第三章
同じ
静かな部屋に、ピ、ピ、と電子音が響く。点滴は一定間隔でぽた、ぽたと落ちていて、ベッドで眠る彼女の白く細い腕に繋がれていた。
呼吸はしている。心臓も動いている。ただ、意識が戻らない。呼びかけに反応することもなく、静かに眠り続けている。
「伊織ちゃん、お見舞いに来たよ」
「ぐ……暑い。伊織、早速で済まないが水分を取ってもいいか」
せめて、部屋だけは明るくと、飼ってきた季節感のある色とりどりの花を飾る。窓を開けると、爽やかな風が千早の頬に触れた。カーテンをしっかりと留め、千早は水分補給を終えたいろはと共に椅子へ腰掛ける。
伊吹が伊織を鬼へと変えてから。千早が伊織の心臓を刺してから、二週間程が経過した。季節はすっかり夏になり、毎日が暑く、早朝の鍛錬から汗が止まらない。ここへ来る間も何度汗を拭ったことか。
伊織の見舞いは、祖父母、玉藻と交代で来ている。今日は千早といろはの番だった。学校帰りに二人で病院へとやってきた。病院は櫛名村にある総合病院。小さな村に似つかわしくないが、これも朝日奈家と
だからだろう、医療従事者から畏怖の目で見られているのは。
いつも、祖父母や千早は個人医院に行っていた。総合病院を使っていたのは一七夜月家のみ。伊織が入院してから、見舞いで初めて訪れた。それもあり、初めて今の朝日奈家の者が来たと噂され、余計に見られているのだろう。
千早は伊織の手を握る。見舞いに来たときは、いつもこうしていた。一人じゃない、自分がいると伝えるために。
「角、早く消せるように頑張るからね」
千早は奥歯を噛み締める。
このような角は、伊織には似合わない。
「あれから伊吹も姿を見せない。彼奴なりに何か思うところがあったのだろう」
「……そうだと、いいんですけど」
短く息を吐き出し、千早は今日あった出来事を伊織に話し始めた。主に、いろはと玉藻の小競り合いなのだが。
いろはとクスクスと笑いながら他愛ない話をし、そうやって二時間ほど伊織の病室で過ごした。
* * *
帰り道。日も暮れ始めているということもあり、二人の影が伸びている。
「かげおくりって、知ってますか?」
「なんだそれは?」
「影をじっと見つめて、それから空を見上げるんです。すると、それまで見ていた影が空に数秒映るっていうものなんですけど」
十秒ほど、まばたきをせずに影を見続ける。まばたきをしてはならないと意識すると逆にしたくなってしまうのは、人間の性だろうか。十秒がとても長いように感じた記憶がある。
したことがないいろはが「やってみたい」と顔を輝かせたため、二人はそこで足を止め、じっと影を見つめた。
一、二、三と千早が数え、十秒が経過した頃に同時に空を見上げる。
いろはは失敗したようで、どこだと探している声が隣から聞こえた。千早の目には二人の影がしっかりと空に映っている。空に映る影がゆっくりと消えていく中、ぽつりと呟いた。
「おばあちゃんとよく遊んでたんですよね」
両親がいないため、遊び相手は祖父母と伊織のみ。伊吹は意地悪ばかりで、同じく意地悪ばかりされていた伊織とは気が合った。
千早は空を見上げていた顔をいろはへと向ける。
「わたし、おじいちゃんやおばあちゃん、伊織ちゃんを除けば、こうして誰かと歩いたり、話したりするの、いろはさんが初めてです」
「そうか、私と同じだな」
「え? いろはさんも?」
そうだ、といろはは眉尻を下げ、口元を綻ばせた。
「以前、玉藻や伊織に話していたのだ。私が何かを思うことも、話すことも。こうして人の姿になることも。すべて、千早が初めてだと」
「へ……え?」
まさかの告白に、何故か顔に熱が集中する。夏のせいだと言いたいところだが、心臓が高鳴っているあたり、これは暑さのせいではない。
この場合、なんと言葉を返すべきなのか。
何故自分なのかと、訊いてもいいのだろうか。そして、少しだけ自惚れてもいいのだろうか。
口から出そうになる心臓を深呼吸で何とか落ち着かせ、千早は意を決して訊いてみる。
「あ、あの、どうして、その、わたし」
意を決したはずなのに、言葉に詰まる。そんな千早を見て、いろはは小さく笑みを浮かべ、首を横に振った。
「わからない。昔から意識はあった。スサノオのこともしっかりと覚えている。ただ、こうして意思というものを持ち始めたのは千早がきっかけだ」
千早の何がきっかけとなったのだろう。弱音ばかりを吐きすぎて、心配させてしまったのだろうか。
いろはは言葉を続けた。話したのは、八岐大蛇が蘇った日が初めて。何とかして居場所を伝えなければと思っていたところ、声が出て話せたそうだ。人の姿になれたときの理由と同じだと、千早は笑みを溢した。
「意思疎通ができるというのは、すばらしいな。何もできず、ただ思うことしかできなかった頃は、己の不甲斐なさに辟易したよ。千早が話してくれているのにもかかわらず、私はただ聞くことしかできないのかと」
何もできないのかと。
千早の頬に触れると、顔を綻ばせる。
「いいな、話せるというのは」
本当に嬉しそうに微笑むため、千早の胸が締め付けられる。
嬉しいはずなのに、苦しい。苦しいはずなのに、嬉しい。何だろうか、この訳のわからない感情は。
きゅっと唇を噛み締め、千早は視線を地面に向けて自分の胸にある感情の名を必死に考える。だが、答えは出てこない。おそらく、千早がこれまで抱いたことのない感情なのだろう。
「思いを話すことは大事だと、最近読んだ書物には書いてあった。また、感情を吐露することも必要な場合がある、と」
「……感情を、吐露」
今、千早が抱いているこの感情は、いつか吐露するときが来るのだろうか。
もし、そのときがくれば。その相手は、いろはなのだろう。感情の名はわかっていないが、それだけはわかった。
千早、と名を呼ばれ、再び視線をいろはに向ける。すると、いろはの顔が近付いてきてそっと触れるだけのキスが降ってきた。
何が起きたのかと固まる千早に、いろははニコニコとどこか嬉しそうにしている。
「ふむ、やはり気持ちが良いな! これからは素直になっていこうと思うぞ!」
「……っ、一体、何の漫画を読んだんですか!」
少し感銘を受けていればこれだ。今はキスをするタイミングでも何でもなかった。千早は顔を赤らめ、わなわなと身体を震わせる。
「最近、お小遣いとやらを
知らない漫画が増えていると思っていたが、そういうことだったのか。確か、祖母もいろはにいろいろと教えてやりたいと買い物に連れて行ったりもしていた。本屋で漫画を買うようになってしまったのか、この刀剣は。
これは危ない。非常に危ない。訂正していかなければ。
とは言え、驚き、怒りはしたものの、嫌ではないのが不思議で仕方がない。いろはに「馬鹿」と怒鳴りつつも、高鳴る胸を両手でそっと押さえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます