第106話 レッドカード

 集中しなければならない、で集中できるほど、私の頭は聞き分けが良くない。


 いい加減わかっているつもりではいるのに、だからといって改善するのは難しかった。


「人見さん」


「はい! すみません!」


 マスターが私を呼ぶ声が厳しい。セットのスープを給仕し忘れたり、お客様が帰ったあと、食器を下げるだけで満足してテーブルを拭き忘れたり。


 人見と距離を置いてくれないかしら。


 そんな言葉が一条さんから飛び出さないかどうか、気になって仕方がなくて、九十九くんの前だというのにミスばかり犯してしまう。


「人見さん。もういいので、買い出しお願いできますか」


「でもマスター、まだ……」


「頭を冷やしてきなさい」


 ついには裏で、そう言われてしまった。イエローカードだ。戻ってきてもまだ使い物にならないようであれば、きっと今日はもう帰らされるだろう。


「行ってきます……」


 裏口から店を出て、渡されたお駄賃と買い物メモを手にとぼとぼと歩く。


 明日ちゃんと話そうって、そう思っていたのに。なんだか出鼻を挫かれたような気分だ。


 私と距離を置くように言われたら、彼はなんて答えるのだろう。


 私が、九十九くんと距離を置いて欲しいと言われた時。この話は飲むべきだって思ったはずなのに。


 嫌だって、言って欲しいと思ってしまう。私から離れることを、選んで欲しくないと思ってしまう。


 だけど、彼は本当は、どう思っているだろう。


 一条さんに言われた言葉が脳裏に浮かぶ。


 ――あなた達、一緒にいてもどこか息苦しそうだものね。


 一体、いつからこうなってしまったのだろう。


 たしか、あのクリスマスのダブルデートからだ。あの時の、冬紗先輩の言葉がきっかけで、ぎくしゃくしてしまって。そこに、バレンタインの出来事が重なって。


 私は、対応を間違えてしまっただろうか。民家の飾りを指差しながら二人で歩いた夜の住宅街。あの時感じた温もりが、今は遠い。


 彼の顔ももうずっと、何かに迷って、悩んで、戸惑って。そうだ。彼の笑顔も。あの時も、プラスの感情だけではなかったとは言え。


 冬紗先輩にもらったデジタルフォトフレームの中の一枚。丘の上の見晴らし台で、夜景を背にした私と彼。


 ――メリークリスマス。九十九くん。


 あの時以来、見れていないな。



−−−



 近場のスーパーで買い物を済ませ、裏口から店に戻る。まずは冷蔵庫に要冷蔵のものを仕舞わなくては。


 買い物袋を手に、チラリと店内を覗く。


 そこには先程、しばらく見れていないなと思い浮かべていた彼の笑顔があった。同じくしばらく見れていなかった、透明な箱も。


 下手をすれば、あの時より温かい笑顔。その先には、一条さん。


 それはまるで、私では駄目だったのだと証明しているようで。


「あぶな」


 買い物袋がするりと手から滑り落ちそうになったのを、しゃがみ込むようにして辛うじて掴む。危ない。卵も入っているのだ。落としたらまずい。


 ちゃんとキャッチできてよかった。立って、仕舞わなきゃ。立たなきゃ、いけないのに。


 ずるいよ。ひどい。九十九くんが、笑っている。私ではずっと、困らせてばかりだった九十九くんが。笑えている。


 なら、喜ばなくちゃ。いいことだよ。そうでしょう? だから、それは、我儘がすぎるというものだよ。甘えるにも、限度がある。


 なのに、どうしてこんなに胸が痛むの。


 どうして、素直に喜ぶことができないの。


「人見さん」


「マスター……」


 心配そうに覗き込むマスターの瞳に映る私は、ひどい顔をしていた。


 君の、「したい」や「欲しい」を叶えてあげたい。


 君が、心から笑う顔を撮りたい。


 君の、痛いも、辛いも、苦しいも、分けて欲しい。


 君の隣にいたい。


 私は、九十九くんが幸せでいることよりも、私がそれを叶えることを望んでしまっているのだと、今になって気がついた。


 私じゃなきゃ嫌だ。私はいつからこんなに、欲張りになってしまったんだろう。






 レッドカードが出た。私はエプロンだけを外して、裏口から家に帰された。


 お風呂に入っても。ご飯を食べても。ベッドに潜り込んでも。


 頭の中から、九十九くんの笑顔が消えない。

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