これでいいんだよ

≪千早! 構えろ!≫

「ひいい、千早チャン!」


 いろはの声に天羽々斬を構えると、何者かによって打撃が繰り出され、刀身で何とか受け止める。

 力は伊吹と比べると弱い。とは言っても、千早の力よりは断然強い。玉藻が支えてくれていなければ、またしても壁に身体を打ち付けてその辺で転がっていただろう。

 玉藻に礼を言い、砂埃の中にいる人物を見る。次第に砂埃は薄れていき、その人物の姿が露わになると、千早はカチャン、と天羽々斬を地面に落とした。足からも力が抜け、ぺたりとその場に座り込む。

 千早、といろはが呼ぶ声が聞こえるも、声が出ない。立ち上がって構えなければいけないこともわかっているが、力が入らない。


「紹介しよう。こいつは伊織。俺の妹で、鬼だ」


 伊織だった者は、一本の赤黒い角が額の真ん中辺りに生えている。瞳はすべてが赤く染まっており、口からは鋭い牙が二本見えていた。たらりと口の端からは涎が垂れており、顎を伝って地面に零れ落ちる。

 何よりもぞっとしたのは、皮膚が焼かれているのにまったく気にしていないことだ。

 じゅう、と肉が焼けるような音。これは、太陽がまだ沈んでいないため、伊織の皮膚が焼かれている音だ。鼻をつまみたくなるほどの臭いがこちらにまで漂ってくる。だというのに、伊織本人は気にする様子がなく、まるで意志が剥奪されているようだった。


「ほら、行け! 殺す寸前まで追い詰めろ!」

「ガアアァァァアアアアァァァ!」


 攻撃など、できるはずがない。倒すことなど、もっとできるはずがない。

 あれは、伊織だ。鬼と成り果ててしまったのだとしても、伊織なのだ。

 立ち上がることはせず、天羽々斬を構えることもせず。千早はただただ迫ってくる伊織を見つめる。玉藻が何とか立たせようとしてくれるが、そのまま座り込んだまま。玉藻だけでも逃げてほしいと思いつつも、それすら言葉にでなかった。

 つう、っと目尻から涙が溢れ、頬を伝う。

 伊織が右手を振り上げると、筋骨隆々な腕へと変わった。振り下ろされるその様は、スローモーションのよう。

 この一撃で死ぬのだと、そう思った。


 ──ごめんね、伊織ちゃん。


 また、間に合わなかった。

 目を瞑ろうとした瞬間、千早の眼前に男性の背中が見えた。現実ではあまり見られない、銀髪の綺麗な男性。

 いつの間に人の姿に戻ったのか。千早は目を大きく見開き彼の名を呼ぼうとしたが、伊織の一撃が繰り出される。


「いろはさん!」

「な、何してんねんお前!」


 力加減をされていない一撃を、難なく受け止めたようには見えた。だが、実際はどうだろうか。心配にはなるものの、やはり身体が動かない。

 すると、いろはがこちらを振り向いた。そこで目にした彼の様子に、千早の身体は振るえ、両手で口元を押さえる。


「無事か、千早」


 血がぽたり、ぽたりといろはの頬や顎を伝って落ち、地面が赤く染まっていく。綺麗な銀髪も血に濡れてしまい、あの攻撃がどれだけのものだったかを物語っている。

 は、と息が乱れる。いろはの血が地面に落ちるように、千早の涙が地面に落ちた。

 あの攻撃を難なく受け止められるわけがないのだ。

 この出血量。放っておくと、死んでしまう。刀剣と言えど、今は人の姿。千早と同じように血が流れていて当然だ。

 自分のせいで。自分が、動かなかったせいで。いろはが──。


「チ、ハヤ、チャン」


 鬼に成り果てた伊織の声は、おぞましく、最早誰のものかわからなくなっている。けれど、千早の名を呼ぶ声に優しさが滲み、今は伊織が話しているのだと思った。


「伊織ちゃん、だよね。そうだよね?」

「チハ、ヤ、チャン、アタシ、ヲォ、コロシ、テェ」

「……え?」

「いやいや、伊織、お前……何を、言うてんねん」


 今、伊織は何と言ったか。

 殺して。そうだ、殺してと言っていた。殺すとは、命を奪うということ。やってはいけないこと。

 何故、そのようなことを頼むのか。千早に、殺してほしいなど。

 千早は乾いた笑い声を出しながら、何度も何度も首を横に振った。できるはずがない。できるはずもない。伊吹と伊織を救う手立てはあるはず。時間はかかるかもしれないが、いろはがいる。今なら玉藻もいる。

 殺すしか救いがないなど、そんなはずがないのだ。

 嫌だ、嫌だと首を横に振っていると、いろはが千早の右手を握った。ゆっくりといろはを見ると、彼は悲しげな表情を浮かべつつも、その目は真っ直ぐに千早を見ている。

 いろはさん、と彼の名を呼んだ。

 その瞬間、ぽろぽろと止め処なく涙が溢れる。優しく抱きしめられ、千早、と名を呼ばれた。頭上から、あたたかくぬめりとしたものが落ちてくる。これは、いろはが流している血だろう。涙のように、千早の頬を伝っていく。


