第90話 結季ちゃん先生のバレンタインクッキング
結季ちゃんのお家に着いて、準備を進める。どこに何があるのかを作業のたびに結季ちゃんに聞くのは手間なので、まずは器具や材料を出しておくところからだ。
買ってきた材料に、ボウルや篩など。並べてみると、さあやるぞ、という気になってくる。これだけ集中できていれば、ポンコツだなんて言われることもないだろう。
「時間がかかる順でいい?」
「その辺は任す」
「よろしくお願いします、先生」
ピシ、と敬礼しながらいえば、結季ちゃんの顔も引き締まる。先生モードだ。
「うん。じゃあ、真咲ちゃん。私が使うメレンゲお願いしていい? レシピ書き起こしてあるから」
「おう。任せろ」
「その間にチョコ溶かすから、一透ちゃん手伝って」
「はい先生。全部ですか?」
「私が使う分はバター混ぜるから、各々の分は分けて溶かそうか」
「はい先生」
先生の指示に従い、鍋を火にかけ、ボウルを用意する。結季ちゃんが必要な量のチョコレートを量り取ってボウルに入れ、私は温度計で鍋の温度を見る。
「五十度です先生」
「じゃあ、湯煎しておくね。溶けたチョコにバター混ぜるから、量っておいて」
「はい先生」
バターを量って戻る。チョコレートはもうボウルの中でしっかり溶けてきていた。結季ちゃんは、そこにバターを入れて混ぜる。その様子を、真咲ちゃんがボウルの中の卵白を必死にかき混ぜながら覗き込む。
「なあ、ハンドミキサーねえの?」
「欲しいんだけどね。流石にそこまでの頻度で作らないから。一透ちゃん、こっちのチョコ見ててもらっていい? チョコと混ぜ合わせるもの作っておくから」
「はい先生」
「なあ、もしかしてあたし今日、パワー要員か?」
「真咲ちゃんが一番力があるから。大変だと思うけど、お願い」
パワー要員真咲ちゃんは、卵黄と砂糖を混ぜ合わせる結季ちゃんから上目遣いでのお願いを喰らい、出力を上げた。効果は抜群だ。私があれを喰らえばひとたまりもないだろう。
結季ちゃんが作ったものに、私が見ていたチョコレートと生クリームを混ぜる。混ざったら、ココアパウダーや薄力粉をまた混ぜる。
「あとは、真咲ちゃんが作ってくれたメレンゲを混ぜて、型に流して焼けばわたしのは出来上がりかな。ね、簡単でしょ?」
「簡単……か?」
「先生がついててくれたら」
「はいはい。こっちの残りはわたしで進めるから、一透ちゃんのに着手しておいて。まず、湯煎のお湯を捨てていいから、その鍋で生クリームを温める」
先生の手となり足となり言われるがままに動いていたら、いつの間にか自分の番になっていた。やや緊張しながら、生クリームを火にかける。
「沸騰直前になったらボウルに移して、そのクリームでチョコ溶かせってよ。ほい、使い終わったボウル洗っといた」
「ありがとう、真咲ママ」
「誰がママだ」
突っ込みを入れつつも、私の分のチョコレートを取り分けておいてくれる。本当に母性を感じてしまいそうだ。私の実母にも負けていないかもしれない。
指示通り溶かしながら生クリームとチョコレートを混ぜ合わせる。段々と生チョコレートになっていく感触がなんだか面白い。
私が混ぜている間に、ガトーショコラをオーブンに入れ終えた結季ちゃんと真咲ちゃんが次の準備をする。
「わたしと一透ちゃんはチョコに混ぜものしたからやらなかったけど、真咲ちゃんのはコーティング用だから、一応ちゃんとテンパリングしながら溶かそうか」
「テンパリングってなんだ?」
「テレビで見たことある。アレだよね、大理石で伸ばすやつ」
どうやってやるんだよそんなもん、と鋭い突っ込みが真咲ちゃんから飛んでくるが、ここは結季ちゃんのお家だ。実はここにそれ用の大理石が、なんてこともあるかもしれない。
「何か期待されてそうだけど、それはプロのパティシエとかが大量のチョコをいっぺんにテンパリングするための手法だから、家では出来ないよ? 技術も要るし」
