4 温室
住み込みでの仕事を探していた■■■の母親はヨハンソン家のメイドとして雇われた。母親は娘を連れて、屋敷で働くことになる。そこで、ミシェル・ヨハンソンの妻であるフローレンと出会った。顔を黒いヴェールで覆っていたが、鼻筋や凛とした瞳が薄いヴェールの下に透けて見えた。
「君にはメイドとしての家事と、私の妻のふりをしてほしい」
「どうして、そのようなことを?」
「私の顔を見て」
畏れ多いとしきりに頭を下げていた母親が目の前に立つフローレンを見上げると、答えはすぐにわかった。ヴェールの下、右頬にひどい火傷の痕があった。
「私の代わりに笑ってちょうたい」
ひきつった皮膚によって、笑う顔はいびつにみえた。
■■■が17歳になる頃、母親は病に倒れ、日に日に痩せていった。ミシェルが口の固い医者を呼んでくれたのだが、その頃には手遅れだと告げられた。ベッドで小さくなっていく母親は■■■の手を取り、この家を出なさいと言った。
「泣かないで、あなたが笑ってくれなきゃ」
母親が事切れた夜、フローレンは■■■を抱きしめそう言葉をかけた。背丈も同じで、髪の色も長さも同じ。黒いヴェールの下に出会った頃と変わらないいびつな笑みが見えた。■■■とフローレンは年齢がかけ離れていて、不自然なはずだった。けれども、■■■はフローレンとして笑みを作った。
この家で育ち、ヨハンソン家を愛したから。
フローレンはミシェルを心から愛しているから。
ミシェルも三人目のフローレンを心から愛しているから。
***
フローレンがデザートを取りに行くと、地下室への扉が開いていた。
どうして地下室の鍵を開けたのだろうと違和感を感じたとき、鍵を開けるように指示を出されたからだと一度は疑問は打ち消した。けれども、この扉は絶対に開けてはいけなかってはず。フローレンの胸に秘めた不安は催眠術を上回っるほどに強かった。そして未熟な催眠術が綻びだすと、穴は広がり脆くなる。最初に恐る恐る玄関の扉を開けて、ヴェロニカという少女の目を見たときに意識に靄がかかり始めたことを思い出した頃には、催眠術の効果は完全に切れていた。危険な子供だとわかり、とっさにヴェロニカを地下室に閉じ込めた。これで大丈夫。ヴェロニカの声はテオドールにまで届くこともなく、穏やかなディナータイムに戻った。
風呂の準備をしたフローレンは、外の空気を吸いたいと言うテオドールのために庭へ出た。広い庭にはカモミールの小さな花が咲いており、夜風に揺れている。月明かりが照らす小道の先にはガラス壁でできた建物がある。
「あれはグリーンハウス」
「見せてくれるかい?」
「えぇ、あなたが望むなら」
足音を響かせて、フローレンは返事をした。足取りは軽快に、根や葉を踏みしめて進んでいく。いつも歩く一人分の道なのに、そこにテオドールがいるだけでフローレンの心は満たされていた。
「フローレン、君のことを教えてほしい」
「私を?」
「深く知るほど、君を深く愛せるからね」
「ほんとうかしら」
フローレンはグリーンハウスのガラス扉を開けた。熱気のこもった植物の世界にテオドールは目を奪われた。そこで生まれ朽ちて、また育まれる。繰り返され続いていく時間のなかで、テオドールもヴェロニカも立ち止まってしまっている。二人とも朽ちるタイミングをずっと逃している。テオドールに限っていうと死ぬ回数は幾度もあったが、魂は天にも地獄にも行かないままに此処にあり続ける。動きのとれない不死は地獄だろうにと言われたことを思い出す。テオドールの記憶にも靄がある。はて、誰の言葉であったかと考えていた数秒で、フローレンは持ってきていたプランケットを敷き、テオドールをベンチに置いた。テオドールを揺らして落っことしてしまわぬように気を付けながら、二人掛けのベンチにフローレンも腰かけた。
「フローレン、君は本当は誰なんだい?」
「おかしなことを聞くのね。私はフローレン・ヨハンソン。ミシェル・ヨハンソンの妻の、フローレン・ヨハンソンよ」
「じゃあ、君の愛する夫。ミシェル氏はどこにいるんだい?」
そう尋ねるとフローレンは屋敷の方を見た。誰かに助けを求めるような不安そうな目だった。
フローレンの返事を待つ前に、左耳の穴にヴェロニカが潜り込んできた。嫌な羽音をさせて、また耳にちょんちょんと触れる。聞いてよ、奥さん。そんなふうに気安く耳の内側を叩かないでほしい。
――私が閉じ込められた地下室にヨハンソン夫妻と思しき二つの首があった。
地下室の隙間をヌカカとなって抜け出したヴェロニカはこっそりと人に戻り、部屋を見て回っていたらしい。どの部屋にも家族写真は飾られていなかった。どこにもないなら、逆にそれが夫妻であるとヴェロニカは結論付けた。ヴェロニカを閉じ込めたということは、フローレンが二人を殺したのかもしれない。しかし、フローレンがミシェルを思う気持ちが恨みとは思えない。会話で何度も名前を出すほどだ。殺しているなら、あえて話題にもしないように思う。フローレンは危ういが、凶悪な殺人鬼には見えない。
それにヴェロニカを閉じ込めた後から、ふわふわと浮遊するような、楽しい夢でも見てるかのようにずっと微笑んでいる。催眠術にかかっているときよりも浮わついているのはおかしい。もっと罪を隠すための焦りが見えてもおかしくはないはずだ。考えても、勝手に口は動く。そこに貴婦人がいるなら、尚更だ。
「君は僕とキスをしたじゃないか。 僕一人じゃ、足りないのかい?」
ようやく目が合ったフローレンは俯いてしまった。
「そうよね、二人に相談しなきゃ。ああ、でも地下にはあの子がいる」
ぽつりぽつりと声を漏らすフローレンを見て、テオドールは落ち着かせるように声をかける。
「大丈夫。ヴェロニカは君になにもしない。もしものときは僕を持って走ればいいんだ。そうすれば、あの子は灰になって消えてしまうんだから」
テオドールの耳の中で、ヴェロニカが抗議の声をあげている。テオドールができるヴェロニカへの逆襲であり、ただの興味本位だ。ヨハンソン家の謎。ドラマの続きを一週間待つのは御免だ。
「テディ、あなたは私を守ってくれるの?」
「あぁ、もちろんさ」
君が一番さと告げると、フローレンはテオドールを持ち上げ啄むようなキスをした。
テオドールはフローレンのほしい言葉をくれる。
手のひらの上という言葉をテオドールに当てはめていいものか、耳の中のヴェロニカには考えていた。
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