帰ってきてはいけない
気をしっかり持っていなければ、すぐにでも眠ってしまいそうな身体。千早は必死に意識を保っていた。
この六時間目を終えれば、ホームルーム。担任は長々と話をするタイプではないため、二分ほどで終わるだろう。誰よりも早く教室を出る、絶対に出る。そう思っていると、ブレザーのポケットの中に入れていたスマートフォンが小刻みに振動した。
教師には見えないよう、明かりを最小限に抑え、通知を確認する。どうやらメールが届いていたようだが、差出人の名前に千早は息を呑んだ。
──伊織ちゃん!? そういえばわたし、前にもメールが来てたような……。
伊織とは、伊吹の妹だ。千早と同じ高校三年生であり、櫛名村から出て寮のある高校に通っている。
次の日に確認しようと思っていたものの、今日までそのままにしていた。友人がいない千早は普段からメールなど来ないため、朝起きてすぐにスマートフォンを確認するという習慣がないのだ。
伊織から二通のメールが来ている。早く確認して謝らなければ、と今日以前のメールを開こうと画面をタップした。
『千早ちゃん、お兄ちゃんから帰ってくるなって連絡があったんだけど、何か知ってる?』
どきりとした。
日付は、伊吹と一悶着があった前日。おそらく、このときまでは伊吹は平常心を保てており、伊織を危険な目に遭わせないようにと連絡をしていたのだろう。伊吹と伊織は仲は良くないが、それでも彼は兄なのだと思った。
二通目、今し方来たメールをタップする。
『ねぇ、今度はお兄ちゃんから帰ってこいって連絡があって……帰ってくるなって言ったり、帰ってこいって言ったり、何なの?』
ぞくりとした。
今朝、いろはが言っていた。血の繋がった親族の血肉は、凄まじい力をもたらすと。伊吹は、両親だけではなく妹の伊織をも喰らおうとしているのか。
急いで返信画面を開く。打つのに慣れていないため時間はかかるが、なるべく端的に──と、そこでぴたりと動きを止めた。
伊織は、一体どこまで知っているのか。この様子では、八岐大蛇が蘇ったことすら知らないだろう。櫛名村を出ているとはいえ、伊織もスサノオの血を継ぐ
いなくなってしまった者達を悪く言いたくはないが、伊吹と伊織に差をつけて何かいいことでもあるのか。ふう、と息を吐き出し、千早はどこまで説明すればいいかを考えた。
まず、八岐大蛇が蘇った説明は必要だろう。
問題はそのあとだ。伊吹が鬼になり、手伝いの者達が喰われた。両親も喰われてしまい、家には立入禁止のテープが貼られている。伊吹からの連絡は、伊織を喰らうためだから、帰ってきてはならない。
これを説明するとなると、かなり言葉を選ばなくてはならない。
千早は一度スマートフォンの画面を消し、ポケットに仕舞った。いろはや祖父母と相談しながら文章を考えることにしたのだ。
とはいえ、授業に集中できない。ノートに「伊織ちゃんに何を伝えるべきか」「どう伝えるべきか」と書き、今の千早の考えをまとめようと書き出した。
* * *
ホームルームを終え、千早は一目散に教室を出た。身体は相変わらず重たく、眠気もあるが、今はそれどころではない。
階段を下りているとき、チャリ、と胸元で音がした。
──そうだ、いろはさんを呼べるんだ。こんなことで呼ぶの失礼かもしれないけど、でも……!
気にはしていられない。少しでも早く、誰かに相談しなければ。
靴を履き替え、校舎を出る。足早に校門を抜け、指輪を強く握り締めた。
「天羽々斬」
千早の目の前が光り、すぐに人の姿が現れた。このような形で来てくれるのかと驚きつつも、その姿に胸を撫で下ろす。
「いろはさん」
「どうした、千早。何かあったのか?」
辺りを見渡したあと目を丸くして首を傾げるいろはに、千早は伊織からメールが来たことを歩きながら話した。
話を聞いたいろはは眉間に皺を寄せ難しい表情を浮かべていたが、ふむ、と何かを考える素振りを見せる。腕を組み、右斜め上を見つめながら考えるその姿は、刀剣と言えど様になる。
「事情は後で話すとして、まずは帰ってくるなと伝えたほうがいいのかもしれないな」
「じゃあ、家に着いたら、帰ってきちゃ駄目だよって送りますね。……でも、どう説明すればいいんでしょうか。どれだけ言葉を選んでも、伊織ちゃんが傷つくような気がして」
「傷つかない説明の仕方などないだろう。起きている事が事だ」
そうですよね、と千早は息を吐いた。きっと、祖父母も同じことを言うだろう。傷つけたくない気持ちは今もあるが、いろはが言うように事が事だ。到底無理な話なのだろう。
家に向かう道程を、いろはと並んで歩く。こうしていれば、本当に平和で何も起きていないような、そんな錯覚に襲われる。いや、何もかもなかったことにしたいのかもしれない。
今でも、夢の中にいるのではないかと思うときがある。目を覚ませば、八岐大蛇の封印はまだされていて、動画を撮りに来る者達もいなかった。伊吹も一七夜月家の者達も健在で、いつもの日々が続いているのではないかと。
けれど、と千早はいろはを見た。千早が思い描く夢が現実であれば、いろはがいないのだ。
今や、いろはがいないことなど考えられない。日々の生活にもいろはがいる。すぐに来てくれるというメリットがあるというのもあるが、何かあれば祖父母よりも先にいろはが浮かぶことが増えた。
現に、今も安心している自分がいる。何とかなるかもしれないと思っている自分がいる。そのとき、足がもつれ、ふらりと身体が前に傾いた。いろはがいるということで気を抜いてしまったのかもしれない。
「千早」
いろはに支えられ、何とか転けることなく済んだ。心配そうにこちらを見るいろはのその顔の近さに、心臓が早鐘を打つ。すみません、と姿勢を正し、いまだうるさい心臓を押さえるかのように胸元で両手を握った。
「大丈夫です、ありがとうございます」
「もうすぐ家だが、今は人がいない。必要ならば」
「だ、だだ、大丈夫ですから! もうすぐ家ですし、この程度なら今日ぐっすりと眠れば」
よかれと思って、いろははキスを迫ってくる。腰に手を回されたかと思うと、強引に引き寄せられた。千早は右手でいろはの口を塞ぎ、ぐっと押し返す。
「む」
「だ、だから! 大丈夫です! ありがとうございます!」
眉間に皺を寄せ、納得いかないと言うような表情で顔を近づけようとするいろは。空いている手で千早の頭の後ろをがっちり掴み、ぐぐっと押してくる。千早も負けじと右手の上に左手を重ね、両手でいろはを押す。
「千早ちゃん?」
名を呼ばれ、二人は声がした方向を振り向く。
そこには、黒髪を肩で切り揃え、この辺では見ない制服を着た少女がボストンバッグを持って立っていた。黒い瞳を千早といろはに向け、怪訝そうな顔をしている。
「彼氏ができたの? もうすぐ家だから、寂しくてイチャついてるの?」
「伊織ちゃん!?」
家がある敷地の前に立っていたのは、一七夜月伊織。
千早が「帰ってこないように」とメールをしようとしていた相手だった。
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