強くなりたい
良く思っていたわけではない。寧ろ、苦手な部類だ。
顔を合わせれば暴言を吐かれ、その日の気分によっては暴力を振るわれる。何もできていないと負い目もあったため、言い返すこともやり返すこともしなかった。関係性は非常に悪かったと言ってもいい。
だからと言って、酷い目に遭ってほしいと思ったことはなかった。
八岐大蛇がいなければ。朝日奈家と
関係を悪化させてしまっていたのは、八岐大蛇と何もできない千早のせい。
それでも、いつかはしがらみから解放され、関係性を再構築できる日がくることを。平凡に、平和に過ごせる日がくることを。そんなことを夢に見ていた。
されど、それはもう、叶わなくなってしまったのだろうか。
八岐大蛇を何とかできていれば、そもそも、千早が天羽々斬に選ばれていなければ。伊吹は、今頃──。
「千早」
襖を開け、いろはが部屋に入ってくる。手には小さな盆を持ち、その上には千早のマグカップが置かれていた。
「身体は自分で起こせるのだな」
「……はい。なんとか」
そこまで力を消費しなかったのかはわからないが、布団の上で身体を起こすことはできた。いろはからマグカップを受け取り、千早は両手で包むようにして持つ。中にはホットココアが入っていて、マグカップを持つ両手がじんわりとあたたかい。
ありがとうございます、と呟くと、いろはも千早が座る布団の近くに腰を下ろした。千早はホットココアに息を吹きかけ、少し冷ます。一口飲むと、まったりとした甘さが身体に染み渡り、あたたかさが気持ちを和らげていった。
小さく息を吐き出し、いろはに視線を向ける。視線が交じると、彼は優しい笑みを浮かべながら首を傾げた。マグカップに視線を戻し、持ち直しながら「あの」と話しかける。
「キス、しないんですか?」
自分でも恥ずかしいことを訊いている。だが、あのような出来事があったにもかかわらず、いろははすぐに回復させる手段を取らない。それが千早は気になっていた。
「そうだな、今はまだ」
気になる言い方だ。どういう意味だろうか。訊きたいが、まるで千早がキスをしたがっているように受け取られても困る。一旦、ここは「そうですか」と無難に返事をしておいた。ふう、と息を吐き、千早はホットココアを口にする。
「伊吹のことや、一七夜月家のこと。訊きたいのではないか?」
ごくりとホットココアを飲み込むと、マグカップを少し離していろはを見た。彼は先程と変わらない笑みを向けている。
千早はマグカップを膝の上まで下ろすと、小さく頷いた。
あのあと、意識を失うことまではなかったものの、身体に力が入らなくなってしまった。いろはに抱えられながら彼の自室へと運ばれると、布団に寝転ばせられ、今は丸一日が経過したところだ。食欲がなく、食事は一切取っていない。辛うじて飲み物だけは何とか摂取している。
何度、夢であればいいのにと思ったことか。
けれど、身体の痛みが、力の入らない今の状態が、現実だと訴えてくる。
「いろはさん、伊吹さんは……鬼に、なったのですか」
言い終えると、千早は顔を俯けてマグカップを見た。マグカップを包む両手が震え、中に入っているココアがゆらゆらと揺れる。
伊吹の額に生えた二本の赤黒い角。瞳の色まで変わってしまっていた。あれは、鬼としか思えない。
「そうだ。元々、伊吹には闇があった。それが相手にも見透かされていたのだろう。結果、闇に囚われ、魅入られた」
「……もしも、いろはさんが伊吹さんの元にいれば、助かっていましたか?」
涙を滲ませながら、いろはを見た。泣きそうになっている千早を見て驚いているのか、このようなことを言われるとは思わなかったから驚いているのか。彼はアーモンドアイを大きく開いていた。
あの日、伊吹の両親から言われたことが頭から離れないのだ。
伊吹がおかしくなったのは、あのような目に遭ったのは、千早が無事だったから。千早が天羽々斬であるいろはに選ばれたから。
そして、千早には思い当たることが一つだけあった。
「わたしも、眠っているときに夢を見たんです。とても暗い闇の中を、ずっと歩いていて。早く抜け出したいのに、どこまでも、どこまでも闇が拡がっていて。何かに一挙一動を見られていました。わたし自身も、少しずつ見えなくなっていって……」
