第二章

千早のせい?

 ──今のはなんだ。


 いろはは目を開き、ゆっくりと身体を起こす。

 ほんの一瞬、空気が揺らいだ。かと思えば、これまでなかった闇を、八岐大蛇に似た気配を感じた。

 それも、一七夜月かのう家の方角から。

 目を瞑り集中するものの、朝日が顔を出し始めていることもあり、気配は感じられない。はぁ、と溜息を吐き、くしゃりと前髪を握る。気のせい──そう思いたい気持ちは山々だが、あの気配を天羽々斬であるいろはが間違えるはずがない。

 過去はスサノオの剣として、現在は千早の剣として、八岐大蛇と対峙したのだから。

 前髪から手を離し、隣で静かに寝息を立てる千早を見た。千早を選んだのはいろはだが、彼女には過酷な運命を背負わせてしまったと思う。しかし、千早以外考えられなかった。懸念材料がなかったとしても、千早を選んでいただろう。

 千早には、前を向く力がある。そこに光を感じるのだ。


「……私が必ず傍にいる。何があっても、絶対に」


 千早とならば、成し遂げられると信じている。

 そう思いながら、いまだ眠る千早の頬をそっと撫でた。



 * * *



 平日の朝はどうしても気が重くなりがちなのだが、今日は心が軽い。きっとこの指輪のおかげだと制服の上から触れると、チャリ、と音がした。その音に、自然と千早に笑みが溢れる。毎朝、仏壇の前に座って両親に挨拶をしているが、こうして笑ってできたのはいつぶりだろうか。きっと、両親も驚いているだろう。

 千早は立ち上がり、鞄を肩にかけると仏間から出た。ギシギシと音を立てながら廊下を歩き、襖を少し開けて茶の間を覗く。中ではいろはと祖父母が座っていた。


「おや、早いね。お弁当は持ったかい?」

「うん、ありがとう。おばあちゃん」


 祖父が何も言ってこないあたり、今日は隠れて登校しなくてもいいのだろう。千早は「いってきます」と告げると玄関へ向かい、学校指定の黒色のローファーを履く。外へ出るために木目調の扉に触れたとき、廊下から軋む音がした。振り向くと、茶の間からいろはが出てきており、眉間に少し皺を寄せ目を細めている。

 何かあったのだろうか。心配になりいろはの名を呼ぶが、彼は答えることなく一度視線を横に逸らし、またすぐに千早を見た。


「千早、何かあればすぐに私を呼べ」

「え? は、はい」


 もちろんだ。いろはが常に傍にいることができればいいが、それができないからこそ両親の指輪に力を込めてもらった。

 突然どうしたのか。千早は再びいろはの名を呼ぼうとするが、茶の間にいる祖母が先に彼を呼んだため、開いた口を閉じた。


「すまない、おうなに呼ばれている。いいか、些細なことでもいい。何かあればすぐに私を」

「わかってます。ありがとうございます、いろはさん」


 そうか、といろはは笑みを浮かべ、茶の間へと戻っていった。その背中を見送り、千早は木目調の扉を開いた。

 外は燦々と陽光が降り注いでおり、今日は暑そうだ。一歩踏み出し、身体の半分ほどに日差しを浴びたときだった。

 ぞくりとしたものが、千早の全身を駆け抜けた。

 じわりと汗が滲み、頬を伝っていく。外に出てまだ数分も経っていない。そもそも、日差しを浴びているはずなのに、暑さよりも悪寒を感じる。カチ、と奥歯が鳴ったことで、身体が震えていることにも気が付いた。