流石に大理石は出てこなかった。私は混ぜ終わった自分用のチョコレートを冷蔵庫に入れ、手順を間近で見学する。
「テンパリングって、要は温度管理のことだから。湯煎で溶かす、ボウルをお湯から水に移して温度を下げる、またお湯に戻して少し上げる、っていうのを、混ぜながらやるだけ。チョコの温度の状態だけちゃんと管理してね」
結季ちゃんはそう言いながら、実演して見せる。口で言われると簡単に聞こえるが、段階ごとに細かく適切な温度を覚え、その範囲で作業するよう気を配るのは結構大変そうだ。
真咲ちゃんなんか、聞いたそばから数字が頭から抜け落ちていそうな顔をしている。
「あたしの分だからあたしがやるけど、温度だけは都度指示してくれ。覚えられん」
「あっ、真咲ちゃん。水がボウルに入らないようにだけ気をつけてね。水が混ざっちゃうともう駄目になっちゃうから」
ボウルとゴムベラを受け取った真咲ちゃんの動作が急に緩やかなものになる。駄目になると言われたら、それは怖いだろう。
怯えつつも、結季先生の監督の元しっかりとテンパリングを終えたチョコレートが出来上がった。あとは、オレンジピールにコーティングしていく作業だ。
「数多いから、悪いけど手伝ってもらっていいか?」
「うん。もちろん。あっ、一透ちゃん、手伝う前に、テンパリングに使った水で氷水作っておいてくれる?」
「まだ何か冷やすの?」
「うん。一透ちゃん」
えっ。
「トリュフチョコ転がして形にする時、手の熱で溶けちゃうから。作業前になったらそれで手を冷やしてね」
まだ肌寒い二月の中旬に、氷水に手を突っ込むことになるとは思わなかった。部屋を暖房で暖めて貰えてるだけ、まだマシだろうか。
未来の作業に怯えながら氷水を作り、コーティング作業に合流する。袋から出したオレンジピールを、片っ端からチョコレートでコーティング。手で持つための場所を、三割ほどコーティングせず残しておく。
いくつか作ってキッチンペーパーを敷いたバットに並べると、
「一透ちゃん、そろそろチョコ冷えたと思うよ」
「……はい」
死刑宣告を受け、覚悟を決めて手を氷水に突っ込む。
「大丈夫か?」
「ちべたい」
「ははは、頑張れ。美味いもん期待してるからな」
期待を向けられたら、頑張らずにはいられない。応えなければ。しっかり冷えてプルプルと震える手を氷水から引き上げ、冷蔵庫のチョコを取り出す。先に取り出しておけばよかった。手が、冷たい。震える。
どうにか取り出している間に、チョコレートにつけるココアパウダーと丸めたチョコレートを置くバットを結季ちゃんが用意しておいてくれた。手順の甘い部分をカバーしてもらえて凄く助かる。
「よし」
気合を入れて、作業に入る。ボウルから固まったチョコレートを、適量スプーンで掬い取る。手のひらで転がして球状にし、ココアパウダーをまぶしてバットに置く。
直接材料に手で触れるタイミングはここしかない。料理の最高の隠し味は、愛情だという。籠められるとしたらここだ。
感じ取れたって意のままに操ることは出来ない私は、どうしたらそれを籠めることが出来るだろうか。
冬紗先輩の写真に、先輩のお兄さんが撮った写真に、宿っていたみたいに。どうしたら物に、心を籠めることが出来るだろうか。
今やり方を掴めたなら、先輩を素敵に撮ることだって出来るはずだ。九十九くんの隣に並んで、彼にずっと安心していてもらうことも、出来るはずだ。
自分の決意を無駄にしたくないなら、私はそれが出来るようにならなければいけない。
顔を思い浮かべる。私が大好きな人達の、大好きな顔。届け。伝われ。溶け込んで混ざりあえ。私は、それが起こるところを、九十九くんの心に見せてもらった。だから、出来るはずだ。
チョコレートを転がす。優しく丁寧に。気持ちが籠もるように、願いながら。
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