このまま呑み込まれるのかと思ったときに、男性の声が聞こえた。
「心を強く持て。お前は一人ではない。……そう、男性に言われて、気が付けば刀剣が、天羽々斬が握られていたんです」
「それで、闇に呑み込まれることなく助かったと?」
「はい。いろはさんは、わたしの右手を握ってくださっていました。だから、わたしが助かったのは、いろはさんが……」
いてくれたから、と続けたかったが、千早は唇を噛み締め顔を俯けた。
あの日に見た夢の話をすればするほど、実感する。いろはがいなければ、闇に呑み込まれていたのは自分だったのかもしれないと。
伊吹の両親の言うとおりだ──そう思ったとき、頭が優しく引き寄せられ、抱きしめられた。
「一人ではないのは、伊吹も同じだろう。千早に翁や
「けれど、天羽々斬様は……いろはさんはいませんでした」
「それはそうだが、前にも言ったとおり、手を握っていたのは千早の回復力を底上げするためだ。闇から助けるためではない。それよりも、そのような目に遭っていたというのも今初めて知ったぞ」
そういうことは早く言え、とぼやくと、いろはは千早の頭に自身の顔を乗せた。
「私がいようがいまいが、闇に落ちる者は落ちる。己の心の強さ次第だからだ」
「……それじゃ、わたしの心が強いみたいな言い方ですよ」
「強いだろう?」
何を根拠にと、思わず笑ってしまった。いろはが少し身体を離し、不思議そうな目で千早を見ているが、胸の奥底から笑いが込み上げてきて止まらない。
肩を揺らして笑っていると、ぽたりと涙がホットココアに落ちた。
それを皮切りに、ぽたりぽたりといくつもの涙がホットココアに落ちていく。笑い声はいつしかすすり泣く声に変わり、止め処なく涙が溢れる。いろはが千早の手からマグカップを取ると、離れた場所へと置いた。
何も持つものがなくなった手を、千早はいろはの胸元へ持っていき、彼の服を握り締める。
「わたし、強くなんかないです。ずっと、ずっと、不安でたまりませんでした。押し潰されそうでした。今もそうです。動画を撮りに来たあの人達を助けられなかった。伊吹さんも助けられなかった。止められなかった」
弱ってしまった封印に何もできなくて当然だったとは言え、天羽々斬を手にしたところで以前と何ら変わりがない。そんな千早がしなければならないことは、八岐大蛇の退治。このような現状で、退治できるのか。
わかっている、これはただの八つ当たりだ。何もできない自分への不安。不満。情けない。されど、止められなかった。漏れそうになる泣き声を堪えながら、千早は肩で息をする。
「それで、千早はどうしたいのだ?」
背中に優しく手が添えられ、ゆっくりとさすられた。
どうしたい。そう問われ、千早はゆっくりと目を見開く。ぐっと奥歯を噛み締め、いまだ涙が止まらない顔を上げた。
「強く、なりたい」
いろはは口角を上げ、千早を抱きしめた。
「ほら、やはり千早は強い。諦めない」
「強くないですよ、弱いんです……でも、やられっぱなしも嫌なんです」
ただの負けず嫌いなんです、と続けると、いろはは耐えきれずに笑い声を上げた。
思えば、幼い頃からそうだった。千早も泣きながら笑みを溢す。
少し身体を離し、千早はいろはを見た。紫色の綺麗な瞳の中に、どこかスッキリとした千早の顔が見える。
自然と、口が開いた。
「キス、してくれませんか」
回復しなければ、何もできない。そう、この言葉にこれ以上の深い意味はないのだ。
と、自分に言い聞かせる。少しでも、心臓を落ち着かせるために。
いろはは目を細め、千早の顔を包むように両手を添えた。
「……では、明日の早朝に鍛錬でもするか。幸か不幸か、練習台が近くにある」
千早が目を瞑ると、唇に優しく触れてきた。ぎこちなく唇を開き、いろはを深く受け入れる。
まだ二回目。それなのに、一回目よりは気持ちよく、いろはの力が流れ込んでくるのを感じた。
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