者も、このような気持ちなのだろうか。怖くて怖くて、不安でたまらない。想いを受け入れてもらえなかったら。応えてもらえなかったら──。
千早は顔を上げ、胸元を両手で押さえながら立ち上がった。急に立ち上がった千早に、いろはも目を丸くして驚いている。
「ごっ、ごめんなさい。ごめんなさい……わたし、その、用事ができたので」
「千早、まだ話が」
いろはの制止を振り切り、千早は盆と湯飲みを持って部屋を出た。足早に廊下を歩き、台所へと向かう。
台所に入るとキッチンにカシャン、と音を立てるようにして盆を置き、息を吐き出しながら座り込んだ。
ここまで自分が欲張りだとは思わなかった。
在り方が違うとわかっていて。叶わない恋だとわかっていて。それでも尚、想いを受け入れてほしいと思っている。応えてほしいと思っている。
だから、あの部屋から逃げた。
欲張りな自分から。いろはから。
──卑怯だ。自分の想いを受け入れてほしいと思いながら、わたしはいろはさんの想いから逃げている。
自分が傷つきたくないがために。
本当は、返事を聞かなければならなかった。いろはが千早の想いを聞いて、どんな想いを持ったのか。
逃げていてはならない。いろはと向き合わなければ。
これは、千早が始めてしまったことなのだから。
* * *
千早がいなくなった部屋で、いろはは一人景色を眺めていた。
今も頭の中がまとまっていない。千早と話すことで整理しようとしたが、何かを察した彼女は部屋を出て行ってしまった。
そもそも、まとまっていないことがおかしいことだ。千早の想いへの答えは、元より決まっているはずなのに。その答えを認められない自分がどこかにいる。
それもそうか、といろはは笑みを浮かべた。
初めて千早と出会ったのは、彼女が二歳の頃。祖父母に連れられ、倉へとやってきたのだ。まだ拙い話し方だったが、柄を見て「ここにいるのは可哀想だ」と泣きながらに訴えた。それがあって、柄は倉から出され、この景観のいい部屋に置いてもらえることになった。
あの頃から、千早を見てきた。千早の成長を見守り、悩みを聞いてきた。千早と共に景色を眺め、四季の移り変わりを楽しんできた。千早と過ごしてきた日々は、いろはの中で今でも色づいている。
そんな千早に、何の想いも抱いていないはずがない。
可能であれば、これからも共に過ごしたい。同じ時間を生きたい。千早の隣に、並んでいたい。
「私も、人間であればよかったのにな」
好きだと言われ、嬉しかった。
その気持ちに応える資格がないことだけが、悲しかった。
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