「伊織は、抗っている」


 いろはの言葉通り、伊織からは何かに苦しむような声が聞こえていた。自分の中にある鬼の意識に抗っているのだろう。

 それでも、殺せない。そんなことはできない。


「で、でき、ない。伊織ちゃんを殺すなんて、できない!」

「では、伊織が他の者に殺されてもいいのだな」

「嫌! 何で!? 何で殺すしか選択肢がないんですか!? 知らないだけで、探せば救う方法は」

「では、その時間を誰が稼ぐ。あれを、誰が相手をする」


 はっとした表情で、いろはを見る。そして、唇を噛んだ。

 いろはは苦渋の表情を浮かべて、千早を見ていた。少し顔を横に向ければ、玉藻もやりきれない表情で視線を下げていた。

 そうだ、今のこの状況が苦しいのは、辛いのは、千早だけではない。伊織と時間を共にした誰もが、彼女を殺したくない。死なせたくないと思っている。

 されど、その手段を持ち得ていない。探す時間すら与えてもらえない。

 わかっているから、もう伊織の言うとおりにしてやるしかないと考えている。


「チ、ハヤ、チャン、ハヤ、ク」


 伊織の目から、赤い血が流れる。あれが、鬼の流す涙なのだろうか。

 千早はいろはの胸元に顔を埋め、背中に手を回す。その手も身体もカタカタと震えていたが、何とか一度深呼吸をした。

 深呼吸後、すう、と息を吸い──彼の名を口にする。


「天羽々斬」


 千早を抱きしめてくれていた身体は光に包まれ消える。右手に柄が握られ、刀剣が現れた。

 立ち上がり、伊織と向き合う。刀身を彼女に向けるも、やはり震えが止まらない。


「アリガ、ト」

「絶対に、助けるから。玉藻さん、おじいちゃんとおばあちゃんに救急車を呼ぶように伝えてください」

「わ、わかった」


 玉藻には、家で身を潜めている祖父母に伝言を頼む。伊織を一瞥したあと、彼は走って家へと向かった。


「殺すのではなくて、救う」


 ぽつりと呟くと、天羽々斬を強く握った。

 伊織も苦しいのだ。鬼の意識に抗うことも、こうして殺してほしいと頼むことも。

 だから、千早は伊織を救うために斬る。決して、殺したりはしない。そんな想いを力に込め──走った。

 狙うは胸。伊織の方が身長がある。千早は刀剣を胸辺りまで上げ、唇を噛み締めながら走って行く。

 伊織は、動こうとしない。最後の最後まで、彼女は鬼の意識に抗っていた。


「マタ、ネ」


 刀身が伊織の身体にめり込んでいく。柄が伊織に当たる寸前で止まり、千早は彼女の右肩に顔を乗せた。

 ごぽ、と音がする。千早の右肩があたたかくなり、伊織が口から血を吐いたのがわかった。

 遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえる。祖父母が玉藻の言うとおりに連絡をしてくれたのだろう。


「……夢が、あったんだあ」

「夢……?」

「いつか、お兄ちゃんと、千早ちゃんと三人で……遊び、に、行く夢。行き、たかった、なあ」


 行けるよ、と言うと、伊織は小さく笑った。

 ぐっと目を瞑り、千早は伊織の胸を刺している刀剣を引き抜く。伊織は千早に凭れかかるように倒れ、その身体をしっかりと支えた。そのまま二人で地面に座り込み、伊織は荒い息のまま千早の右肩に顔を乗せている。

 天羽々斬を地面へ置くと、刀剣から人の姿へと戻ったいろはは千早達から数歩離れ、そこから静かに見守ってくれていた。嗾けた張本人である伊吹は、何故かこの状況を目を細め、口を真一文字に結んでこちらを見ている。

 その姿が目に入った千早は、伊織の身体を抱きしめながら叫んだ。


「な……んで、何であなたがそんな顔をするんですか! あなたがこのような状況を招いたのでしょう! わたしは、絶対に……絶対にあなたを許さない!」


 救急車が到着したため、千早は伊吹から視線を外した。救急隊員に伊織を頼み、再び伊吹を見たときにはもう彼の姿はどこにもなかった。

 今ここにいない人物を気にしても仕方がない。千早は首を横に振ると、伊織に手を握った。まだ助かる。救える。そう願いながら。指先が冷たく、体温をこれ以上奪われないようにと両手で包む。

 気になるのは、額に生えた一本角。まだこれは折れていない。

 以前斬った鬼は、サラサラと砂のように消えていった。まだ、伊織の中に鬼の力があるということなのだろうか。


 ──救うんだって思いながら力を込めた。だから、絶対に伊織ちゃんは死なない。死なせない。


 祈るように項垂れる千早に、いろはが後ろからそっと肩を抱きしめた。

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