 自身の身体を抱きしめながら、千早は少し離れたところに建っている一七夜月家を見る。視線が自然とそちらを向いたのだ。

 ざわざわとした気持ちが止まらない。これは一体何なのか。


「千早? どうした?」


 祖父の声にびくりと肩を震わせ、千早は家の中を見た。玄関を出たものの突っ立って動かない千早が心配になったのだろう。心配そうな表情でこちらを見ている。


「な、なんでもない。いってきます」


 笑顔を作り、扉を閉めた。

 学校へと向かうために千早は歩き出すが、一七夜月家が気になって仕方がない。何だか気味が悪いと首を横に振り、できるだけそちらを見ないように歩いていく。

 鞄の肩紐を握り締めながら足早に敷地を出ようとするが、一七夜月家を通り過ぎる手前で「千早」と名を呼ばれた。

 その声に、千早は息を呑む。足を止め、声がした方向にゆっくりと顔を向けた。

 そこにいたのは、中年の男女。二人ともグレーの詰め襟のジャケットに、グレーのスラックスを身に着けている。

 千早は息を小さく吸うと、身体も二人の方に向け、会釈をした。


「おはようございます。伊吹さんのお父さん、お母さん」


 返事はないが、気にすることはない。この二人も千早のことが気に入らないのだ。

 いつものことだ、と千早はもう一度会釈をして立ち去ろうとするが、伊吹の母親に右腕を強く掴まれた。


「何で、何であんたが無事なのよ!」

「え……?」


 ヒステリックに叫ぶ声と、青ざめた顔。何があったのかと伊吹の父親を見ると、彼もまたその顔を青ざめさせていた。千早と目が合うと視線を逸らし、目で確認できるほど身体を震わせる。


「あの日から、伊吹がおかしいんだ」


 気にはなっていたが、無事だと勝手に思っていた。伊吹ならばきっと、と。

 ねぇ、と掴まれている右腕を引っ張られる。伊吹の母親を見ると、彼女は涙を流しながら笑みを浮かべていた。


「あんたのせいでしょ? あんたが無事なせいで、あんたが天羽々斬様に選ばれたせいで、伊吹があんな酷い目に遭った! あんたのせいだ! あんたが、あんたがいるから!」


 ぐい、ぐい、と何度も右腕を引っ張られる。その痛みから表情を歪ませると、気に入らなかったのか伊吹の父親が「何だその顔は」と呟いた。大股で千早に近付き、伊吹の母親を止めることなく右手を振り上げる。

 叩かれると千早は身を縮こまらせ目を瞑るが、伊吹の父親の手を止める音が聞こえた。おそるおそる目を開けると、誰かが千早を叩こうとしていた手を掴んでいる。


「そうやって、千早のせいにしてきたのだな」


 千早の後ろから聞こえる声。振り向かずともわかる。この声は──。


「いろは、さん」

「翁から千早の様子がおかしかったことを聞いたものでな」


 そう言うと、いろはは千早の右腕を掴む伊吹の母親の手も掴み、振り払うようにして離した。身動きが取れるようになった千早は二人から距離を取るように後ろに下がり、いろはに近付く。

 呼ぶこと自体はしていなかったものの、こうして来てくれたのが嬉しかった。一人ではないというのはこんなにも心強いのかと、千早は胸元で両手を握り締める。

 だが、まだ終わったわけではない。


「天羽々斬様、あなたにも訊きたかった。何故、うちの伊吹ではなく千早なのですか! そいつは何もできない奴なんですよ!?」


 伊吹の父親の剣幕にも動じず、いろはは千早を庇うようにして前に立つ。


「封印すら解かれてしまうような奴です! そいつが封印を何とかしていれば、八岐大蛇は」

「その口を即座に閉じよ」


 大きな声を出したわけではない。それでも、いろはの凜とした声が敷地内に響き渡ったような気がした。それほどの迫力。伊吹の両親は慌てて口を噤んだ。

 千早には後ろ姿しか見えていないが、いろはは静かに怒っている。まだ一週間と少ししか共に過ごしてはいないが、このような姿は初めて見た。


「千早、金色の瞳が意味するのは?」

「金色の瞳は、ご先祖様の力を継いでいるという証です。だから、封印を何とか……」

「それは違う」


 その場にいた三人はいろはを見た。やはりか、といろはは溜息を吐き、腕を組む。


「どこでねじ曲がったのかは知らんが、

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